黒糖プリンの甘さでは、取り戻せない三百万円 ――元詐欺師のウェイターは、自分が残した“悪い設計図”と対峙する
南ぬ島の午後には、金の匂いより潮の香りのほうが似合う。
海から吹いてきた風が「島カフェ しおかぜ」の白いカーテンを揺らし、窓辺に置かれた小さな貝殻をかすかに鳴らしていた。
ランチの混雑が過ぎた店内では、玲奈が黒糖プリンの型を外し、亮介が空いたグラスを片づけている。
窓際の席では、白川芙美子が奈央と二人の常連客を相手に、光沢のあるパンフレットを広げていた。
芙美子は七十歳。
長く暮らした東京を離れ、南ぬ島へ移住して三年になる。
夫を亡くした後、都内の自宅を売り、退職金や相続した資産を整理した。老後は都会の騒がしさから離れ、海を眺めながら穏やかに暮らしたい。そんな願いから選んだのが、自然豊かなこの島だった。
小さな庭でハーブを育て、朝には海沿いを散歩する。週に二度は「しおかぜ」へ来て、玲奈の黒糖プリンを食べる。
人当たりがよく、世話好きで、少しお節介。
移住者にも島の人々にも分け隔てなく声をかけるため、店ではすっかり顔なじみになっていた。
「島の自然を守りながら、お金も増やせるんですって」
芙美子は楽しそうにパンフレットを指さした。
そこには透明な海、深い緑の森、太陽光パネル、薬草畑、笑顔で手をつなぐ高齢者たちの写真が並んでいる。
事業名は、南西諸島環境共生ファンド。
島内の遊休地を活用した薬草栽培、再生可能エネルギー事業、環境保全型リゾートの運営によって、安定した収益を生み出すという触れ込みだった。
「毎月、二パーセント近い配当が入るそうよ。最初の半年は特別分配金も付くんですって」
奈央はパンフレットへ目を落としながら、わずかに眉を寄せた。
「ずいぶん条件がいいんですね」
「そうでしょう。私一人だけ得をするのも悪いから、皆さんにも紹介しようと思って」
その言葉を聞いた瞬間、コーヒーカップを運んでいた亮介の足が止まった。
カップの中で、黒い水面が小さく揺れる。
「芙美子さん」
声から、いつもの軽さが消えていた。
「その話、誰から聞きました?」
「島外の投資会社の方ですよ。とても感じのいい人でした」
「最初に会ったのは?」
「移住者向けの交流会です。島の環境保全に興味があると話したら、声をかけてくださって」
「契約を急がされました?」
「今月中なら特別枠に入れるとは言われましたけど」
「元本は安全だと?」
「ええ。実質的には保証されているようなものだと」
亮介の目が、鋭く細められた。
環境保全。
地域貢献。
人数限定。
今だけの特別枠。
最初だけ支払われる高配当。
そして、善意の紹介者を使って知人へ話を広げる仕組み。
どれも見覚えがある。
見覚えがあるどころではない。
亮介自身が、かつて客を信じ込ませるために組み立てていた言葉だった。
「それ、絶対にインチキです」
店内が静まり返った。
芙美子は驚いて目を瞬いた。
「でも、きちんと契約書もありますよ」
「契約書があるから本物とは限りません」
亮介はトレーをカウンターへ置き、芙美子の向かいへ座った。
「むしろ、騙す側は立派な契約書を作るんです。分厚くして、難しい言葉を並べて、それだけで安心させる」
亮介は芙美子をまっすぐ見る。
「まだ、お金は出していませんよね?」
芙美子の視線が、窓の外へ逃げた。
「……三百万円ほど」
亮介は両手で頭を抱えた。
「三百万円!」
「そんな大声を出さなくても」
「何で先に相談してくれなかったんですか!」
「亮介さん、いつも冗談ばかりでしょう」
