四十年前の青い扉は、黒糖プリンの向こうにあった ――自称県警のエースと新米刑事は、一枚の新婚写真から“帰る場所”を探す
南ぬ島の午後二時。
つい先ほどまで観光客の声と食器の音でにぎわっていた「島カフェ しおかぜ」に、遅れてきた静けさが降りていた。
開け放した窓から、潮の香りを含んだ風が入ってくる。白いカーテンはゆっくりと膨らみ、壁に掛けられた古い海図の端をかすかに揺らしていた。
玲奈はランチで使った皿を洗い終え、黒糖プリンの残数を確認している。
その背後では、亮介が小さな銀色のスプーンを鼻の下へ挟み、真剣な顔で店内を歩いていた。
スプーンの丸い部分を唇の上へ載せ、柄を水平に伸ばしている。
まるで妙に光沢のある口ひげだった。
カウンター席で文庫本を読んでいた奈央が、顔を上げる。
「亮介さん、何をしているんですか」
亮介はスプーンを落とさないよう、口をほとんど動かさずに答えた。
「南ぬ島紳士の午後です」
「どの辺りが紳士なんですか」
「ひげです」
「スプーンですよね」
亮介はすました顔で店内を一周した。
「今後、接客に威厳を出そうと思いまして」
そのまま玲奈の前へ立つ。
「いらっしゃいませ。南ぬ島で最も格式高いウェイターでございます」
玲奈はスプーンを挟んだ亮介の顔を数秒見つめた。
「そのスプーン、先ほど床へ落としましたよね」
亮介の動きが止まる。
「……洗いました」
「洗ってから鼻の下へ挟んだんですか」
「順番としては問題ないかと」
「問題しかありません」
玲奈は淡々と亮介の鼻の下からスプーンを抜き取り、洗い場のかごへ入れた。
「食器で遊ばないでください」
「南ぬ島紳士の威厳が」
「最初からありません」
奈央が文庫本で口元を隠し、肩を揺らす。
亮介は胸を押さえた。
「玲奈さん、言葉が鋭い」
「スプーンよりは丸いと思います」
「その返し、うまいですね」
「褒めていません」
夫婦漫才のようなやり取りだった。
本人たちは、もちろん夫婦ではない。
けれど、玲奈が無表情に突っ込み、亮介が懲りずに返す光景は、「しおかぜ」の午後にはすっかり馴染んでいた。
奈央が本のページをめくりながら言う。
「お二人、その調子なら地方営業もできますよ」
「カフェ経営が駄目になった時の第二案ですね」
「駄目になる前提で話さないでください」
玲奈がそう言った時、店の扉に付けられた小さなベルが鳴った。
入ってきたのは、七十代半ばほどの男性と、五十歳前後の女性だった。
本土からの観光客らしい。
男性は濃紺の帽子をかぶり、胸元には古いフィルムカメラを提げている。旅慣れた格好ではあったが、長く歩いたのか、少し疲れた様子だった。
隣の女性は娘らしく、男性の歩幅に合わせてゆっくり入ってくる。
「いらっしゃいませ」
玲奈が柔らかく声をかけた。
男性は返事をする前に、店内を見回した。
白い壁。
木製の床。
窓の向こうの海。
入口脇の珊瑚石。
何かを探している目だった。
女性が申し訳なさそうに玲奈へ言う。
「少し休ませていただけますか。父が朝からずっと歩いていまして」
「もちろんです。窓際のお席へどうぞ」
二人が腰を下ろしても、男性は落ち着かなかった。
窓枠へ手を触れ、壁の柱を見上げ、入口の方向を何度も振り返る。
亮介が冷たい水を運ぶ。
「この辺りで、何かお探しですか?」
男性はすぐには答えなかった。
やがて、胸ポケットから古びた一枚の写真を取り出した。
長い年月で色が褪せ、四隅が丸くなっている。
写真には、若い男女が肩を寄せ合って写っていた。
背景には、深い青色に塗られた木の扉。
扉の横へ咲きこぼれる赤紫のブーゲンビリア。
白い珊瑚石を積んだ三段の階段。
その脇には、小さな赤い郵便受けが立っている。
若い二人の表情は、少し照れながらも幸せそうだった。
男性は写真を裏返した。
そこには、丸みのある女性の文字で、短い一文が書かれている。
いつか、また二人でここへ。
