偽札は潮風に乗れない ――県警のエースが島を離れた午後、四国八位のウェイターが港への道を駆け抜ける
大城誠司警部が沖縄本島への長期出張を翌日に控えた午後、「島カフェ しおかぜ」には、本人だけが演出している別れの空気が漂っていた。
窓際のいつもの席。
食べ終えた島野菜パスタの皿。
半分ほど残った食後のコーヒー。
大城は椅子の背へ静かに体を預け、窓の向こうに広がる南ぬ島の海を眺めていた。
薄いグレーのジャケットの袖口を整え、潮風に横顔をさらす姿は、本人の中では長期任務へ旅立つ刑事ドラマの主人公そのものらしい。
「ボクは、しばらく不在となる」
低く、よく通る声だった。
カウンターの奥で黒糖プリンへ琥珀色のソースをかけていた玲奈が、手を止めずに頷く。
「沖縄本島へ長期出張でしたね。お気をつけて」
「島の治安については、多少心配だが――」
空いたグラスを下げに来た亮介が、すぐに口を挟んだ。
「警部さん一人がいなくなるだけで、南ぬ島の治安が崩壊するみたいに言わないでください」
大城は亮介を見ようともしなかった。
「宮城巡査には、私の留守を預かる者として、自覚を持って職務に当たってもらいたい」
向かいの席に座る咲希が、反射的に背筋を伸ばす。
「はい。ご指導いただいたことを忘れず、全力を尽くします」
「力みすぎるな。力みは視野を狭くする」
「はい」
「返事が硬い」
「……はい」
出張前日まで指導を緩めるつもりはないらしい。
大城は満足そうにコーヒーを一口飲み、ようやく亮介へ視線を向けた。
「そして、ウェイター君」
「何ですか。その壊れやすい荷物を見るような目は」
「玲奈さんを、しっかり守りなさい」
亮介の手が止まった。
「どうして警部さんに玲奈さんを任されなきゃいけないんですか。俺は毎日この店で働いてますよ」
大城はわずかに口角を上げた。
「日常的に近くにいることと、頼りになることは別の問題だからね」
「出張前に、わざわざ俺を小馬鹿にしに来たんですか?」
「小馬鹿にはしていない。現状を正確に評価しているだけだ」
「もっと悪いですよ」
大城は玲奈へ目を向ける。
「もっとも、玲奈さんならば、ウェイター君に守られなくても心配はないと思いますが」
「命令した三秒後に、俺を戦力外へ落とさないでください!」
玲奈が冷静に言う。
「大城警部。私の心配より、出張先でご自分が問題を起こさないようお気をつけください」
大城の表情が、一瞬だけ止まった。
しかし、玲奈の前で動揺を見せるわけにはいかない。
コーヒーカップを静かに置き、むしろ先ほどより低い声を作る。
「相変わらず、頼もしいですね」
亮介は呆れた。
「今、注意されたのを褒め言葉へ変換しましたね」
「会話には流れというものがあるんだよ、ウェイター君」
「警部さんの場合、どんな流れでも最後は玲奈さんを褒める川へ合流するんですよ」
「海へ注ぐ川は、進む先を知っているものだ」
「また名言風にした!」
カウンター席で本を読んでいた奈央が、文庫本から顔を上げる。
「大城警部、出張前なので今日は特に仕上がっていますね」
大城は聞こえないふりをし、立ち上がった。
ジャケットの襟を整え、玲奈へ軽く頭を下げる。
「私が戻るまで、店を頼みましたよ」
亮介が即座に追いかける。
「だから、警部さんの店ではありませんって!」
大城はその声を背中で受けながら、悠然と「しおかぜ」を出ていった。
翌日。
大城を乗せた飛行機が沖縄本島へ向かった頃、南ぬ島では、まるで県警の自称エースが島を離れるのを待っていたかのように事件が起きた。
発端は、「しおかぜ」のレジに残された一枚の一万円札だった。
ランチタイムが一段落し、店内へ遅い静けさが戻った頃である。
玲奈はレジの中で売上を確認していた。
紙幣を一枚ずつ揃えていた指が、途中で止まる。
「亮介さん」
「はい?」
亮介はテーブルを拭く手を止めた。
「今日、一万円札でお支払いになったお客様を覚えていますか?」
「何人かいましたけど……」
亮介は午前中の客を思い返す。