「こういう時だけは信用してくださいよ!」
奈央が小声で言った。
「普段の積み重ねって大切ですね」
「奈央さん、今そこを刺します?」
玲奈は芙美子を責めなかった。
静かにパンフレットを手に取り、亮介へ差し出す。
「亮介さん。詳しく見ていただけますか」
亮介は一ページずつめくった。
華やかな写真。
もっともらしい事業計画。
専門家を名乗る人物の推薦文。
しかし資金の運用先は曖昧で、複数の関連会社が迷路のようにつながっている。中途解約については、読ませる気がないほど小さな文字で、高額な違約金が必要だと記されていた。
ページをめくる亮介の指が、少しずつ強くなる。
「……これ、俺が作った形だ」
玲奈が顔を上げた。
「亮介さんが?」
「昔、俺たちが使っていたスキームです」
亮介は、喉の奥から言葉を引きずり出すように続けた。
「会社をいくつも挟んで、客から資金の流れを見えなくする。最初は本当に配当を出すんです。それで安心させて、追加の出資を勧める」
「紹介した人にも少し利益を与える。そうすれば、その人は善意で新しい客を連れてくる」
亮介は芙美子を見た。
「芙美子さんが皆に勧めようとしたところまで、向こうの計算です」
芙美子の顔から笑みが消えた。
「私、皆さんまで騙すところだったの?」
「芙美子さんが悪いんじゃありません」
亮介は即座に言った。
「親切な人だから利用されたんです」
パンフレットの最後には、営業責任者の顔写真が載っていた。
整えられた髪。
高級そうなスーツ。
穏やかで誠実そうな笑顔。
その下に、名前が印刷されている。
営業統括責任者・川添直人。
亮介の指が止まった。
「……川添」
その名前は、忘れたくても忘れられない過去から、突然引きずり出されたものだった。
かつて、日本協和商事――通称・日協商事で亮介の部下だった男。
亮介は川添へ、客の不安を煽る方法を教えた。
警戒心を解く笑い方。
契約を断ろうとする相手へ罪悪感を抱かせる話術。
家族に相談させないための口実。
解約を諦めさせるための法律用語。
何もかも、徹底的に叩き込んだ。
営業成績が上がらなければ、朝礼で皆の前へ立たせた。
「気合が足りない」と罵倒し、「気合注入」と称して頬を殴ったこともある。
当時の亮介は、それを指導だと思っていた。
組織の中では当たり前だと思い込んでいた。
だが殴られた川添にとって、それは決して当たり前ではなかった。
消えない屈辱であり、憎しみだった。
「俺が教えた」
亮介は震える声で言った。
「こいつに、全部教えたんです」
玲奈は、安易な慰めを口にしなかった。
亮介の過去を軽くする言葉は、今の彼を救うことにはならない。
それを分かっていた。
亮介はパンフレットを握り締めた。
「あいつ、まだこんなことやってやがって」
怒りは川添だけへ向けられたものではなかった。
自分が残した毒が、今も誰かを苦しめている。
その事実への怒りだった。
亮介は芙美子へ、すぐ解約を申し出るよう伝えた。
しかし業者は、契約条項や法律用語を盾に返金を拒んだ。
環境事業への共同出資なので一般的な金融商品とは異なる。
任意解約は認められない。
返金を求める場合は、多額の違約金が必要になる。
亮介は電話の内容を聞き、冷静に契約書を読み直した。
「大丈夫です。解約できます」
芙美子は不安そうに尋ねる。
「でも、法律上できないって」
「相手が法律と言えば、全部正しいわけじゃありません」
亮介は、かつて客を諦めさせる側にいた。
どの条項がただの脅しで、どの言葉が被害者を怖がらせるためのものなのか、誰よりよく知っている。
