黒糖プリンは、警察手帳を閉じた午後にも甘い ――百点を取れなかった新人刑事と、元詐欺師が広げた“失敗だらけの履歴書”
宮城咲希は、優秀な新人刑事だった。
警察学校では、学科も実技も常に上位。報告書の誤字を許さず、教官から与えられた課題は必ず期限より早く提出した。宮古島で育った真っすぐな性格も相まって、周囲からは将来を期待されていた。
八重山警察署刑事課への配属が決まった時、咲希は嬉しかった。
困っている人の近くへ行ける。
事件の向こうにいる人を守れる。
ようやく、自分が目指してきた警察官としての仕事が始まるのだと思った。
その指導係を任されたのが、大城誠司警部だった。
本人いわく、沖縄県警の将来を背負うエース。
亮介いわく、自称・県警のエース。
大城は確かに優秀だった。
判断は速く、観察力も鋭い。現場では決して取り乱さず、相手の小さな仕草から嘘や迷いを読み取る。
だからこそ、咲希への指導も容赦がなかった。
「報告が一秒遅い」
「はい!」
「声が大きすぎる」
「申し訳ありません」
「謝罪は修正ではない」
「はい」
「目を伏せるな」
咲希が顔を上げる。
「顎が上がっている」
「……はい」
「返事に疲労が混じった」
何をしても注意される。
しかも、大城は「島カフェ しおかぜ」へ来ると、普段よりさらに厳しくなった。
理由は明白だった。
玲奈に、指導者としての格好いい姿を見せたいのである。
その日のランチタイムも、大城は島野菜パスタを食べながら、向かいに座る咲希の姿勢を細かく確認していた。
「宮城巡査。入口へ背を向けるな」
「はい」
「警察手帳をテーブルの端へ置くな」
「はい」
「フォークを持ったまま返事をするな」
咲希は慌ててフォークを置いた。
「動作が硬い」
「……はい」
「今の沈黙は何だ」
水を運んできた亮介が、横から覗き込む。
「警部さん。咲希さん、パスタを食べるだけで五回くらい不正解になってますよ」
大城は亮介を見ようともしない。
「ウェイター君には関係ない」
「そろそろ咀嚼回数まで指導しそうですね」
大城はコーヒーカップを置き、玲奈にも聞こえるように声を少し低くした。
「刑事にとって、気を抜いてよい瞬間など存在しない。平穏の中に潜む違和感を拾える者だけが、真実へたどり着ける」
亮介はすぐに玲奈を振り返った。
「玲奈さん。今の、聞きました?」
「聞こえていました」
「警部さん、玲奈さんが厨房から出てくるまで、途中で言葉を止めてましたよね」
大城はニヒルな表情を崩さない。
「呼吸を整えていただけだ」
「名言を一番いい位置で聞かせるための間ですよね」
「ウェイター君」
大城はカウンター席を示した。
「奈央さんが水を待っているぞ」
文庫本を読んでいた奈央が顔を上げる。
「待ってませんけど」
「ほら」
亮介は得意そうに大城を見る。
「奈央さん、今は喉が潤っています」
「これから渇く可能性がある」
「未来の喉の渇きを利用して、俺を追い払わないでください」
奈央は文庫本で口元を隠した。
玲奈もわずかに笑う。
それを確認した大城は、少し満足そうに咲希へ向き直った。
「宮城巡査。今のような無駄な会話に気を取られるな」
亮介が呆れる。
「無駄な会話を始めたのは警部さんでしょう」
しかし大城の指導は止まらなかった。
その日の咲希は、朝から何度も注意を受けている。
聞き込みの順序が悪い。
相手との距離が半歩近い。
報告書の結論が先走っている。
被害者の表情が変わった瞬間を見落とした。
「宮城巡査。君は優秀だ」
大城は言った。
「だから『まだ新人だから』という言い訳は認めない」
「はい」
「返事をしただけで理解した気になるな」
咲希の手が、膝の上で強く握られる。
