黒糖プリンを二つ、十年前の友だちのために ――届かなかった手紙と、新米刑事が見つけた“約束の続き”
南ぬ島では、海を渡れなかった手紙も、いつか潮風に連れ戻されることがある。
午後二時を少し過ぎた「島カフェ しおかぜ」は、ランチタイムのにぎわいを終え、ようやくゆったりとした島の時間を取り戻していた。
開け放した窓から潮風が入り、白いカーテンをふわりと膨らませる。店内には、挽きたてのコーヒーと、玲奈が仕込んだ黒糖ソースの甘い香りが静かに混じっていた。
カウンターの奥では、玲奈が黒糖プリンの残数を確かめている。
その背後で亮介は、客が忘れていった麦わら帽子をかぶり、なぜか両手を腰へ当てていた。
つばには、大きな造花のハイビスカスが付いている。
「玲奈さん」
亮介は低い声を作った。
「夏季限定、南ぬ島の貴公子です」
玲奈は振り返り、亮介を上から下まで見た。
「お客様の忘れ物で遊ばないでください」
「遊んでいません。着用感を確認しています」
「なぜウェイターが確認するんですか」
「お客様へお返しする前の、安全点検です」
「帽子の安全点検に、着用は必要ありません」
「でも似合っているでしょう?」
「ハイビスカスは似合っています」
「俺は?」
「帽子を戻してください」
カウンター席で文庫本を読んでいた奈央が、肩を揺らして笑った。
「夫婦漫才みたいですね」
亮介は嬉しそうに玲奈を見る。
「聞きました? 夫婦ですって」
「漫才のほうを言われたんだと思います」
「そこは夫婦のほうを拾ってくださいよ」
「早く帽子を戻してください」
いつもの、変わらない午後だった。
本人たちは夫婦ではない。
けれど、亮介がくだらないことを始め、玲奈が冷静にたしなめる光景は、常連客にとって黒糖プリンと同じくらい「しおかぜ」らしいものになっていた。
亮介が渋々帽子を預かり棚へ戻したところで、入口のベルが鳴った。
店へ入ってきたのは、二十代半ばほどの若い女性だった。
生成り色のワンピースに、淡い水色のカーディガン。肩には旅行鞄を掛け、胸元には小さな銀色の貝殻のペンダントが揺れている。
女性は一度、店内を見回した。
白いカーテン。
木製のテーブル。
窓の向こうに広がる青い海。
何かを確かめるような、どこか不安そうな目だった。
「いらっしゃいませ」
玲奈が柔らかく声をかける。
女性は海の見える二人掛けの席を指した。
「あちらへ座ってもいいですか?」
「もちろんです」
玲奈が案内すると、女性は窓を背にするのではなく、入口が見える側へ腰を下ろした。
誰かを待つための座り方だった。
亮介がメニューを運ぶ。
「ご注文はお決まりですか?」
女性は少し迷い、向かいの空席へ目を向けた。
「黒糖プリンを……二つお願いします」
亮介も空席を見る。
「お連れの方は後から?」
女性は、膝の上に置いた布製の手提げ袋を強く握った。
「来てくれるかどうか、分からないんです」
いつもの亮介なら、気の利いたことを言おうとしたかもしれない。
だが、その時は何も聞かなかった。
「分かりました。黒糖プリンを二つですね」
玲奈は二つの皿を用意した。
一つは女性の前へ。
もう一つは、誰もいない向かいの席へ。
琥珀色の黒糖ソースが、午後の光を受けて静かに輝く。
女性は、なかなかスプーンを取ろうとしなかった。
やがて布製の手提げ袋から、何通もの手紙を取り出した。
白、水色、薄桃色。
時間を経て黄ばんだ封筒が、色ごとに細いリボンで束ねられている。
一通一通が、何度も読み返されたことを物語るように、角を丸くしていた。
玲奈は温かい紅茶をそっと置いた。
「何か、お手伝いできることはありますか?」
女性は少しだけ迷った後、頭を下げた。
「水野由衣と申します。東京から来ました」
由衣が南ぬ島に住む少女と出会ったのは、十五年前だった。
もっとも、二人は一度も顔を合わせたことがない。
由衣は小学生の頃、重い病気で長期入院していた。
病室の窓から見えるのは、向かいの病棟と、四角く切り取られた空だけ。
同級生が運動会や遠足の話をするたび、自分だけが世界から置き去りにされているように感じていたという。