「説明された事業と実際の金の流れが違う。元本が安全だと誤解させる説明もしている。向こうが作った規約だけで、何でも通るわけじゃありません」
亮介は芙美子の携帯電話をテーブルへ置いた。
「これからは、一人で話さないでください」
そして、川添を「しおかぜ」へ呼び出す計画を立てた。
芙美子から、
「資産のある知人を何人か紹介したい」
と伝える。
新たな出資者が見込めるとなれば、川添は必ず島へ来る。
玲奈は亮介が一人で決着をつけようとしていることに気づき、密かに大城警部へ連絡した。
数日後。
午後の「しおかぜ」へ、川添直人が現れた。
紺色の高級スーツ。
磨き上げられた革靴。
腕には大ぶりの時計。
その後ろには、体格のいい二人の男が付き従っている。
川添は入口で営業用の笑顔を浮かべていた。
「白川様。本日はご紹介のお話を――」
言葉が途中で止まる。
カウンターの前に、亮介が立っていた。
白いシャツ。
黒いエプロン。
手には注文票。
かつて人を脅し、契約を迫っていた男が、今は海辺のカフェで客の皿を運んでいる。
川添の笑顔が、ゆっくり消えた。
「……亮介さん」
「久しぶりだな、川添」
川添は亮介を上から下まで眺め、冷たく笑った。
「随分、落ちましたね。今は皿を運んでいるんですか」
「そうだよ」
亮介は静かに答えた。
「人を騙して食う飯より、ここで皿を運んで食うまかないのほうが、よっぽど美味い」
亮介は例のパンフレットをテーブルへ置いた。
「芙美子さんの三百万円を返せ」
川添の笑みが歪む。
「何を偉そうに」
「偉そうに言う資格がないのは分かってる」
亮介は目をそらさなかった。
「この仕組みを教えたのは俺だ。客を焦らせる言葉も、解約を諦めさせる規約も、全部俺が教えた」
川添の目に、暗い感情が浮かぶ。
「朝礼で俺を殴ったことも覚えていますか?」
店内の空気が張り詰めた。
「あんたは契約を取れない人間に価値はないと言った。皆の前で無能だと罵って、気合注入だと言って俺を殴った」
「ああ」
亮介は逃げずに認めた。
「覚えてる。悪かった」
「謝れば済むと思っているんですか」
「思ってない」
亮介の声は静かだった。
「俺が謝っても、お前が受けた痛みは消えない。あの時の俺は、最低だった」
川添の顔がわずかに揺れる。
「でも、それと芙美子さんの金を騙し取っていいかどうかは別だ」
「俺は、あんたに教わった通りにやっているだけですよ」
「だから俺が止める」
短い言葉だった。
だが、店内の誰にも聞き逃せないほど強かった。
川添は亮介の過去を公表すると脅した。
元詐欺師の言葉など、誰も信じない。
正義の味方のような顔をしても、亮介が人を騙していた事実は消えない。
亮介は一度だけ玲奈を見た。
玲奈は目をそらさなかった。
過去を許したわけではない。
なかったことにもしてくれない。
それでも、今の亮介が何を選ぶのかを見ている。
「俺が昔、最低だったことは、ここにいる全員が知ってる」
亮介は川添へ向き直った。
「隠すつもりはない。だから、それは脅しにならない」
追い詰められた川添が、二人の取り巻きへ目配せした。
男たちが亮介の両脇から近づく。
玲奈が店の奥にいる客たちを下がらせようとするより早く、亮介は一歩前へ出た。
「玲奈さん」
振り返らずに言う。
「皆を厨房の奥へ」
「亮介さん」
「この店の中では、絶対に暴れさせない」
いつものお調子者の声ではなかった。
亮介は男たちへ向き直り、親指で店の外を示した。
「外へ出ろ」
川添が鼻で笑う。
「まだ命令するんですか」