玲奈が島野菜パスタの皿を静かに置いた。
「大城警部」
大城の言葉が止まる。
玲奈へ返事をする時だけ、声が少し柔らかい。
「はい」
「それは、少し言い過ぎだと思います」
店内に短い沈黙が落ちた。
「咲希さんが優秀なのは分かります。でも、優秀な方だから疲れないわけではありません」
大城は一瞬、言葉に詰まった。
玲奈の前で、自分の指導を否定された形である。
けれど、素直に謝るのは彼のニヒルな美学が許さないらしい。
大城はコーヒーカップを手に取り、低い声で言い直した。
「……厳しさとは、彼女の可能性に対する評価でもあります」
亮介が小さく拍手した。
「うまい!」
大城が冷たい目を向ける。
「何がだ」
「玲奈さんに注意されたのを、格好いい教育論に着地させましたね」
「事実を述べただけだ」
「転びそうになった瞬間に前転して、最初から演技だった顔をする人みたいでした」
玲奈が冷静に判定する。
「着地したことにはなっていません」
「玲奈さんの判定では失敗です」
「ウェイター君」
大城の声がさらに低くなる。
「洗い場で、皿が君を待っているぞ」
亮介は店の奥を振り返った。
「最近、俺を呼ぶ相手が奈央さんから食器へ変わってません?」
店内に小さな笑いが起きた。
だが咲希だけは、最後まで笑えなかった。
数日後。
夕暮れ前の「しおかぜ」へ、咲希が一人でやってきた。
非番だった。
いつもの端正なスーツではなく、淡い色のシャツに黒いパンツ。髪も勤務中ほどきっちり結ばず、低い位置で緩くまとめている。
それでも背筋だけは真っすぐだった。
肩には、目には見えない重りが載っているようだった。
「いらっしゃいませ」
玲奈が迎える。
咲希は海の見える窓際ではなく、店の隅の席を選んだ。
「コーヒーをお願いします」
注文票を持った亮介が尋ねる。
「黒糖プリンは?」
「今日は結構です」
亮介のペンが止まる。
咲希が「しおかぜ」で黒糖プリンを頼まない。
それは、亮介にとって一大事だった。
カウンターへ戻ると、玲奈へ声を潜める。
「玲奈さん。宮城さんがプリンを頼みません」
「聞こえていました」
「これは重大事案です」
「声を抑えてください」
「黒糖プリン拒否事案。店内へ非常線を張りますか?」
「張りません」
「では俺が事情聴取を」
「余計なことは聞かないでください」
「任意同行を求めるのは?」
「もう店へ来ていただいています」
奈央が文庫本から顔を上げる。
「亮介さんが一番落ち着いていませんね」
玲奈は咲希の前へ温かいコーヒーを置いた。
「ごゆっくりどうぞ」
事情は尋ねない。
励ましもしない。
まず咲希が、自分から話せるまで待つ。
亮介は何度か口を開きかけたが、そのたびに玲奈の静かな視線を受け、何も言わず引き下がった。
やがて咲希が、カップを両手で包んだまま呟く。
「今日、聞き込みで失敗しました」
窃盗事件の重要参考人となった若い男性に、咲希が事情を聞いた。
男性は質問をするたびに言葉を詰まらせ、時間や場所について何度も説明を変えた。
咲希は、嘘をついていると判断した。
証言の矛盾を一つずつ示し、強い口調で追及した。
だが後になって、その男性は強い緊張を感じると、言葉がうまく出なくなることが分かった。
説明が変わったのも、意図的に嘘をついていたからではない。
繰り返し尋ねられるうちに混乱し、自分の記憶に自信を失っていただけだった。
事件への影響は小さかった。
それでも大城は、咲希を厳しく叱った。
「君が見ていたのは事実ではない。自分で作り上げた『怪しい男』だ。今日の君は刑事ではなく、早く答えを欲しがっただけの素人だった」
「警部のおっしゃる通りです」
咲希は顔を上げなかった。