そんな時、病院と南ぬ島の小学校が行っていた交流事業を通じて、一通の手紙が届いた。
差出人は、由衣と同い年の少女、比嘉結海。
最初の便箋には、青いクレヨンで大きな海が描かれていた。
由衣ちゃんへ。
南ぬ島の海は、晴れた日には空より青くなります。
私の学校からも、少しだけ見えます。
病院の窓から、海は見えますか。
由衣は返事を書いた。
病室から海は見えないこと。
夕方になると、窓の隅が少しだけオレンジ色になること。
元気になったら、自分の足で海を見に行きたいこと。
それから二人の文通が始まった。
結海は、島の星空について書いた。
夏祭りの太鼓。
台風の翌朝に浜へ流れ着いた貝殻。
学校の窓へ張り付いたヤモリ。
家族で食べたパイナップル。
由衣は、病院で読んだ本の話を書いた。
苦い薬を一人で飲めるようになったこと。
検査が怖くて眠れなかった夜のこと。
看護師に教えてもらった折り紙。
退院したら着てみたい服。
二人の間には、何百キロもの海があった。
けれど手紙の中では、病室と南ぬ島は隣り合っていた。
結海が描く青い海は、由衣にとって、窓の外にまだ広い世界があることの証だった。
由衣から届く返事は、結海にとって、遠い土地で懸命に治療を続ける友人からの大切な便りだった。
中学生になる頃、二人は一つの約束をした。
二十歳を過ぎたら、南ぬ島で会おう。
海が見えるお店で、二人でプリンを食べよう。
結海が手紙に、
島には白いカーテンが揺れて、海の見える小さなお店があります。
そこのプリンが美味しいらしいです。
と書いたことがきっかけだった。
由衣は、病院の売店で母に買ってもらったプリンを食べながら返事を書いた。
じゃあ、大人になったら二人で食べよう。
一つずつ注文して、絶対に半分こにはしない。
しかし、十年前。
結海からの手紙は、突然届かなくなった。
由衣が送った手紙も、
宛所に尋ねあたりません
という紙を貼られ、戻ってきた。
交流事業に参加した学校は統合され、担当教員も異動していた。
由衣は当時、まだ治療の途中だった。
結海の身に何かあったのではないか。
自分の病気の話ばかり書いたから、困らせてしまったのではないか。
もう手紙を書きたくないと思われたのではないか。
由衣は何度も考えた。
それでも、返送された手紙を捨てることはできなかった。
病気が回復し、退院し、学校へ戻った後も。
大学を卒業し、仕事を始めた後も。
結海から届いた手紙だけは、ずっと大切に持っていた。
そして二十五歳になった今年、由衣は一人で南ぬ島へやってきた。
最後のほうの手紙に書かれていた、
白いカーテンが揺れて、海の見えるお店
という言葉だけを頼りに、島内のカフェを一軒ずつ訪ねているという。
「それで、ここへ?」
奈央が優しく尋ねる。
由衣は頷いた。
「約束したお店が、ここなのかは分かりません。でも、白いカーテンがあって、海が見えて、プリンがあったから」
向かいの黒糖プリンへ目を落とす。
「一つだけ頼んだら、約束を諦めたことになる気がしたんです」
店内が、少しだけ静かになった。
玲奈は何も否定せず、由衣の前の紅茶へ湯を足した。
その時、入口のベルが鳴った。
現れたのは、大城誠司警部と新人刑事の宮城咲希巡査だった。
大城は店へ入ると、まず玲奈へ視線を向けた。
「こんにちは、玲奈さん。今日も島野菜パスタをお願いします」
「いらっしゃいませ」
「この店を知ってからというもの、ほかで昼食を取ることが、少しばかり冒険に思えてきました」
亮介がすぐに振り返る。
「ただ玲奈さんの料理を食べたいって言えばいいでしょう」
大城はサングラスを外し、ニヒルに微笑んだ。
「良いものを選び続けることを、審美眼と呼ぶんだよ。覚えておきたまえ、ウェイター君」
「玲奈さんに会いに来ることを、審美眼でごまかしましたね」
「君には、物事の機微が分からないらしい」
大城は亮介を軽くあしらったが、由衣の前に並ぶ二つの黒糖プリンと、手紙の束に気づいた。
事情を聞くと、窓の向こうの海へ視線を向ける。