男性の名は、高瀬修一。
同行している娘は、真理子だった。
修一は四十年前、新婚旅行で妻の美智子と南ぬ島を訪れた。
まだ島への便も少なく、観光地として今ほど知られていなかった頃である。
二人は海沿いを歩いている途中、小さな喫茶店へ立ち寄った。青い扉が印象的な店で、帰り際に店の前で写真を撮ってもらったという。
二人は、いつかもう一度この店へ来ようと約束した。
けれど、子どもが生まれ、仕事が忙しくなり、両親の介護も重なった。
「いつか」は少しずつ先へ延びていった。
そして半年前、美智子は亡くなった。
遺品整理の最中、修一は古い旅行鞄の底から写真を見つけた。
裏に書かれていた約束は、美智子が最後まで捨てずに残していたものだった。
「妻は覚えていたんでしょうね」
修一は写真の文字を指でなぞった。
「私は、忙しかったから仕方がないと、自分に言い訳をしていました」
一人で南ぬ島へ来るつもりだった修一を心配し、真理子が同行した。
だが、写真を撮った店の名前も、住所も残っていない。
修一の記憶にあるのは、青い扉、赤い郵便受け、珊瑚石の階段。そして、店名に「潮」という文字が入っていたような気がすることだけだった。
島へ到着してから二日間、親子は古い喫茶店や商店の跡をいくつも巡った。
しかし、写真と同じ場所は見つからなかった。
「父の記憶違いかもしれません」
真理子が言う。
「別の島で撮った写真と混ざっている可能性もあります。父も最近、昔のことが少し曖昧になってきていて」
修一は反論しなかった。
自分でも、記憶に自信が持てなくなっているのだろう。
写真を握る指だけが、少し強くなった。
玲奈はコーヒーを二つ運び、写真を見つめた。
「よろしければ、この写真をもう少し詳しく見せていただけますか」
修一が頷きかけた時、再び扉のベルが鳴った。
入ってきたのは、大城誠司警部と新人刑事の宮城咲希巡査だった。
大城は薄いグレーのジャケット姿で、日差しを受けたサングラスをゆっくり外した。咲希はその後ろで、真面目な表情のまま一礼する。
「こんにちは、玲奈さん」
玲奈へ向ける大城の声は、亮介へ向ける時より明らかに柔らかかった。
「いらっしゃいませ。今日も島野菜パスタですか?」
「もちろんです。この島で昼食を取るなら、ほかの選択肢を考える必要はありません」
亮介がすぐに口を挟む。
「大げさですね」
大城は亮介を見ずに答える。
「料理の価値を正当に評価しているだけだよ、ウェイター君」
「警部さんの場合、料理を褒めているのか玲奈さんを褒めているのか分からないんですよね」
大城は聞こえなかったふりをした。
だが、修一が持つ写真へ気づくと足を止めた。
事情を聞いた大城は写真を丁寧に受け取り、しばらく無言で眺めた。
そして、やや低い声で言う。
「四十年前の一枚の写真から、島のどこかへ消えた場所を探す」
窓から入る潮風が、大城のジャケットの裾を小さく揺らす。
「県警の将来のエース候補としては、悪くない昼休みですね」
亮介が即座に突っ込む。
「それ、警察の仕事じゃなくて観光案内では?」
大城は涼しい目を向けた。
「困っている観光客へ手を差し伸べるのも、地域の治安を守る警察官の務めだ」
「話を大きくしましたね」
「ウェイター君には、過去と現在を結ぶ仕事の価値は理解できないだろう」
「今の、玲奈さんに聞かせるために声を低くしました?」
大城はカウンター席を指さした。
「向こうで奈央さんが君を呼んでいるぞ」
亮介が奈央を見る。
奈央は文庫本から顔を上げ、首を横へ振った。
「呼んでませんけど」
「ほら、呼んでないって」
「今から呼ぶかもしれない」
「予測で追い払わないでください」
奈央が笑いながら言う。
「大城警部、玲奈さんの前だから、いつも以上に格好をつけてるんですよ」
「やっぱりそうですよね」
「二人とも聞こえているぞ」
大城の声がさらに一段低くなる。
玲奈は笑いをこらえるように、厨房へ戻っていった。