「警察学校では成績が良かったんです」
努力すれば結果が出た。
問題には答えがあり、その答えへ近づく方法も教えてもらえた。
けれど現場には、教科書のような正解がない。
良かれと思った言葉が、相手を傷つける。
正しいと思った判断が、自分の思い込みだったと気づく。
「大城警部が厳しいのは、期待してくださっているからだと分かっています」
咲希の声が震えた。
「でも、その期待に応えられないことが、だんだん怖くなってきました」
少し間を置く。
「私……刑事に向いていないのかもしれません」
玲奈は、すぐには否定しなかった。
咲希の苦しみを、軽い慰めで消そうとはしない。
一方、亮介は腕を組み、真剣な顔で何かを考えていた。
そして突然、厨房の奥へ消えた。
しばらくして戻ってきた亮介は、大きなメニュー表と油性ペンを抱えていた。
「宮城さん」
「はい?」
「刑事に向いていないかどうかを判断する前に、こちらの参考資料をご覧ください」
メニュー表の裏には、大きな文字でこう書かれていた。
亮介・輝かしくない失敗の履歴書
玲奈が眉を寄せる。
「店のメニューに何を書いているんですか」
「若者を救うための教育資料です」
「普通の紙を使ってください」
「紙では、俺の失敗の重量に耐えられません」
「メニュー表なら耐えられる根拠は?」
「持った感じです」
「今すぐ消してください」
「まだ発表前です!」
亮介は咲希の前へ立ち、メニュー表を掲げた。
「一つ目。大事な営業先を間違え、隣の会社で一時間にわたり熱弁した」
咲希が顔を上げる。
「一時間も、誰も止めなかったんですか?」
「皆さん、真剣な顔で聞いてくれました」
玲奈が淡々と答える。
「怖くて口を挟めなかっただけでは?」
「俺の話術に引き込まれていた可能性もあります」
「帰り際に警備員を呼ばれましたよね」
「記憶の開示が具体的すぎます」
咲希の口元が、ほんの少し動いた。
亮介は二つ目を指す。
「取引相手の名前を間違えたまま、最後まで商談を続けた」
「契約は取れたんですか?」
「名刺を返されました」
玲奈が言う。
「話を最後まで聞いてもらえただけでも奇跡です」
「奇跡を起こせる営業マンだったということです」
「その会社は出入り禁止になりました」
「奇跡には代償が伴います」
咲希の肩が、小さく揺れた。
「三つ目。車から格好よく降りようとして、シートベルトを外し忘れた」
「どうなったんですか?」
「車内へ勢いよく引き戻されました」
玲奈が即座に言う。
「格好よく降りようとしなければよかったのでは?」
「男には、格好をつけなければならない瞬間があります」
「駐車場にはありません」
「女性には分からない美学です」
「大城警部と同じことを言い始めましたね」
亮介は少し顔を曇らせる。
「それは嫌だな」
咲希が、とうとう小さく笑った。
亮介は手応えを感じ、勢いづく。
「四つ目。逃走中に側溝へ落ちた」
「何から逃げていたんですか?」
亮介は窓の外を見て、遠い目をした。
「過去です」
玲奈が即答する。
「警察です」
「一言で現実へ引き戻さないでください」
「しかも側溝から自力で出られず、追ってきた警察官に助けてもらいました」
亮介は胸を張る。
「逮捕と救助を同時に経験した、極めて珍しい男です」
「自慢できる要素はありません」
「警察との信頼関係は、あの頃から始まっていたとも言えます」
「言えません」
咲希は口元を押さえた。
「五つ目。玲奈さんへ格好いい台詞を言おうとして、途中で忘れた」
玲奈の目が細くなる。
「その項目は必要ですか?」
「若者へ、挑戦する大切さを伝えるためです」
咲希が少し笑いながら尋ねる。
「何を言おうとしたんですか?」
亮介は胸へ手を当てた。