そして玲奈が近くにいることを確かめるように、ほんの少しだけ声を低くした。
「十年前に途切れた手紙ですか」
大城は腕を組む。
「事件には時効があります。しかし、誰かを待ち続けた約束に、時効はない」
一拍置いて、亮介が奈央へ顔を寄せた。
「出ました。大城警部、午後の名言です」
奈央は文庫本で口元を隠す。
「海を見ながら言ったので、いつもより完成度が高いですね」
大城は二人を横目で見た。
「聞こえているぞ」
「その言葉、今考えたんですか?」
亮介が尋ねる。
「自然に出た言葉だ」
「自然に出る人は、玲奈さんが聞いてるか確認してから言いませんよ」
「ウェイター君」
大城はカウンターを指した。
「奈央さんがコーヒーを待っているぞ」
奈央はカップを持ち上げる。
「まだ半分ありますけど」
「また嘘で追い払おうとした」
「冷める前に新しいものを用意するのが、優秀な接客だ」
「奈央さんに二杯飲ませてまで、俺を遠ざけないでください」
玲奈の口元が、かすかに緩んだ。
それを確認した大城は、何事もなかったように咲希へ向き直る。
「宮城巡査」
「はい」
「聞き取りの訓練だ。手紙から、比嘉結海さんへつながる情報を整理しなさい」
咲希はすぐに警察手帳を開いた。
最後の手紙が届いた日。
消印。
当時の学校名。
家族構成。
担任の名前。
転居先の候補。
結海の父親の職業。
一つずつ、正確に尋ねていく。
しかし由衣が答えられない項目が増えるにつれ、その表情は次第に暗くなった。
「もっと聞いておけばよかったんです」
由衣は小さく言った。
「ご家族のことも、新しい住所のことも。私はいつも、自分の病気の話ばかりで……」
「そのような意味で聞いたのではありません」
咲希は慌てる。
だが、所在を突き止めるためには情報が必要だと思い、また手帳へ目を落とした。
大城が静かに呼ぶ。
「宮城巡査」
「はい」
「手紙を、捜査資料としてだけ見るな」
「しかし、居場所につながる情報を探す必要があります」
「住所や家族構成が分かっていたなら、十年も探し続けてはいないだろう」
大城は由衣の手紙へ目を向けた。
「手紙は、住んでいる場所だけを伝えるものではない。書いた人間が何を見て、何を大切にしていたかが残るものだ」
亮介が指を一本立てる。
「本日二つ目の名言です」
奈央は文庫本の余白に正の字を書き始める。
「十個たまったら、何か景品がありますか?」
「玲奈さんの黒糖プリン一個で」
「勝手に店のサービスを作らないでください」
玲奈が静かに止めた。
「残念でしたね、警部さん」
亮介が笑う。
「私はプリンを得るために話しているのではない」
「玲奈さんの尊敬を得るためですよね」
「ウェイター君。庭の鉢植えが君を呼んでいるぞ」
「ついに奈央さんですらなくなった!」
店内に小さな笑いが戻る。
玲奈は咲希の隣へ立った。
「最後に届いた手紙を、もう一度読ませていただいてはいかがでしょう」
由衣は、水色の封筒を取り出した。
便箋には、学校が近隣の小学校と統合されることが書かれていた。
父親の仕事の都合で、島内の別の地域へ引っ越すかもしれないこと。
新しい住所が決まったら、すぐ知らせること。
そして最後には、小さな貝殻の絵とともに、こう記されていた。
由衣ちゃんが島へ来たら、私が海を案内します。
約束のプリンも忘れていません。
元気になった由衣ちゃんと会える日を、楽しみにしています。
便箋の右下には、貝殻の形をした小さなスタンプが押されていた。
線は少し曲がり、右側の端が欠けている。
既製品ではなく、子どもが自分で彫ったものらしい。
亮介が手紙をのぞき込む。
「これ、どこかで見たような……」
「ウェイター君。手紙へ近づきすぎだ」
大城が冷たく言う。
「重要な発見かもしれないでしょう」
「君の発言は、重要でないものの割合が高すぎる」
「平均値で俺を切り捨てないでください」
亮介はしばらく考えた後、指を鳴らした。
「港近くの『海風文具店』ですよ」
玲奈も思い出す。
島の作家が作った絵はがきや木工品、手作りのスタンプを扱う小さな雑貨店。
紙袋には、これとよく似た貝殻の印が押されている。