「観光客風の男女がいました。コーヒーを二つ頼んで、一万円札を出した二人です。細かいお金がないって」
「どのような方でした?」
「男は帽子とサングラス。女は派手なシャツ。どちらも店内をあまり見ず、時計ばかり気にしていました」
玲奈は一万円札を光へかざした。
紙質がわずかに滑らかすぎる。
印刷の濃淡にも不自然なところがある。
透かして見えるはずの模様も、どこか平面的だった。
「これ、本物ではないかもしれません」
「まさか、偽札ですか?」
玲奈は断定せず、すぐ八重山警察署へ連絡した。
店へ駆けつけたのは、宮城咲希だった。
大城が不在の今、咲希は自分で現場を見て、自分で判断しなければならない。
紙幣を確認した咲希は、署へ鑑定を依頼すると同時に、近隣の店舗へ照会をかけた。
すると、土産物店、レンタサイクル店、小さな食料品店からも、同じ特徴を持つ一万円札が見つかった。
いずれの店でも、購入されたのは千円前後の商品。
犯人の目的は商品ではない。
偽の一万円札を使い、本物の釣り銭へ替えることだった。
咲希はすぐに聞き込みを始めた。
ところが、目撃者たちの話は驚くほど食い違っていた。
男の帽子は白だった。
いや、黒だった。
女は赤いワンピースを着ていた。
青いシャツだった。
サングラスをしていた。
顔は見えていた。
背が高かった。
それほどでもなかった。
男女二人組だった。
途中から一人ずつ行動していた。
情報を集めるほど、犯人像は輪郭を失っていく。
咲希は手帳を見つめた。
大城なら、何を見るのだろう。
どの証言を捨て、どの証言を残すのか。
自分の判断で動いて、間違えたらどうする。
迷っているうちにも時間は過ぎていく。
「島内の観光客を、可能な限り確認します」
咲希が言った。
焦りが、声へわずかににじんでいる。
玲奈が穏やかに声をかけた。
「咲希さん。服装だけを頼りに探すのは、難しいのではないでしょうか」
「ですが、ほかに明確な手掛かりがありません」
「帽子や上着は、簡単に替えられます」
玲奈は、各店舗から集めた証言を一枚の紙へ並べた。
「変えられるものではなく、どのお店でも変わらなかった行動を見てみませんか」
咲希は、もう一度証言を読み返す。
二人は商品をほとんど選んでいない。
値段の安い品物を手に取り、すぐ会計へ向かっている。
会計中、店の時計や自分の腕時計を何度も確認していた。
店を出るたびに港の方向を見ていた。
釣り銭を受け取っても、その場では数えていない。
「買い物を楽しんでいる観光客には見えません」
玲奈は静かに言った。
「何かの時間に間に合わせようとしていたのだと思います」
咲希は、自分が服装の証言にばかり気を取られていたことに気づく。
「船……」
「可能性はあると思います」
玲奈は答えを押しつけなかった。
判断をするのは、あくまで現場を預かる咲希である。
亮介は、偽札が使用された店を地図上へ書き込んでいた。
元詐欺師だった頃、亮介は追う側ではなく、追われる側の思考を学んでいる。
どこで金を使うか。
どれだけの時間をかけるか。
いつ逃げるか。
「こいつら、偽札を大量に使うつもりじゃない」
亮介が言った。
咲希が顔を上げる。
「どういうことですか?」
「目的は、短時間で本物の現金へ替えることです。偽札を長く持っているほど危ない。だから何軒か回って釣り銭に替えたら、足がつく前に島を出る」
亮介は時刻表を開いた。
「次のフェリーまで、あと二十分です」
咲希はすぐフェリーターミナルへ連絡した。
だが、犯人の名前も顔も確定していない。
不確かな情報だけで乗船客全員を止めれば、観光客を巻き込んだ大混乱になる。
その時、玲奈がレジ横へ置かれた観光案内図へ目を留めた。
「こちらは?」
「あの二人が座っていたテーブルの下に落ちていました」
亮介が答える。
玲奈は案内図を開いた。
フェリーターミナルには、何の印もない。
代わりに、中心市街地から離れた貨物桟橋へ、小さな丸印が書かれている。
紙の端には乾いた油染み。
裏面には、定期船会社ではなく、民間の小型船らしい船名が走り書きされていた。
