赤い灯台は、帰れない人を待っていた ――県警のエースがいない朝、新米刑事は“四十六年前の忘れ物”を探す
大城誠司警部が沖縄本島へ長期出張してから、五日が過ぎていた。
その間も南ぬ島の海は青く、観光客は笑い、港には朝夕の船が行き交っている。
大城がいなくても、島は何事もなく動いていた。
もっとも、その事実を大城本人へ伝える時には、多少の配慮が必要だった。
朝九時半。
「島カフェ しおかぜ」の窓際では、宮城咲希巡査が沖縄本島にいる大城と映像通話をしていた。
画面の向こうの大城は、出張先のホテルのラウンジにいるらしい。
薄いグレーのジャケットに白いシャツ。朝から髪も乱れておらず、背後には意味ありげな観葉植物が見える。
どうやら、自分が最も格好よく映る場所を選んだようだった。
「宮城巡査」
大城はコーヒーカップを片手に、いつもの低い声で言った。
「私が不在だからといって、気を緩めてはいないだろうね」
「はい。署内外の状況確認を徹底しています」
「返事が速すぎる」
「え?」
「用意していた答えのように聞こえる」
咲希は一度息を整えた。
「……はい。状況を確認したうえで、お答えしています」
「今度は間が長い」
咲希の眉が、ほんのわずかに下がる。
そこへ、注文された黒糖プリンを運んできた亮介が画面をのぞき込んだ。
「警部さん。沖縄本島からでも、咲希さんの返事に文句をつけるんですね」
大城は、画面の端に現れた亮介を見た。
「ウェイター君。私の留守中、玲奈さんの店は無事なのかね」
「この前、偽札犯を体で止めたばかりでしょう」
「その話はすでに聞いた」
「もう少し余韻に浸らせてくださいよ。俺の人生で、あれほど格好よかった時間は十五分しかないんです」
カウンターの奥でコーヒー豆を量っていた玲奈が、顔を上げずに言う。
「貨物桟橋へ向かって走った時間を含めると、十八分ほどです」
亮介の顔が明るくなる。
「三分増えた!」
「途中で一度立ち止まり、靴紐を結び直した時間も含んでいます」
「そこは格好いい十八分から差し引いてください」
大城がニヒルに口元を緩めた。
「ウェイター君。過去の功績へすがり始めたら、人間は終わりだよ」
「五日前の話です!」
「時間の長さではない。姿勢の問題だ」
「出張先から俺の人生を終わらせないでください」
咲希が思わず笑う。
その笑顔を確かめた大城は、わずかに満足そうな顔でコーヒーを飲んだ。
「まあ、島の治安が保たれているなら何よりだ」
「警部さんがいなくても、南ぬ島は平和ですよ」
亮介が言う。
大城は動じない。
「平和とは、優秀な人間が残していった抑止力によって保たれるものだ」
「沖縄本島からでも、自分のおかげにした!」
「私が島を離れる前に、犯罪者へ与えた心理的圧力が残っているのだろう」
「島中の犯罪者が、警部さんの出張日程を把握している前提なんですか?」
大城は亮介の質問には答えず、玲奈へ視線を向けた。
「玲奈さん。何か困ったことがあれば、遠慮なく連絡してください」
「八重山警察署へ連絡します」
「私個人へでも構いません」
「まず署へ連絡します」
大城は一瞬だけ黙った。
亮介がすかさず言う。
「警部さん、二回断られましたよ」
「ウェイター君」
「はい」
「映像通話にも、距離感というものがある。画面から離れなさい」
「警部さんの画面でしょう!」
通話が終わる。
咲希は、黒糖プリンの隣へスマートフォンを置いた。
「大城警部、出張先でも変わりませんね」
玲奈が温かい紅茶を添える。
「大城警部なりに、咲希さんを心配されているのでしょう」
「そうでしょうか」
「心配していなければ、朝から映像の背景まで整えて電話はしないと思います」
亮介が窓際の席へ座る。
「背景は咲希さんじゃなく、玲奈さんを意識したんじゃないですか?」