店主は、六十代の女性・上原美佐子だった。
大城たちは由衣の了承を得て、海風文具店へ電話をかける。
貝殻のスタンプについて尋ねると、美佐子は驚いた。
それは店で販売しているものではなかった。
かつて美佐子が小学校教師だった頃、図工の授業で児童と一緒に作った消しゴムはんこの一つだという。
そして、美佐子は南風小学校で比嘉結海の担任をしていた。
「比嘉結海さんを覚えていらっしゃいますか?」
咲希が尋ねる。
電話の向こうで、美佐子は懐かしそうに息を漏らした。
もちろん、覚えている。
手紙を書くことが好きで、交流事業へ誰より熱心に参加していた少女だった。
学校の統合と父親の転勤が同じ時期に重なり、比嘉家は島の南側へ転居した。
交流事業の担当教員も異動し、病院側との連絡先が引き継がれないまま途切れてしまった。
結海は引っ越し後、新しい住所を書いた手紙を何通も送った。
だが、その頃には由衣も退院し、病院の住所では届かなくなっていた。
手紙はすべて戻ってきた。
結海もまた、由衣の病気が悪化したのではないかと、ずっと心配していたという。
「結海ちゃんは……元気なんですか?」
由衣は両手で口元を覆った。
「元気ですよ」
電話の向こうの美佐子の声にも、わずかに涙が混じる。
「今は島の海洋体験施設で働いています。子どもたちに、珊瑚礁や海の生き物のことを教えています」
由衣の目から、涙がこぼれた。
悲しみではない。
十年間、知ることのできなかった「元気」という二文字が、ようやく届いた涙だった。
咲希は、すぐ結海へ電話をかけようとはしなかった。
先に由衣の隣へ座る。
「結海さんには、どこまでお伝えしてよろしいでしょうか」
由衣が顔を上げる。
「水野由衣さんが島へ来ていて、会いたいと願っていることだけをお伝えしますか?」
先ほどまでの咲希とは、聞き方が違っていた。
見つけることを急ぐのではなく、由衣の気持ちを確かめている。
由衣は少し考えた。
そして、向かいの黒糖プリンを見た。
「黒糖プリンを二つ頼んで待っている、と伝えてください」
咲希は微笑んだ。
「分かりました」
結海は電話の向こうで、すぐには言葉を出せなかった。
咲希が由衣の名前を告げた途端、息を呑む音が聞こえた。
「由衣ちゃんが……島にいるんですか?」
「はい。『しおかぜ』でお待ちです」
「元気なんですか?」
「お元気です」
「本当に?」
「はい。約束の黒糖プリンを二つ用意して」
電話の向こうで、短い泣き声が聞こえた。
それから結海は、笑いながら答えた。
「今すぐ行きます」
由衣は、向かいの席を見つめながら待った。
何度も入口のベルへ目を向ける。
玲奈は黒糖プリンを新しいものへ替えようかと提案したが、由衣は首を横へ振った。
「このままで待ちます」
「少し柔らかくなってしまいますよ」
「十年待ったんです。少しくらい柔らかくても大丈夫です」
大城が窓際でコーヒーを飲みながら、低い声で言う。
「十年待ち続けた人にとって、あと少しの時間など――」
亮介が勢いよく指を立てた。
「三つ目ですね」
大城の言葉が止まる。
奈央は正の字へ線を書き足した。
「あと七つで黒糖プリンです」
「人の感動的な場面を、ポイント制度にするな」
「続きをどうぞ。あと少しの時間など?」
亮介が促す。
大城は、玲奈が笑っていることに気づき、咳払いをした。
「……静かに待つことも、接客の一部だ」
「俺への説教に切り替えた!」
その時、入口のベルが鳴った。
一人の女性が、息を切らして店へ入ってきた。
淡いベージュのシャツに、海洋体験施設の青いスタッフパンツ。肩までの黒髪を後ろでまとめ、首には小さな貝殻のペンダントが揺れている。
二十五歳になった、比嘉結海だった。
結海は入口へ立ったまま、窓際の席を見た。
由衣も、ゆっくり立ち上がった。
二人は、すぐには近づけなかった。
手紙の中では、何百回も話した。
病気のことも、家族のことも、将来の夢も知っている。
それなのに、本当の顔を見るのは初めてだった。
互いに、目の前の大人になった女性の中へ、手紙を書いていた少女を探していた。