「正規のフェリーではないのかもしれません」
玲奈の言葉に、亮介も頷く。
「乗船名簿を残したくない。知り合いの船か、金を払って手配した小型船でしょう」
咲希は貨物桟橋までの距離を確かめた。
警察車両がここへ到着し、そこから桟橋まで向かうには十五分ほどかかる。
案内図に記された出港予定時刻も、十五分後だった。
「間に合わないかもしれない……」
咲希が呟く。
その声を聞いた亮介は、エプロンを外した。
「俺が先に行きます」
玲奈が驚いて見る。
「亮介さん。車は?」
「奈央さんが買い出しに使っています」
「では、どうやって行くんですか?」
亮介はしゃがみ込み、靴紐を強く結び直した。
立ち上がると、胸を張る。
「走ります」
咲希は目を丸くした。
「貨物桟橋まで、かなり距離があります」
「千五百メートル四国八位を、今日こそ実戦投入します」
普段なら誰も相手にしない自慢だった。
だがこの時ばかりは、誰も笑わなかった。
玲奈だけが真顔で言った。
「初めて、その経歴が役に立ちそうですね」
「初めてって言わないでください!」
言い返した次の瞬間、亮介は店を飛び出した。
潮風を切り、海沿いの道を駆ける。
観光客の間を抜け、自転車をかわし、緩やかな坂を一気に上る。
若い頃のような脚ではない。
門司港で港湾労働をしていた時代の疲労も、過去の無茶で傷めた膝も残っている。
それでも、速度は落とさない。
途中、島の知り合いが声をかけた。
「リョウちゃん、何でそんなに急いでる!」
亮介は振り返らずに叫ぶ。
「四国八位が、島を救ってる途中です!」
何を言っているのかは分からない。
だが、とにかく急いでいることだけは伝わった。
貨物桟橋では、男女二人が大きな旅行鞄を持ち、小型船へ乗り込もうとしていた。
亮介は最後の角を曲がり、二人の前へ滑り込む。
膝へ手をつき、肩で息をする。
「すみません」
息を吸うたび、肺が焼けるように痛む。
「その船……少し待ってもらえませんか」
男が露骨に顔をしかめた。
「何だ、お前」
亮介はゆっくり体を起こした。
荒い呼吸のまま、それでも笑う。
「玲奈さんの店で偽物を使った人間を、見送りに来たウェイターです」
男女の表情が変わった。
女が旅行鞄を抱え、小型船へ走ろうとする。
亮介は短い距離を一気に詰め、乗船口へ回り込んだ。
「どいて!」
「申し訳ありません。本日は出港を見合わせております」
「お前が決めることじゃない!」
「今、決めました」
男が亮介の肩を強く突く。
だが、亮介の体はほとんど動かなかった。
元ラガーマンの太い脚が、桟橋をつかむように踏みしめている。
男は苛立ち、今度は正面から体当たりを仕掛けた。
亮介は低く腰を落とす。
肩と肩がぶつかり、鈍い音が響く。
靴底が桟橋の上をわずかに滑った。
それでも倒れない。
相手の勢いを正面から受け止め、一歩ずつ押し返す。
「悪いな」
亮介は歯を食いしばりながら笑った。
「走るだけじゃなく、ぶつかるほうも得意なんだよ」
男が拳を振るう。
亮介は左腕で受け、そのまま懐へ入り込んだ。
肩を相手の胸元へ押し当て、低い姿勢で前へ運ぶ。
ラグビーのタックルに近いが、海へ落とすわけにはいかない。
進行方向を微妙に調整しながら、男を貨物置き場の壁際へ押し込んだ。
女はその隙に反対側から船へ向かう。
亮介は男を離し、再び走った。
数歩で追いつき、女の前へ回り込む。
「しつこい!」
「接客業ですからね」
亮介は両腕を広げて道を塞ぐ。
「お客様は、最後まで責任を持ってお見送りします」
背後から男が飛びかかった。
亮介は前へよろめき、片膝を桟橋につく。
立ち上がろうとした頬へ、拳が入る。
口の中に血の味が広がった。
それでも亮介は、船へ続く道から退かなかった。
「たった一人で何ができる!」
男が怒鳴る。
亮介は唇の端から流れた血を、親指で拭う。
「一人で捕まえる必要はない」
遠くから、かすかにサイレンが聞こえ始めていた。
「俺の仕事は、あと少しだけ、お前らをここに置いておくことだ」