「亮介さん。仕事へ戻ってください」
「俺の分析だけ扱いが軽い!」
咲希はまた小さく笑った。
偽札事件の前までなら、大城が不在というだけで落ち着かなかった。
何かを見落としているのではないか。
自分の判断が間違っているのではないか。
だが今は、完璧ではなくても自分で考え、間違えたら修正すればよいと、少しずつ思えるようになっていた。
その朝も、何事もなく過ぎていくはずだった。
午前十時を少し回った頃、本土から来たという母娘が「しおかぜ」を訪れた。
母親は七十二歳の藤野瑠美子。
娘は四十五歳の藤野佳奈。
二人は三泊四日で南ぬ島を旅行しており、その日が最終日だという。
瑠美子は白いブラウスに淡い青のロングスカートを合わせ、つばの広い帽子をかぶっていた。
年齢よりも若々しく、目には少女のような好奇心が残っている。
肩に掛けた布製の鞄からは、何本もの絵筆と小さな水彩絵具がのぞいていた。
一方の佳奈は、店へ入った時から母親の足元や荷物を気にしている。
「お母さん。今日はあまり遠くまで歩かないでね」
「分かってるわよ。子どもじゃないんだから」
「昨日もホテルへ戻る道を間違えたでしょう」
「あれは間違えたんじゃないの」
「では、何だったの?」
「景色のいい道を選んだのよ」
「ホテルへ着くのが一時間遅れたじゃない」
「一時間長く島を見られたでしょう」
亮介がメニューを持ってくる。
「お母様、前向きですね」
佳奈は困ったように笑った。
「昔からこうなんです。最近は少し物忘れも増えて、余計に心配で」
瑠美子は亮介へ顔を寄せ、小声で言う。
「娘は心配性なの。四十五歳なのに、私のことになると小学一年生みたいになるのよ」
「お母さん。全部聞こえてる」
亮介が真剣な顔で頷く。
「四十五歳の小学一年生。なかなか複雑ですね」
玲奈が横から訂正する。
「例えをそのまま受け取らないでください」
「親子関係の奥深さを表現しました」
「混乱させただけです」
母娘は海の見える窓際の席へ座り、島野菜のサンドイッチと黒糖プリンを注文した。
料理を待つ間、瑠美子は小さなスケッチブックを開く。
ページには、旅の途中で描いたらしい南ぬ島の景色が並んでいた。
白い船の浮かぶ港。
赤瓦の家。
珊瑚石の塀。
風に揺れるサトウキビ畑。
どの絵にも淡く柔らかな色が使われ、見慣れた島の景色が少し優しく見えた。
だが、最後のページだけは様子が違った。
海辺に立つ古い赤い灯台。
灯台そのものは細かく描き込まれているが、空と海の一部にはまだ色がない。
描きかけの絵だった。
黒糖プリンを運んできた玲奈が、スケッチブックへ目を留める。
「きれいな灯台ですね」
瑠美子は、絵の上へそっと手を置いた。
「昔、この島にあった灯台なの」
「今はないのですか?」
「まだあるわ。でも、もうすぐなくなるみたい」
瑠美子は窓の外へ目を向けた。
懐かしさの中に、わずかな寂しさを含んだ目だった。
「撤去される前に、一度見ておきたかったの」
佳奈がすぐに反応する。
「灯台を見たいなんて、聞いてないよ」
「言ってないもの」
「どこにあるの?」
「島の北のほう」
「そんな遠いところ、今から行けないでしょう」
「だから、見たいとは言わなかったのよ」
「言わなかったら、もっと行けないじゃない」
瑠美子は小さく笑い、黒糖プリンを一口食べた。
「美味しい」
それ以上、灯台の話は続かなかった。
佳奈が化粧室へ立ったのは、その直後だった。
「お母さん。ここで待っていてね」
「分かってるわよ」
「絶対に動かないで」
「椅子ごと出ていったりしないわ」
亮介が会話へ加わる。
「椅子は店の備品なので、持ち出し禁止です」
玲奈が冷静に言う。
「そういう心配ではありません」