由衣が、かすかな声で呼ぶ。
「結海ちゃん?」
結海の目に涙が浮かんだ。
「由衣ちゃん」
たった二つの名前で、十年の空白がほどけた。
結海は由衣のもとへ駆け寄り、両手を握った。
「元気だったの?」
「うん」
「ずっと心配してた」
「私も」
「手紙が戻ってきて……病気が悪くなったんじゃないかって」
「退院して、引っ越したの。新しい住所を伝えられなくて」
「私も引っ越した。学校もなくなって、先生も変わって」
どちらも、相手に忘れられたと思っていた。
どちらも、自分の手紙が届かなかった理由を、自分のせいだと思っていた。
けれど二人の手紙は、学校が変わり、住所が変わり、互いを追いかける途中ですれ違っただけだった。
由衣は、テーブルに置かれた黒糖プリンを指した。
「約束、十年遅れたね」
結海は涙を拭きながら、向かいの席へ座った。
「由衣ちゃんも、来るのが五年遅いよ」
「治療と仕事があったの」
「私も仕事を覚えるのに必死だった」
「じゃあ、お互いさま?」
「お互いさま」
二人は同時にスプーンを持った。
黒糖プリンを一口食べる。
そして、同時に笑った。
「美味しい」
「本当に美味しいね」
「半分こにはしないって約束したよね」
「覚えてる。自分の分は自分で食べる」
由衣は一度、自分のプリンを見た。
「でも、一口交換しない?」
「それは半分こじゃないから、いいよ」
二人は皿を少しだけ前へ押し出し、一口ずつ交換した。
十五年前の手紙の中では、絶対に半分こにしないと約束した。
けれど実際に会ってみれば、自分の美味しいものを少し相手にも食べてもらいたくなった。
奈央は文庫本で目元を隠した。
咲希も小さく息を吐く。
玲奈はカウンターの内側で、二人が十年分の話を始めるのを静かに見守っていた。
由衣が退院した日のこと。
初めて自分の足で海を見た日のこと。
結海が海洋体験施設で働き始めた日のこと。
結海が今も、あの貝殻のスタンプを持っていること。
由衣が結海の手紙を励みに、つらいリハビリを続けたこと。
話は尽きなかった。
けれど二人は急がなかった。
これから続きを話せることが分かったからだ。
咲希は玲奈の隣へ立った。
「玲奈さん」
「はい」
「私、最初は住所や消印ばかりを見ていました」
玲奈は黙って耳を傾ける。
「でも、最後の手紙には、結海さんが大切にしていたものが残っていました。由衣さんとの約束と、貝殻のスタンプと……」
「咲希さんが、由衣さんの気持ちを確かめてから電話をしてくださったから、結海さんも安心して来られたのだと思います」
「私がですか?」
「はい。少し前なら、すぐに結海さんへ全部お話ししていたかもしれませんね」
咲希は照れたように笑った。
「前に、情報を得ることばかり考えて失敗しましたから」
「少しずつ、立派な刑事さんになっていますね」
その言葉に、咲希の表情が明るくなる。
しかし大城が、すぐに低い声で割って入った。
「玲奈さん。宮城巡査は、まだまだです」
「警部」
「褒められた直後に気を緩めるな」
「まだ緩めていません」
「口元が三ミリ上がった」
亮介が呆れたように言う。
「警部さん、若い女性の口元を三ミリ単位で監視してるって、言い方によってはかなり怪しいですよ」
「教育上の観察だ」
「玲奈さんの前だからって、急に名教官ぶらなくても」
「ウェイター君には関係ない」
「今日は奈央さんが呼んでいる作戦、使わないんですか?」
奈央は文庫本を上げた。
「今は呼んでません」
大城は何も言わず、コーヒーへ手を伸ばした。
やがて由衣と結海は、スマートフォンで連絡先を交換した。
今度は住所が変わっても、簡単には途切れない。
それでも結海は、小さなメモ用紙へ新しい住所を書いた。
「手紙も送りたいから」
「私も書く」
由衣はその紙を、大切そうに手紙の束へ挟んだ。
「今度、住所が変わったらすぐに教えてね」
「由衣ちゃんも」
「絶対に」
二人は小指を重ねた。
二十五歳になっても、約束の仕方は小学生の頃と同じだった。
亮介が再会記念の写真を撮るため、カメラを構える。
「では、お二人とも、十年分笑ってください」