「玲奈さん。あなたの瞳は南ぬ島の夜の海より深く、俺の心という小舟を――」
「その先は結構です」
「まだ転覆していません」
「すでに沈んでいます」
「救助をお願いします」
「自力で泳いでください」
咲希は、とうとう声を上げて笑った。
亮介は満足そうに頷く。
「今のが『しおかぜ』名物、店主と敏腕ウェイターの夫婦漫才です」
玲奈が即座に訂正する。
「店主と問題の多い従業員です」
「夫婦を否定するにしても、もっと柔らかい表現はありません?」
「事実を優先しました」
「刑事さんの前だからって、供述を正確にしなくても」
咲希は顔を伏せ、しばらく肩を揺らしていた。
店へ来てから初めて見せた、自然な笑顔だった。
亮介はさらにメニュー表をめくる。
「六つ目。黒糖プリンを格好よく一口で食べ、喉へ詰まらせた」
玲奈が付け加える。
「その三日後、もう一度同じことをしました」
「一度目が偶然かどうか、再現実験を行ったんです」
「二回とも水を用意したのは私です」
「これが夫婦の支え合いです」
「店主による緊急対応です」
「急に業務上の関係へ戻さないでください」
亮介は最後の項目を指さした。
赤い線で大きく囲まれている。
千五百メートル四国八位を、何の関係もない場面で言い続けて周囲を困らせる。
咲希はしばらく読み、首を傾げた。
「これは、過去の失敗ではありませんよね」
「え?」
「現在も継続しています」
亮介は固まった。
それから玲奈へ真剣な顔を向ける。
「玲奈さん。この人、やっぱり刑事に向いてますよ」
玲奈も頷く。
「現行犯を正確に確認しましたね」
「しかも俺より冷静な突っ込みです」
「競うところではありません」
咲希の笑い声が、夕暮れ前の店内へ広がった。
その笑顔を見届けてから、亮介はメニュー表を下ろした。
「宮城さん」
今度の声には、少しだけ真面目な響きがあった。
「俺の場合、失敗なんて軽い言葉では済まないこともしました」
人を騙した。
追い詰めた。
傷つけた。
謝っても、取り返せないことがある。
「でも、間違えた後に何をするかだけは、自分で選べます」
自分の間違いを認めるのか。
言い訳をするのか。
また同じことを繰り返すのか。
次に似た場面へ出会った時、違うやり方を選ぶのか。
「俺は今も毎日失敗してますけど、そのたび少しずつ、昔とは違う人間になろうとはしてます」
玲奈が静かに補足した。
「今日もお釣りを間違えました」
「いい話の途中です」
「千円多く返そうとしました」
「お客様への感謝の気持ちです」
「店のお金です」
「解釈の相違ですね」
「計算間違いです」
咲希がまた笑った。
今度の笑顔は、先ほどよりも明るかった。
玲奈は咲希の前へ、黒糖プリンを一つ置いた。
「注文していません」
「今日は、店からです」
咲希は皿を見つめる。
「でも私は、何もできていません」
玲奈は向かいの椅子へ腰を下ろした。
「大城警部が厳しいのは、咲希さんを高く評価しているからだと思います」
咲希の顔が少し曇る。
「やはり、期待に応えなければいけません」
「期待されているからといって、最初から百点を取る必要はありません」
玲奈は穏やかに言う。
「それに、期待しているから、どのような言い方をしてもよいわけではありません」
大城の言葉が、すべて正しいわけではない。
言い過ぎた時には、玲奈からもきちんと注意する。
「警察学校の試験には、正解があったと思います。でも、現場には答えが一つではない問題も多いのでしょう」
咲希は静かに頷く。
「今日の失敗を覚えていれば、次に言葉へ詰まった方へ出会った時、すぐに嘘だと決めつけずに済みます」
玲奈は皿を少し押した。