「念のため確認しました」
佳奈が化粧室へ入る。
ほぼ同時に店の電話が鳴り、玲奈はカウンターへ戻った。
テラス席の客から呼ばれ、亮介も店の外へ出る。
ほんの数分。
店内の誰もが、瑠美子の席から目を離した。
佳奈が化粧室から戻ってきた。
「お母さん?」
窓際の席は空になっていた。
テーブルには、食べかけの黒糖プリン。
財布。
携帯電話。
ホテルのカードキー。
そして、描きかけの赤い灯台の絵が残されている。
「お母さん?」
佳奈は店の中を見回した。
化粧室にもいない。
テラスにもいない。
店の外へ出ても、通りに姿はなかった。
「お母さん!」
呼ぶ声が切迫していく。
「携帯も財布も置いたままです。最近、少し物忘れが増えていて……」
店の周辺を捜したが、見つからない。
八重山警察署へ通報が入り、その時「しおかぜ」の近くにいた咲希が現場へ駆けつけた。
七十二歳の観光客。
携帯電話も財布も持たず、土地勘のない島で行方不明。
気温はすでに上がり始めている。
海岸には足場の悪い場所も多い。
一刻も早く発見しなければならない。
咲希は警察手帳を開いた。
「最後に姿を確認したのは、何時頃ですか?」
佳奈が震える声で答える。
「十分くらい前です」
「服装は、白いブラウス、淡い青のスカート、白い帽子で間違いありませんか?」
「はい」
「持病はありますか?」
「血圧の薬は飲んでいます。でも薬も鞄に入ったままで……」
「認知症の診断は?」
「ありません。ただ最近、同じことを何度も聞いたり、道を間違えたりすることが増えていました」
「これまでに、目的地が分からなくなったことは?」
「昨日もホテルへの道を……」
佳奈の顔がさらに青ざめる。
咲希は、物忘れによる徘徊の可能性を考えた。
何かに誘われるように店を出て、帰り道が分からなくなった。
「まず、店を中心に周辺の道路と海岸を捜索します。ご本人が目的なく歩き続けている可能性もあります」
その時、玲奈が静かに尋ねた。
「咲希さん。瑠美子さんは、本当に何も分からずに出ていかれたのでしょうか」
咲希が振り返る。
「財布も携帯電話も置かれています。ご家族のお話からも、道に迷った可能性は高いと思います」
玲奈は、瑠美子が座っていたテーブルへ目を向けた。
財布と携帯電話は、無造作に置かれているのではない。
二つともテーブルの中央にきれいに並び、その上へホテルのカードキーが重ねられている。
「忘れた方の置き方にしては、少し整いすぎているように思います」
「意図的に置いていったということですか?」
「断定はできません」
玲奈は食べかけの黒糖プリンを見る。
スプーンは皿の右側へ揃えられ、椅子もテーブルの下へ戻されている。
「突然、何も分からずに出ていかれたというより、用事を済ませたら戻るつもりで席を離れたように見えます」
咲希は、もう一度テーブルを見る。
偽札事件の時と同じだった。
目立つ事実だけに引っ張られず、その場に残された人の行動を見る。
年齢。
物忘れ。
携帯電話を置いていったこと。
それらから「迷った」と結論づけようとしていた。
だが、瑠美子が自分の意思で出ていった可能性もある。
「お母さんは、何か行きたい場所の話をしていませんでしたか?」
咲希が改めて佳奈へ尋ねる。
佳奈は首を横へ振りかけ、描きかけの絵を見た。
「赤い灯台……」
亮介がテーブルの下を調べる。
椅子の脚の近くから、小さな紙片を見つけた。
「何か落ちています」
古い絵はがきだった。
表には、スケッチブックに描かれていたものと同じ赤い灯台。
裏面には、色褪せた青いインクで短い文章が記されている。
次に島へ来たら、今度こそ最後まで描こう。
海の色は、君に任せる。
日付は四十六年前。
差出人は、島袋正一。