大城は気を取り直し、写真を咲希へ渡した。
「宮城巡査。君が調べてみなさい」
「はい!」
咲希はすぐに警察手帳を取り出した。
「写真を撮影した正確な日付は分かりますか?」
修一は首を傾げる。
「六月だったと思います」
「時刻は?」
「昼過ぎだったような……」
「宿泊されていた施設の名前は?」
「覚えていません」
「店へ向かう前に、どちらを観光されましたか?」
「それも、はっきりとは」
咲希は次々に質問する。
旅行の日程。
利用した交通機関。
当時の天候。
店で注文したもの。
写真を撮った人物。
だが質問が増えるたび、修一の表情は曇っていった。
「すみませんね」
修一は力なく笑った。
「場所を探しに来たのに、何も覚えていなくて」
「いえ、そのような意味ではありません」
咲希は慌てるが、手掛かりを得なければと、さらに手帳へ目を落とす。
大城が静かに言った。
「宮城巡査」
「はい」
「持っていない情報を、何度尋ねても答えは出ない」
「しかし、場所を特定するには事実を整理する必要があります」
「記憶は事件記録ではない」
大城は玲奈が近くにいることを意識したのか、少し格好よく言葉を整えた。
「日付順に、正確な情報だけが保存されているわけではない。人は時刻を忘れても、その時に笑ったことは覚えているものだ」
亮介が奈央へ囁く。
「また名言風にしましたよ」
「玲奈さんがコーヒーを持って近づいてきたからですね」
「聞こえていると言っただろう」
玲奈は修一の前にコーヒーを置いた。
そして咲希へ向けて、責めるのではなく、少し提案するように言う。
「写真を撮った時間ではなく、その日に奥様が何を話されたかを聞いてみてはいかがでしょう」
「会話ですか?」
「はい。笑ったことや、驚いたこと。場所の名前より、そういうことのほうが残っているかもしれません」
咲希は警察手帳を閉じた。
改めて修一を見る。
「奥様は、そのお店で楽しそうにされていましたか?」
修一は写真を見つめた。
しばらくして、かすかな笑みが浮かぶ。
「赤い飲み物を注文したんです」
「赤い飲み物?」
「花のお茶だと言われてね。一口飲んだら、酸っぱいと言って、ひどい顔をした」
玲奈が微笑む。
「ハイビスカスティーかもしれません」
「そうです。確か、そんな名前でした」
修一の声が少し明るくなる。
「店の主人が砂糖を持ってきてくれた。でも妻は、全部入れてもまだ酸っぱいと文句を言っていた」
真理子が笑った。
「お母さん、酸っぱいものが苦手でしたから」
「店には、白い大きな犬もいた」
修一の記憶が少しずつ戻ってくる。
「妻の足元に寝転んで、なかなか離れなかった。妻は犬が苦手なのに、動いたらかわいそうだと言って、ずっと同じ姿勢で座っていた」
「ほかには何を召し上がりましたか?」
咲希が、今度は穏やかに尋ねる。
「小さなプリンです」
修一は答えた。
「妻が自分の分を半分くれたんですが、後になって惜しくなったらしくてね。私の皿から一口、取り返したんです」
真理子の目に涙が浮かぶ。
「お母さんらしい」
修一は頷いた。
先ほどまで自分の記憶を疑っていた男性の顔に、若い日の美智子と一緒にいた頃の光が戻っていた。
「帰る時、妻が言ったんです。またここに来ようって」
修一は写真の裏側を見た。
「子どもが生まれて、少し落ち着いたら来ようと約束しました」
咲希は、何も書かずに修一の話を聞いた。
正確な住所や時刻は失われていても、妻が笑った顔や、酸っぱいお茶の味は残っている。
人の記憶は、情報ではなく、感情に結びついて生き続けることがある。
一方、亮介は写真を窓際の明るい場所へ持っていき、細部を眺めていた。
「この植木鉢……」
写真の隅、青い扉の横に、魚模様の陶器鉢が写っている。
縁の一部が大きく欠け、金色に近い針金で補修されていた。
亮介は店の裏庭へ向かい、しばらくして古い植木鉢を抱えて戻ってきた。