「今日、相手の方を傷つけたことを忘れなければ、次は同じように傷つけずに済むかもしれません」
咲希は黒糖プリンを一口食べる。
黒糖の柔らかな甘さが、張り詰めていた心へゆっくり染み込んでいく。
「甘いです」
亮介が胸を張った。
「俺が作りました」
玲奈が即座に訂正する。
「私が作りました」
「俺が冷蔵庫から出しました」
「配膳です」
「甘さを最終的に解放しました」
「扉を開けただけです」
「共同制作ということで」
「違います」
咲希は笑いながら、もう一口食べた。
「百点を取れなかった日にも、食べていいんですね」
玲奈は微笑む。
「むしろ、そういう日に召し上がってください」
亮介が勢いよく手を挙げた。
「では、俺は毎日無料ですね」
「亮介さんは、百点を目指していないので対象外です」
「制度設計が俺だけに厳しい!」
咲希は、また声を上げて笑った。
店へ来た時には暗かった目にも、少しずつ元気が戻っている。
その時、入口のベルが鳴った。
大城警部が入ってきた。
咲希が非番の日に一人で「しおかぜ」へ来ていると知り、様子を見に来たのである。
だが、心配して駆けつけたとは素直に言えない。
サングラスを外しながら、何でもない顔を作る。
「偶然、近くを通ったのでね」
亮介が窓の外を確認する。
「警部さんの署、反対方向ですよね」
「防犯上の巡回だ」
「非番の咲希さんが落ち込んでいる店だけを重点的に回る、世界一狭い巡回ですね」
大城はニヒルな表情を崩さない。
「優秀な指導者は、部下の行動範囲も把握しているものだ」
「普通に心配したって言えばいいのに」
「ウェイター君。今日はいつにも増して口数が多いな」
「咲希さんを笑わせた功労者です」
「功績を自分で申告する者を、功労者とは呼ばない」
大城は咲希の前へ立った。
咲希は反射的に立ち上がろうとする。
玲奈が穏やかに止めた。
「今日は非番ですから、座ったままでよいのでは?」
大城は一瞬、言葉に詰まる。
そして咲希の向かいへ座った。
「宮城巡査」
「はい」
「今日の失敗に対する私の評価は変わらない」
咲希の表情が引き締まる。
「君は事実ではなく、自分の思い込みを追った。刑事として重大な失敗だ」
「はい」
大城はしばらく沈黙した。
「だが」
咲希が顔を上げる。
「君が刑事に向いていないとは、一度も言っていない」
大城は玲奈の視線を意識したのか、少しだけ声を低くした。
「一度の失敗だけで適性を判断するほど、私は人を見る目がないつもりはない」
「君は優秀だ。だから、自分で勝手に限界を決めることを私は――」
「大城警部」
玲奈が静かに止めた。
「はい」
「また、言い方が厳しくなっています」
亮介が小さく拍手する。
「玲奈監督が入りました」
大城は亮介を一瞥した。
玲奈は続ける。
「『明日も一緒に頑張りましょう』で、十分ではないでしょうか」
ニヒルな大城にとって、素直な励ましは犯人への追及より難しいらしい。
少し目をそらし、低く言う。
「……明日も、一緒に現場へ出る」
咲希は黙って待つ。
「今日とは違う聞き方を見せてくれ」
不器用な言葉だった。
けれど、大城が咲希を見放していないことは十分伝わった。
「はい」
咲希の返事は、無理に張り上げた声ではない。
明るく、真っすぐだった。
亮介が満足そうに頷く。
「警部さん。今の励ましは七十八点です」
大城が冷たい目を向ける。
「なぜ君が採点する」
「最初は昭和の鬼監督へ戻りかけましたが、玲奈さんの指導で持ち直しました」
「私が指導を受けたことになっているのか」
「指導係にも指導係が必要なんですよ」
亮介は玲奈を指す。
「大城警部の指導係、玲奈さん」
次に大城を指す。
「咲希さんの指導係、大城警部」
最後に自分を指す。