佳奈はその名前を知らなかった。
「誰、この人……」
咲希は瑠美子のスケッチブックを慎重に確認する。
ページの間から、地方紙の小さな切り抜きが見つかった。
島北部の岬に残る古い赤色航路標識が、老朽化のため近く撤去されるという記事だった。
記事の端には、瑠美子の文字で日付が書かれている。
旅行最終日の、今日の日付。
「藤野さんは、赤い灯台へ向かった可能性があります」
咲希が言う。
だが、現在地から灯台まではかなり遠い。
徒歩で短時間に行ける距離ではなかった。
「タクシーでしょうか」
「財布はここです」
佳奈がテーブルを指す。
亮介が何かを思い出す。
「財布がなくても、北部へ行ける車があります」
「何ですか?」
「観光農園の無料送迎車です。朝、港周辺を回ってから北部へ向かいます。この通りの角にも停まるはずです」
亮介は店の外へ飛び出し、近隣の店へ聞いて回った。
数分後、白い帽子をかぶった高齢の女性が送迎車へ乗り込む姿を見たという証言が得られる。
観光農園へ連絡すると、運転手も瑠美子らしき女性を覚えていた。
農園の手前にある、旧灯台入口で降ろしたという。
咲希はすぐに署へ応援を要請した。
しかし、旧灯台へ続く正規の遊歩道は、一部が崩れて通行止めになっている。
現在は大きく迂回しなければならない。
反対側の海岸には、地元の漁師が使っていた古い作業道が残っているが、道幅が狭く、警察車両は入れない。
亮介がエプロンを外した。
「俺、海側から行きます」
玲奈が見る。
「また走るんですか?」
「偽札事件で、四国八位の有効期限がまだ残っていることは証明されました」
咲希が真面目な顔で尋ねる。
「競技実績に有効期限はあるんですか?」
「本人がまだ走れると思っている間は有効です」
玲奈が答えた。
亮介が抗議する。
「それだと、自己申告だけの人みたいに聞こえます」
「実際、確認できる資料を見せていただいたことはありません」
「四国八位は俺の心に記録されています」
「公的記録ではないんですね」
「今は過去の栄光を検証している場合じゃありません!」
亮介は靴紐を締め直す。
咲希は咲希で、警察車両を使い、正規ルートから灯台へ向かうことにした。
玲奈は、出発しようとする二人へ声をかけた。
「咲希さん、亮介さん」
二人が振り返る。
「瑠美子さんを見つけても、すぐに無理やり連れ戻そうとはしないでください」
「どうしてですか?」
咲希が尋ねる。
玲奈は、描きかけの灯台を見る。
「瑠美子さんは、道に迷っているのではなく、何かを終わらせるために向かったのかもしれません」
玲奈の言葉を胸に、二人は店を出た。
亮介は海沿いの古い作業道を走った。
偽札犯を追った時ほど速度は出せない。
道には珊瑚石が転がり、草木が伸びている。
一度目は木の根につまずいた。
二度目は帽子を低い枝へ持っていかれた。
三度目には、道を間違えて行き止まりへ入りかけた。
「四国八位、山道は専門外なんだよ……」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び走り始める。
岬へ近づくにつれ、赤い灯台の先端が木々の間から見えた。
塗装はところどころ剥がれ、海風にさらされた金属部分には赤茶色の錆が浮いている。
かつて船を導いた光は、すでに消えていた。
その灯台の下。
小さな岩へ腰を下ろし、スケッチブックを膝に置く女性がいた。
白いブラウス。
淡い青のスカート。
脇には白い帽子。
藤野瑠美子だった。
亮介は息を切らしながら近づく。
「藤野瑠美子さんですね」
瑠美子が振り返った。
「あら。カフェのウェイターさん」
「皆さん、心配してますよ」
「そうでしょうね」
あまりにも落ち着いた返事だった。
亮介は膝へ手をつき、呼吸を整える。