「玲奈さん、これじゃないですか?」
色はすっかり褪せている。
だが側面には、同じ魚の模様。
縁の欠け方も、針金を巻いた位置も、写真と一致していた。
修一は椅子から立ち上がる。
「これだ」
震える指で鉢へ触れる。
「この植木鉢だった」
玲奈も写真と鉢を見比べた。
「この鉢は、以前ここに建っていたお店から引き継いだものだと聞いています」
「以前のお店?」
「しおかぜができる前、この土地には小さな喫茶店があったそうです」
店の名は、喫茶・潮路。
昭和の終わり頃まで営業していた海辺の喫茶店で、青い木製扉と赤い郵便受けが目印だった。
大型台風で建物が大きく損傷し、店主の高齢化もあって閉店した。
建物は取り壊されたが、珊瑚石の階段と植木鉢など、いくつかのものだけが残されたという。
全員が店の入口へ向かった。
現在の扉は白い。
赤い郵便受けもない。
ブーゲンビリアも植え替えられている。
けれど、写真に写る珊瑚石の三段階段は残っていた。
咲希が写真を見ながらしゃがみ込む。
「右端の石に、三角形の欠けがあります」
現在の階段にも、同じ位置に欠けた跡がある。
もう疑う余地はなかった。
四十年前、修一と美智子が立った場所。
青い扉のあった喫茶店。
それは現在の「しおかぜ」だった。
修一は長い間、何も言わなかった。
白い扉と、写真の青い扉を交互に見つめる。
建物は変わっている。
店主も、白い犬も、赤い郵便受けもない。
美智子も隣にはいない。
それでも、珊瑚石の階段は残っている。
魚の植木鉢も残っている。
窓の向こうには、四十年前と同じ海が広がっている。
「ここだったのか」
修一の声が震える。
「ずっと、ここだったんだ」
真理子が父の肩へ手を置いた。
「お母さんと、帰ってこられたね」
修一は胸ポケットから、美智子の小さな遺影を取り出した。
写真の中の妻は、四十年前より少し年を重ねていたが、穏やかな笑顔は同じだった。
「遅くなったな」
修一は写真へ向かって言った。
「待たせてしまった」
玲奈は店内で最も海がよく見える席へ修一を案内した。
黒糖プリンを二つ用意する。
一つは修一の前。
もう一つは、向かいの空席へ。
鮮やかな赤色のハイビスカスティーも添えた。
「昔の味と同じではないかもしれませんが」
「十分です」
修一は遺影を向かいの椅子へ置いた。
ハイビスカスティーを一口飲み、思い切り顔をしかめる。
「やっぱり酸っぱいな」
店内に、小さな笑いが広がる。
「砂糖をお持ちしましょうか?」
玲奈が尋ねる。
「いえ」
修一は遺影へ笑いかけた。
「妻が全部入れても酸っぱいと言った味を、このまま飲んでみます」
黒糖プリンを一口食べる。
それから向かいの皿を見る。
「今日は半分、取られないからな」
そう言いながら、修一は二本目のスプーンで空席側のプリンを少しだけすくい、自分の皿へ移した。
「いや。一口くらいは、取り返されたことにしておこう」
真理子は笑いながら涙を拭った。
店内の誰も、修一の向かいの椅子が空いているとは思わなかった。
咲希は、その光景を静かに見つめた。
自分は、場所を特定するための答えばかり求めていた。
けれど玲奈は、修一が失った記憶ではなく、残っている記憶へ目を向けた。
できないことを数えるのではなく、覚えているものから帰り道をたどったのだ。
「玲奈さん」
咲希は小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
「私は、少し聞き方を変えただけです」
「忘れたことを尋ね続けたら、高瀬さんに、覚えていないことばかり確認させてしまいますよね」
玲奈は穏やかに頷く。
「記憶にも、帰り道があるのかもしれません」
咲希はその言葉を胸に刻んだ。
玲奈は鋭い。
それでも、人を追い詰めるような鋭さではない。
相手が自信を失わないように支えながら、本人が忘れかけた道を一緒に探す。
咲希の中で、玲奈への尊敬がまたひとつ大きくなった。