「十年分って、どれくらい?」
結海が笑う。
「このくらいです」
亮介が必要以上に歯を見せて笑う。
玲奈が冷静に言った。
「その顔は参考にしないでください」
「写真係への敬意がないですね」
由衣と結海は、白いカーテンと青い海を背景に、空になった黒糖プリンの皿を持って並んだ。
亮介がシャッターを切る。
「これで十年後も、またここでプリンを食べる約束ですね」
「勝手に新しい約束を作らないでください」
玲奈が言う。
だが結海は由衣を見る。
「十年後と言わず、来年も会おう」
「来年は結海ちゃんが東京へ来て」
「じゃあ再来年は、また島で」
二人の間に、今度は約束の続きが生まれた。
亮介は満足げに頷く。
「これで十年先まで予約が入りました。俺の接客力のおかげです」
大城が腕を組む。
「ウェイター君」
「はい」
「君はまず、十年後もこの店に雇ってもらえているかを心配したまえ」
店内が静まり返った。
亮介は玲奈を見る。
玲奈は少し考えるような顔をする。
「今後の勤務態度次第ですね」
「俺の未来だけ、急にサスペンスになった!」
由衣と結海が声を上げて笑う。
感動で目を潤ませていた奈央も、そのまま吹き出した。
大城はニヒルにコーヒーを飲む。
「約束には時効がなくても、雇用には更新があるからね」
亮介が指を立てた。
「四つ目!」
奈央が文庫本へ線を書き足す。
「あと六つで黒糖プリンです」
「まだ数えていたのか」
玲奈は黒糖プリンを一皿、大城の前へ置いた。
「今日は皆さんのおかげで、素敵な再会になりましたから」
大城の表情がわずかに緩む。
「ありがとうございます」
亮介は奈央の正の字を指さした。
「警部さん、まだ四つなのにプリンをもらいましたよ。不正です」
大城はスプーンを持ち、涼しい顔で答える。
「日頃の信頼の差だよ、ウェイター君」
「今ので五つ!」
「名言ではないだろう」
「玲奈さん、俺にも一つください」
「亮介さんは、お客様の帽子で遊んだ分がありますから」
「最初の失点がまだ残ってる!」
由衣と結海の笑い声が、もう一度重なった。
帰り際、由衣は「しおかぜ」の入口で振り返った。
「玲奈さん。黒糖プリンを二つ頼んで、本当によかったです」
玲奈は微笑んだ。
「次は、最初からお二人でいらしてくださいね」
「はい」
結海も頭を下げる。
「今度は私が予約します」
二人は肩を並べて、南ぬ島の眩しい光の中へ歩き出した。
由衣がずっと見たかった海を、今度は結海が案内する。
それは十五年前の手紙に書かれた約束だった。
けれど、もう手紙の中だけの未来ではない。
二人がこれから一緒に歩く、本当の午後だった。
大城はその背中を見送りながら、少し低い声で言った。
「手紙は届かなかった。しかし、約束は――」
亮介が素早く指を立てる。
「六つ目ですか?」
大城は言葉を止めた。
奈央は文庫本へ線を書き加える準備をしている。
咲希は笑いをこらえ、玲奈も口元を緩めた。
大城はしばらく沈黙した後、何事もなかったように黒糖プリンを一口食べた。
「……今のは忘れたまえ」
「県警のエース候補、名言を途中で断念!」
「ウェイター君。奈央さんが呼んでいるぞ」
奈央は本当に手を挙げた。
「亮介さん、コーヒーのおかわりをお願いします」
「本当に呼ばれると、逆に戸惑うんですよ!」
いつもの笑い声が、「しおかぜ」へ戻ってくる。
二つ並んでいた黒糖プリンの皿は、きれいに空になっていた。
けれど二人の約束は、そこで終わったわけではない。
届かなかった手紙。
返送された封筒。
十年間、互いを心配し続けた時間。
それらは消えていたのではなく、今日という日へたどり着くため、少し遠回りをしていただけなのかもしれない。
窓から入った潮風が、由衣の席に残されていた一枚のメモを揺らした。
結海の新しい住所。
その下には、丸みのある字で短い言葉が添えられていた。
今度の手紙は、きっと届く。
十年前に途切れた約束は、その日ようやく終わったのではない。
二人で黒糖プリンを食べ終えた、その場所から。
長い長い続きを、もう一度始めたのである。