男が再び突進する。
亮介は逃げず、正面から受け止めた。
今度は相手の腰へ腕を回し、元ラガーマンらしい強烈な押し込みで桟橋の中央へ戻していく。
何度押されても、乗船口の前へ戻る。
何度殴られても、道を空けない。
犯人を倒す必要はなかった。
警察が到着するまで、船へ乗せなければいい。
亮介は、自分の体を壁にして時間を稼いだ。
やがて、咲希を乗せた警察車両が貨物桟橋へ滑り込んだ。
咲希は車から降りると、状況を一瞬で確認した。
男と女。
出港直前の小型船。
乗船口を塞ぐ亮介。
「船の出港を止めてください!」
港の職員へ指示を出す。
「二人の退路を塞いでください。旅行鞄には触れず、周囲の人を下がらせて!」
声は震えていなかった。
大城のいない現場。
自分で状況を判断し、自分の言葉で人を動かす。
女が横を抜けようとする。
咲希はその前へ立ち、警察手帳を示した。
「八重山警察署です。偽造通貨行使の疑いで、お話を伺います」
男は最後まで抵抗した。
だが亮介と到着した警察官によって地面へ押さえられ、女も逃げ道を失った。
二人の旅行鞄からは、多数の偽札と、島内の店舗を回って得た本物の現金が見つかった。
さらに供述をたどると、島外で偽札を製造し、観光地を転々としながら使用していたグループの存在も明らかになる。
県警は関係先を一斉に捜索。
事件は、被害が大きく広がる前に解決した。
その夜。
「しおかぜ」の店内で、咲希は沖縄本島にいる大城へ報告を行った。
画面の向こうの大城は、ホテルらしい部屋で腕を組んでいる。
出張先でも相変わらず、少し照明の暗い場所を選んでいた。
「最初に観光客を広く確認しようとした判断は、減点だ」
「はい」
「服装に関する証言へ引きずられた。変えられる特徴より、変わりにくい行動を見るべきだった」
「はい」
大城は少し間を置く。
「だが、自分の判断を修正し、港を押さえ、現場で適切に指示を出した点は評価する」
咲希は緊張しながら待つ。
「七十五点だ」
「ありがとうございます」
以前なら、残り二十五点ばかりを考えただろう。
しかし咲希は、少しだけ嬉しそうに笑った。
その横から、頬へ大きな絆創膏を貼った亮介が、画面へ顔を出す。
「警部さん。俺は何点です?」
大城の眉がわずかに動いた。
「なぜウェイター君が報告へ参加している」
「俺の四国八位の快速と、元ラガーマンの突進力が事件解決へ多大なる貢献をしたからです」
「民間人が警察の到着前に危険な行動を取った点は、評価できない」
「でも、俺がいなかったら船は出てましたよ」
「途中で靴紐がほどけ、二度ほど転びかけたと聞いている」
亮介は玲奈を見る。
「誰ですか、功績と一緒にそんな細かい失敗まで報告したのは」
玲奈が穏やかに手を挙げる。
「私です」
「良いところだけ伝えてくださいよ!」
「事実を正確に報告しました」
「刑事の報告書じゃないんですから、少しくらい盛っても!」
咲希が真面目な顔で言う。
「警察への報告を盛ってはいけません」
「宮城さん、今日は完全に警察側ですね」
「最初から警察側です」
大城は画面の向こうでニヒルに口元を緩めた。
「まあ、最低限の役目は果たしたようだね」
「最低限?」
「私が頼んだ通り、玲奈さんの店を守った点だけは認めよう」
亮介は画面へさらに近づく。
「店だけじゃなく、島の治安も守りましたよ」
「島の治安を守るのは警察の仕事だ」
「その警察が来るまで、俺が体で止めてたんです!」
「ウェイター君。画面から少し離れたまえ。絆創膏しか見えない」
「警部さん、お礼を言う気が全くないでしょう!」
「礼は島へ戻ってから考えよう」
「考えてから戻ってきてください!」
大城との通話が終わる。
玲奈は、亮介の前へ黒糖プリンを一皿置いた。
「今日は、お疲れさまでした」
亮介の目が輝いた。
「無料ですか?」
「はい」
「やった!」
亮介は胸を張る。
「島を救った英雄への特別報酬ですね」
「ただし」
玲奈はカウンターの下から、泥で汚れたエプロンを取り出した。