大城は二人の会話を聞きながら、満足そうに腕を組んだ。
そして修一親子の前へ進み出る。
玲奈の視線を意識したのか、声を少し低くする。
「過去は消えるわけではありません」
亮介が遠くで「あ、始まった」と呟く。
大城は聞こえないふりをした。
「ただ、帰る道が見えなくなることがある。その道標を見つけるのも、我々の仕事です」
修一は深く頷いた。
だが亮介が植木鉢を抱えたまま口を挟む。
「今回は道標を見つけたの、ほぼ俺と植木鉢ですけどね」
大城は涼しい顔で言った。
「ウェイター君。君にも最後の重要な役目を与えよう」
「何です?」
「記念写真を撮りたまえ」
「結局、便利係ですか」
修一は四十年前と同じ珊瑚石の階段へ立った。
その隣に真理子が並び、美智子の遺影を胸の前へ持つ。
玲奈と咲希も促されて階段の横へ立った。
大城はごく自然な顔で玲奈の隣を確保する。
亮介がカメラを構えながら言う。
「警部さんも写るんですか?」
「地域住民への協力活動を記録するためだ」
「ただ玲奈さんの隣に立ちたいだけでしょう」
「早く撮りたまえ」
亮介はタイマーをセットし、自分も写真へ入ろうと走った。
しかし珊瑚石の端につまずき、シャッターが切れる瞬間、片足を大きく上げた妙な格好になった。
撮影された写真を見て、奈央が吹き出す。
「亮介さんだけ、四十年前から慌てて走ってきた人みたいです」
「撮り直しましょう!」
だが修一は笑いながら首を横へ振った。
「このままがいい」
「でも俺だけ格好悪いですよ」
「思い出の写真は、少しくらい格好悪いほうがいいんです」
修一は写真の中の亮介を見た。
「後で見返した時、また笑えますから」
その言葉に、全員が笑った。
四十年前の写真には、青い扉の前で笑う若い夫婦。
新しい写真には、白い扉の前で笑う父と娘、玲奈、咲希、妙に格好をつけた大城、そして転びかけた亮介が写っていた。
同じ場所。
違う扉。
違う時代。
それでも、写真の向こうに広がる海だけは変わっていなかった。
修一は帰り際、四十年前の写真と新しい写真を重ね、胸ポケットへ大切にしまった。
「やっと、妻との新婚旅行を終えられた気がします」
玲奈は静かに首を横へ振る。
「終わったのではなく、続きができたのではないでしょうか」
修一は娘の真理子を見る。
「そうかもしれませんね」
親子は並んで、潮風の中へ歩いていった。
店内へ戻ると、テーブルには大城と咲希の島野菜パスタが残されていた。
すっかり冷めている。
亮介が皿を指さす。
「県警の将来のエース候補でも、冷たいパスタは捜査できなかったようですね」
大城の表情がわずかに止まる。
「事件対応を優先した結果だ」
「観光案内だったでしょう」
咲希が皿を見て、申し訳なさそうに言う。
「玲奈さん、温め直していただけますか」
玲奈は笑った。
「作り直しますよ」
大城は咳払いをして、ジャケットの襟を整える。
「では、お言葉に甘えて」
亮介がにやにやする。
「警部さん、玲奈さんの新しいパスタを食べるために、わざと冷ましたんじゃないですか?」
「ウェイター君」
「はい」
「奈央さんが君を呼んでいるぞ」
奈央が文庫本を掲げながら、今度は本当に手を挙げた。
「亮介さん、黒糖プリンのおかわりをお願いします」
亮介は目を丸くした。
「本当に呼んでた!」
玲奈は冷静に言った。
「早く行ってください」
「俺、今日かなり活躍しましたよね?」
「スプーンを鼻の下へ挟んだこと以外は」
「最初の失点がまだ残ってる!」
店内へ笑い声が広がった。
四十年前の青い扉は、もうどこにもない。
けれど、その扉の向こうで交わされた約束も、二人で飲んだ酸っぱいお茶も、分け合った小さなプリンも、消えてはいなかった。
それらは長い時間を越え、白い扉の「しおかぜ」へ戻ってきた。
黒糖プリンの向こう側に、失われたと思っていた帰る場所は、ずっと残っていたのである。