「分かってて、出てきたんですか?」
「少しだけ、ここへ来たかったの」
「少しだけにしては、ずいぶん遠いですよ」
「昔は、もっと近く感じたのよ」
亮介は瑠美子の隣へ腰を下ろす。
手にしている絵は、もうほとんど完成していた。
赤い灯台。
その周囲の空。
遠くの雲。
しかし海の一部だけが、白いまま残されている。
「四十六年前にも、ここへ?」
瑠美子の筆が止まった。
亮介は、店で見つけた古い絵はがきについて話した。
「島袋正一さんという方と、一緒に絵を描いたんですか?」
瑠美子はしばらく海を見つめた。
「正一さんは、島の小学校で先生をしていた人よ」
四十六年前。
二十六歳だった瑠美子は、本土の出版社に勤めながら、絵本作家を目指していた。
取材旅行で初めて南ぬ島を訪れ、地元の子どもたちに絵を教えていた正一と出会った。
正一は口数こそ少ないが、島の海や植物の名前をよく知っていた。
二人は数日間、一緒に島を歩いた。
瑠美子が絵を描き、正一が土地の話をした。
赤い灯台へ来た日、二人は一枚の水彩画を描き始めた。
正一が灯台の輪郭を描き、瑠美子が海と空に色をつける。
ところが、絵が完成する前に台風が近づいた。
瑠美子は予定を早め、本土へ帰らなければならなかった。
その後、正一から赤い灯台の絵はがきが届いた。
次に島へ来たら、今度こそ最後まで描こう。
しかし、瑠美子は仕事に追われた。
結婚し、佳奈を産み、子育てと家事と仕事の中で日々を過ごした。
正一も島で別の女性と結婚し、家庭を持った。
二人が再び会うことはなかった。
「あの人に恋をしていたのかと聞かれたら、今でも分からないわ」
瑠美子は穏やかに言う。
「ただ、あの頃の私は、自分が何にでもなれる気がしていたの」
本当に絵を描く人になれる。
見たことのない場所へ行ける。
自分の人生を、自分で選び取れる。
赤い灯台の前で過ごした数日間だけ、未来がどこまでも広がっているように思えた。
数年前、正一が亡くなったことを、共通の知人から聞いた。
そして今回、灯台まで撤去されると知った。
「娘に話したら、危ないから行かないでって止められると思ったの」
「実際、止めるでしょうね」
「だから、少しだけ抜け出したの」
「携帯と財布まで置いて?」
瑠美子は悪戯を見つかった子どものように笑う。
「携帯を持っていたら、すぐ見つかるでしょう」
亮介は呆れた。
「そこは、ずいぶん計画的なんですね」
「迷子だと思った?」
「最初は」
「あなたも警察の人なの?」
亮介は一瞬、胸を張りかけた。
「元詐欺師のウェイターです」
瑠美子は目を丸くする。
「また、ずいぶん信用しにくい肩書ね」
「最近は元ラガーマンと四国八位も付きます」
「何の四国八位?」
「千五百メートルです」
「情報を足すほど、あなたが何者か分からなくなるわ」
「よく言われます」
瑠美子が小さく笑う。
亮介は、描きかけの海を見る。
「あと少しですか?」
「海の色が決められなくて」
「目の前にありますよ」
「四十六年前の海とは違うもの」
瑠美子は遠い水平線を見た。
「正一さんと見た海は、もっと明るかった気がするの。でも、海が明るかったんじゃなくて、私が若かったから、そう見えただけかもしれない」
亮介はしばらく考えた。
そして、白く残った部分を指す。
「思い出と同じ色にしなくてもいいんじゃないですか」
「え?」
「四十六年前の続きでも、今描いているのは、今の藤野さんでしょう」
瑠美子が亮介を見る。
「今、目の前に見えている海を塗ればいい。昔と同じじゃなくても、続きにはなると思いますよ」
瑠美子の顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「元詐欺師にしては、いいことを言うのね」