片方の肩紐が切れている。
「走る途中で、こちらを道路へ落としましたね」
「緊急事態でしたから」
「車に踏まれて、使えなくなっています」
続いて、割れた木製のメニュー立てをカウンターへ置く。
「こちらは、店を飛び出した時に倒しました」
「勢いが必要だったんです」
「さらに、入口に置いてあった植木鉢も倒れています」
「それは覚えてないですね」
「防犯カメラには、はっきり映っています」
亮介の勢いが少し弱くなる。
玲奈は伝票へ金額を書き込んだ。
「新しいエプロン、メニュー立て、植木鉢。合計すると、黒糖プリン三十五個分です」
「前より増えてる!」
「植木鉢が追加されました」
「英雄の報酬が、三十五個分の借金に変わった!」
咲希が吹き出す。
「四国八位でも、店内では大幅減点ですね」
「宮城さんまで大城警部みたいな採点を始めないでください!」
玲奈は少し笑い、亮介の絆創膏へ目を向けた。
「でも、本当にありがとうございました」
亮介の動きが止まる。
「亮介さんが時間を稼いでくださらなければ、犯人は島を出ていました」
「玲奈さん……」
「無茶をしたことは褒められません。でも、店と島のために動いてくださったことには感謝しています」
珍しく、まっすぐな称賛だった。
亮介は照れを隠すように胸を張った。
「そうでしょう、そうでしょう。今日の俺は、自分で言うのも何ですが、かなり格好よかったですからね」
「自分で言わなければ、もっと格好よかったと思います」
「では、玲奈さんから言ってください」
「もう申し上げました」
「もう一度。今度は『亮介さん、素敵でした』で」
「取り消します」
「早い!」
「褒めた直後に調子へ乗るからです」
亮介は黒糖プリンの皿を抱えた。
「せめて、英雄用の大盛りにしてください」
「普通盛りです」
「ソースを多めに」
「糖分の取りすぎです」
「では、プリン三十五個分の借金を一個減らしてください」
「それは別会計です」
「会計が厳密すぎる!」
咲希は笑いながら、亮介の前に置かれた黒糖プリンを見る。
「でも亮介さん、本当にありがとうございました」
「宮城さんまで。今日は褒められる日ですね」
亮介は嬉しそうにスプーンを持った。
「では、島を救った四国八位の勇姿を再現しながらいただきます」
「普通に食べてください」
玲奈が注意するより早く、亮介は大きくすくった黒糖プリンを一口で飲み込もうとした。
次の瞬間、喉を押さえる。
「んっ……!」
玲奈は呆れた顔で、すでに用意していた水を差し出した。
亮介は一気に飲み干す。
「危なかった……」
咲希が目を丸くする。
「どうして玲奈さんは、水を準備していたんですか?」
「この方は褒められると、必ず余計なことをしますから」
「信頼関係ですね」
亮介が息を整えながら言う。
「危機管理です」
玲奈は冷静に訂正した。
「走っても、ぶつかっても、最後はプリンに負けるんですね」
咲希が笑う。
「宮城さん、今日から急に突っ込みが鋭くなってません?」
「大城警部がいない間に、成長しました」
「そっちの成長は望んでない!」
店内に笑い声が広がった。
大城警部のいない午後。
咲希は一人で事件を解決したわけではなかった。
玲奈の聡明な観察と、迷いを正す静かな助言があった。
亮介の、かつて騙す側にいたからこそ分かる思考と、千五百メートル四国八位の快速、元ラガーマンの突進力があった。
それでも最後に港を止め、周囲へ指示を出し、犯人へ警察手帳を示したのは咲希だった。
間違えるかもしれないという怖さを抱えながら、自分で考え直し、自分の声で現場を動かした。
それは、新米刑事が初めて大城の影から一歩外へ出た日だった。
その夜、「しおかぜ」の窓の向こうには、何事もなかったように穏やかな海が広がっていた。
海を渡るはずだった偽札は、島から出ることができなかった。
その道を塞いだのは、元警部補の静かな知恵。
新米刑事の覚悟。
そして、十五分だけ本気で格好よく、残りの時間はいつも通り少し騒がしかった、四国八位のウェイターだった。