「そして、皆の心を明るくする俺」
玲奈が冷静に言った。
「亮介さんの指導係だけが不在ですね」
「玲奈さんでしょう」
「辞退します」
「組織図が崩壊した!」
咲希が吹き出した。
大城も、口元だけをわずかに緩めた。
翌日。
咲希は再び、同じ男性への聞き取りに臨む。
今度は、相手の言葉の矛盾をすぐには指摘しない。
呼吸が落ち着くのを待ち、静かに尋ねる。
「お話が変わったのは、思い出せないからですか。それとも、答えるのが怖い理由がありますか?」
男性は少しずつ事情を話し始めた。
そこから新しい手掛かりが見つかり、事件は解決へ進む。
大城の評価は、相変わらず厳しかった。
「六十点だ」
以前の咲希なら、足りない四十点ばかりを見ただろう。
けれど、その日は少し笑った。
「昨日より上がりました」
「満足するな」
「はい。でも、少しだけ喜びます」
大城は注意しかけた。
しかし、玲奈の言葉を思い出す。
「……それくらいなら構わない」
数日後。
咲希は「しおかぜ」へ来ると、自分から黒糖プリンを注文した。
亮介が水を置きながら尋ねる。
「今日は何点の日ですか?」
「六十点です」
「微妙ですね」
玲奈が黒糖プリンを運ぶ。
「昨日より、一歩進んだ日の味です」
咲希は嬉しそうにスプーンを取った。
その隣では、大城がいつものようにニヒルな顔でコーヒーを飲んでいる。
「百点を取る日は、まだ先だ」
亮介がすかさず口を挟む。
「警部さんも、玲奈さんへの告白はまだ零点ですけどね」
大城のコーヒーカップが、唇の直前で止まる。
「ウェイター君」
「はい」
「奈央さんが君を呼んでいるぞ」
奈央は文庫本から顔を上げる。
「呼んでません」
咲希が笑った。
「警部。今日も、その作戦は失敗ですね」
大城は咲希を見る。
少し前なら、指導係を茶化すなと注意したかもしれない。
だが、その日は咲希の明るい表情を確認すると、何も言わずにコーヒーを飲んだ。
「……五十五点だ」
咲希が目を丸くする。
「今、下げました?」
「指導係への軽口で五点減点だ」
亮介が指を立てる。
「でも、笑顔が戻ったので十点加点です」
「君は採点へ参加するな」
「では俺の今日の点数は?」
玲奈が即答した。
「十五点です」
「低い!」
「メニュー表の裏へ落書きをしました」
「あれは教育資料です」
「黒糖プリン一個分を、給与から引きます」
「採点が実損へ変わった!」
咲希の笑い声が、店内へ広がった。
「しおかぜ」では、百点を取れなかった日にも黒糖プリンが出る。
失敗した人を甘やかすためではない。
自分はもう駄目だと思い込む前に、もう一度立ち上がる力を取り戻してもらうためだ。
優秀であることは、一度も間違えないことではない。
間違えた相手の表情を覚え、次には違う聞き方を選ぶこと。
百点ではない自分を受け入れたうえで、それでも明日、警察手帳を開くこと。
夕方の海は、少しずつ群青色へ変わっていた。
咲希の前には、きれいに空になった黒糖プリンの皿。
その隣で亮介は、「失敗だらけの履歴書」を店内へ飾ろうとしていた。
玲奈が静かに取り上げる。
「飾りません」
「若者を励ます貴重な資料です」
「店の信用を失う資料です」
「では、額縁だけでも立派なものを」
「消して、メニュー表として再利用します」
「俺の人生を消さないでください!」
「備品を元へ戻すだけです」
「人生ではなく、メニュー表の心配だった!」
咲希がまた笑う。
大城はニヒルな顔のままコーヒーを飲み、玲奈はメニュー表を洗い場へ運ぶ。
その日の「しおかぜ」には、百点満点の人間は一人もいなかった。
けれど、それぞれが昨日より少しだけ優しくなっていた。
黒糖プリンには、それで十分な甘さだった。