「元詐欺師だから、たまには本当のことを言うんです」
「順番が逆でしょう」
「それもよく言われます」
その時、遠くから咲希の声が響いた。
「藤野さん!」
正規の迂回路を通った咲希と警察官たちが、灯台へ近づいてくる。
少し遅れて、佳奈も姿を見せた。
母親を見つけた佳奈は、怒りと安堵が入り混じった顔で駆け寄る。
「お母さん!」
「佳奈」
「何を考えてるの! 携帯も財布も置いて、勝手にいなくなって!」
「ごめんなさい」
「どれだけ心配したと思ってるの!」
佳奈の目から涙があふれた。
「道が分からなくなったのか、倒れているのか、海へ落ちたのかって……」
瑠美子は絵筆を握ったまま、目を伏せる。
「本当に、ごめんなさい」
咲希は二人の前へ立った。
すぐに危険な行動を叱ることもできた。
一刻も早く連れ帰ることもできた。
しかし、玲奈の言葉を思い出す。
瑠美子は迷ったのではない。
何かを終わらせるために、ここへ来たのかもしれない。
咲希は、瑠美子のスケッチブックを見た。
「藤野さん」
「はい」
「帰りたくなかったのですか?」
佳奈が驚いたように咲希を見る。
瑠美子は、しばらく答えなかった。
やがて、小さく首を横へ振る。
「帰りたくなかったわけじゃないの」
赤い灯台へ目を向ける。
「帰る前に、終わらせたかったの」
瑠美子は、四十六年前の出来事を佳奈へ話した。
正一との出会い。
二人で描き始めた灯台。
果たせなかった約束。
絵本作家を目指しながら、いつしか絵を描くことから離れていったこと。
夫と過ごした人生が不幸だったわけではない。
佳奈を育てた日々を後悔しているわけでもない。
むしろ、幸せだった。
だからこそ、正一との思い出を話せば、夫との人生を否定するように受け取られるのではないかと怖かった。
「お父さんを裏切っていたわけじゃないの」
瑠美子は言った。
「ただ、あの頃の私が途中に置いてきた絵を、最後まで描いてあげたかったの」
佳奈は黙って母親の話を聞いていた。
それから、瑠美子の手からスケッチブックを受け取る。
「きれい」
絵の海には、まだ白い部分が残っている。
「でも、ここが塗れてない」
「海の色が分からなくなったの」
佳奈は目の前の海を見る。
「今の色でいいんじゃない?」
瑠美子が娘を見る。
佳奈は続けた。
「四十六年前の続きを描きに来たんでしょう。でも、今のお母さんが見ている海も、絵に入れたほうがいいよ」
少し離れたところにいた亮介が、思わず声を上げる。
「俺と同じことを言いました!」
咲希が振り返る。
「今は静かにしてください」
「俺の助言が親子へ継承された重要な場面です」
「台無しになります」
「はい」
亮介は素直に一歩下がった。
瑠美子の目に涙が浮かぶ。
「佳奈。怒っていないの?」
「怒ってるよ。ものすごく怒ってる」
「そうよね」
「でも、怒るのは絵を完成させてからにする」
佳奈は母親の隣へ座った。
足場の崩れた灯台の真下で、絵を続けさせるわけにはいかない。
咲希は周囲を確認した。
少し離れた場所に、灯台と海を見渡せる平坦な展望場所がある。
「藤野さん。ここは危険です」
瑠美子の顔が曇る。
「あと少しなの」
「安全な場所へ移って、続きを描きませんか」
以前の咲希なら、危険だからすぐ移動してくださいと命じていたかもしれない。
しかし今は、瑠美子の目的を奪わずに安全を確保する方法を考えている。
「画材はこちらでお運びします。灯台が見える場所です」
瑠美子は咲希の顔を見て、ゆっくり頷いた。
「お願いします」
亮介が水彩絵具を持つ。
佳奈がスケッチブックを抱える。
咲希は瑠美子の足元を支え、安全な展望場所へ案内した。
そこで瑠美子は、もう一度絵筆を取った。
目の前の海から、今の自分が見ている色を探す。
若い頃に見た鮮やかな青とは違う。
少し灰色を含み、光の反射が銀色に揺れる、静かな海。
四十六年という時間を越えてきた瑠美子にしか塗れない色だった。
最後の一筆を置く。
赤い灯台の絵が、ようやく完成した。
瑠美子は長い息を吐いた。
その顔は、何かを失った人ではなく、長い間預けていたものを、ようやく自分の手へ取り戻した人のようだった。
「これで、帰れるわ」
佳奈は母親の肩を抱く。
「次から、帰る前に寄りたい場所があったら、ちゃんと言って」
「一緒に来てくれる?」
「危なくない場所ならね」
「注文が多いわね」
「誰のせいよ」
二人は涙を浮かべながら笑った。
夕方。
「しおかぜ」へ戻った瑠美子と佳奈の前へ、玲奈は新しい黒糖プリンを二つ置いた。
「先ほどのものは、すっかり柔らかくなってしまいましたから」
瑠美子は深く頭を下げる。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
「お戻りになって何よりです」
玲奈は、完成した赤い灯台の絵を見る。
「素敵な海の色ですね」
「今の私が見た海なの」
「だから、穏やかな色なのですね」
瑠美子は新しい黒糖プリンを一口食べる。
「今度こそ、最後まで食べるわ」
佳奈が母親の携帯電話をテーブルの中央へ置く。
「次にどこかへ行く時は、これも持っていって」
「位置情報を見るつもり?」
「当然です」
「信用がないのね」
「今日一日で使い切ったの」
それでも佳奈の声は、もう怒っていなかった。
二人のやり取りを見届けた咲希は、沖縄本島にいる大城へ報告した。
画面の向こうの大城は、ホテルの部屋で腕を組んでいる。
「当初、物忘れによる徘徊だと判断しかけた点は減点だ」
「はい」
「行方不明者の年齢や家族の証言だけで、その行動の意味を決めつけてはいけない」
「はい」
大城は一度目を伏せ、報告内容を確認した。
「しかし、本人の安全を確保しながら、目的を尊重する方法へ切り替えた点は評価する」
咲希は静かに待つ。
「八十点だ」
咲希の目が明るくなった。
「ありがとうございます」
「偽札事件より五点上がったね」
横で聞いていた亮介が、画面へ顔を出す。
「警部さん。俺は?」
大城の眉が動く。
「また君か」
「海側の険しい道を走り、行方不明者を最初に発見しました」
「七十二歳の女性へ、自分が元詐欺師だと名乗ったとも聞いている」
「誠実さを評価してください」
「相手を不安にさせただけではないのか」
瑠美子が、黒糖プリンの席から声をかける。
「面白いウェイターさんでしたよ」
亮介は誇らしげに胸を張る。
「ほら、ご本人から高評価です」
大城はニヒルな表情を崩さない。
「物珍しさと信頼は、別のものだよ。ウェイター君」
「沖縄本島からでも小馬鹿にしてくる!」
「それに、途中で道を間違えたそうだね」
亮介が玲奈を見る。
「また報告しました?」
「咲希さんの報告です」
咲希が真面目に頷く。
「捜索経路の記録として必要でした」
「今日は皆さん、警察側ですね」
「亮介さん以外は、もともと警察関係者です」
「玲奈さんは卒業したでしょう!」
玲奈は穏やかに答える。
「もう警察は卒業していますから」
「卒業しても、報告の正確さだけ残ってる!」
大城との通話が終わる。
亮介は、完成した赤い灯台の絵を眺めた。
「玲奈さん。この絵、店に飾りませんか?」
瑠美子が驚く。
「いいの?」
「もちろんです。『四国八位が発見した赤い灯台』として」
玲奈が即座に訂正する。
「藤野さんが四十六年かけて完成させた絵です」
「説明文の片隅に、俺の名前を入れましょう」
「必要ありません」
「第一発見者ですよ?」
「作品の一部ではありません」
亮介は紙とペンを持ってきた。
四十六年の時を越え、赤い灯台との約束を完成させた感動作。
発見協力――元詐欺師、元ラガーマン、千五百メートル四国八位、亮介。
玲奈が紙を取り上げる。
「肩書が長すぎます」
「どれを削ります?」
「すべてです」
「名前も?」
「絵の題名だけで十分です」
咲希が紹介文を読む。
「『元詐欺師』は、カフェの壁へ掲示する説明として適切ではないと思います」
「では、『現在は更生している元詐欺師』に」
「さらに長くなりました」
カウンター席の奈央も文庫本から顔を上げる。
「四国八位も、絵とは関係ありませんよね」
「俺が走って見つけたという、作品成立の背景です」
瑠美子は笑いながら言った。
「絵の裏へ、小さく書いてあげたら?」
亮介の顔が輝く。
「藤野さんは分かっていますね!」
玲奈は少し考えた後、絵の裏側へ一行だけ書くことを認めた。
亮介は嬉しそうにペンを持つ。
発見協力・亮介――千五百メートル四国八位。
玲奈が横から見る。
「四国八位は削ってください」
「それを削ったら、ただの亮介になってしまいます!」
「亮介さんは、ただの亮介さんです」
「俺の人生には肩書が必要なんです!」
「今は『しおかぜのウェイター』です」
亮介は少し考える。
「では、『しおかぜの敏腕ウェイター・亮介』で」
「敏腕を削ってください」
「また、ただのウェイターに戻った!」
咲希が吹き出す。
佳奈も笑い、瑠美子は完成した絵を見ながら、黒糖プリンを最後の一口まで食べた。
「美味しかった」
玲奈が空になった皿を下げる。
「次は、最初から最後までゆっくり召し上がってくださいね」
「ええ。今度は娘と、最初から一緒に」
「逃げ出さないでよ」
「少しくらいなら」
「駄目です」
母娘の笑い声が重なる。
大城警部が不在となってから、二つ目の事件。
けれど、この日逮捕される者はいなかった。
赤い灯台へ向かった女性は、道を見失った迷子ではない。
四十六年前の自分が置いてきた約束へ、最後の色を塗りに行っただけだった。
咲希はその日、行方不明者を見つけるだけではなく、人が家へ帰れなくなる理由には、恐怖や混乱だけでなく、終わらせていない思いもあることを知った。
玲奈の静かな観察。
亮介の少し騒がしい疾走。
そして、母親の知らなかった時間を受け入れた娘の優しさ。
それらが、瑠美子のために新しい帰り道を作った。
数日後。
「しおかぜ」の壁には、完成した赤い灯台の絵が飾られた。
瑠美子が付けた題名は、
『帰る前に見た海』
だった。
赤い灯台の足元には、四十六年前の鮮やかな青ではなく、今の瑠美子が見た穏やかな銀青色の海が広がっている。
絵の裏には、誰にも見えないほど小さな文字が残されていた。
発見協力・亮介。
玲奈はそれを見つけたが、消さなかった。
ただし、その下へ亮介が勝手に書き足した、
千五百メートル四国八位。店内正面への名前掲示を希望。
という二行だけは、迷わず消した。
「玲奈さん。俺の功績が消えています!」
「藤野さんの絵です」
「歴史の裏側には、必ず名もなき功労者がいるんですよ」
「ご自分で名前を書いています」
「名もある功労者です!」
咲希の明るい笑い声が、午後の「しおかぜ」に広がる。
窓から潮風が入り、白いカーテンを揺らした。
その向こうで、赤い灯台の絵が柔らかな光を受けている。
もう本当の海で船を導くことはない。
それでも店の壁の上では、帰る場所を見失いそうな人へ、静かに道を示していた。
帰る前に、一つだけ終わらせたいことがあるなら。
帰り道は、それを待っていてくれる。
少しくらい遠回りをしても、黒糖プリンが柔らかくなってしまっても。
最後に誰かと笑って帰れるなら、それは迷子ではないのかもしれなかった。