「違う」
亮介はエプロンを外し、近くの椅子へ静かに置いた。
「店を守ってるだけだ」
店の前の石畳へ出た瞬間、一人目の男が亮介へ突進した。
亮介は逃げなかった。
元ラガーマンの太い脚で地面を踏みしめ、低く腰を落とす。正面から肩を受け止めた次の瞬間、相手の勢いを殺さずに体を半歩ずらした。
男の体が前へ流れる。
亮介は腰へ腕を回し、そのまま石畳の上へ転がした。
派手に殴り倒したのではない。
相手の力を、相手自身へ返した。
二人目が横から拳を振るう。
亮介は左腕で受けた。
鈍い音が響く。
それでも顔色一つ変えず、懐へ踏み込む。相手の胸へ肩を入れ、元ラガーマンらしい低い姿勢で一気に押し込んだ。
男の背中が店外の壁へぶつかる。
「人の店に手ぇ出すなら」
亮介は男の腕を押さえたまま言う。
「相手を選べ」
男が膝蹴りを放とうとする。
亮介は脚を引いてかわし、足を払った。男の体勢が崩れたところで腕をひねり、地面へ伏せさせる。
そこへ、最初の男が再び立ち上がる。
亮介の頬へ拳が入った。
口の中に血の味が広がる。
しかし亮介は倒れない。
拳を受けた方向へ一度だけ顔を流し、ゆっくり正面へ戻す。
唇の端を親指で拭った。
「俺、昔から打たれ強いんだよ」
奈央が店の中から叫ぶ。
「そこは千五百メートル四国八位じゃないんですか!」
「今、言おうと思ってたのに!」
亮介の口元に、いつもの笑みがわずかに戻る。
だが次の瞬間には再び鋭い目になり、突っ込んできた男の腕を取り、体を入れ替え、肩越しに地面へ落とした。
川添がその隙に店へ戻ろうとする。
亮介は二人の間をすり抜け、入口の前へ立ちはだかった。
背中には「しおかぜ」の白い暖簾。
その向こうには玲奈と、芙美子と、常連客たちがいる。
「どけ!」
川添が叫ぶ。
「お前が恨んでいるのは俺だろ」
亮介の唇から血が落ちる。
それでも、笑っていた。
「だったら俺だけを見ろ。店にも、客にも、手を出すな」
川添は怒りに任せて拳を振り上げた。
亮介はその手首をつかむ。
かつて朝礼で川添を殴った手だった。
今度は、その拳を止めるために使う。
亮介は川添の腕を外側へ流し、背後へ回り込む。肩と肘を固定し、怪我をさせないぎりぎりの力で石畳へ押さえ込んだ。
「離せ!」
「芙美子さんの金を返すって言うまで、離したくないけどな」
取り巻きの一人が、背後から亮介へ飛びかかる。
三対一。
亮介は川添を押さえたまま振り返る。
間に合わない。
そう思われた瞬間だった。
「そこまでだ」
低く、よく通る声が響く。
大城誠司警部が男の腕をつかみ、鮮やかに体勢を崩した。
宮城咲希と待機していた捜査員たちも一斉に現れ、もう一人の取り巻きの退路を塞ぐ。
川添たちは詐欺容疑に加え、暴行と脅迫の現行犯で取り押さえられた。
亮介はその場へ座り込んだ。
肩で息をし、頬は腫れ、白いシャツの袖は汚れている。
それでも入口の鉢植えも、白い暖簾も、窓ガラスも無事だった。
大城が亮介を見下ろす。
「ウェイター君。格好をつけるのは結構だが、三人を相手にする必要はなかった」
亮介は荒い呼吸のまま笑った。
「警部さんに言われたくないですよ」
「私は勝算のない格好のつけ方はしない」
「玲奈さんの前では、結構してるでしょう」
大城の眉がわずかに動く。
「事情聴取では、その余計な発言も詳細に記録しておこう」
亮介も事情を聞かれるため、警察署へ同行することになった。
しかし、店内の防犯映像、玲奈からの事前連絡、芙美子や客たちの証言から、亮介が客と店を守ろうとしていたことはすぐに確認された。
川添の会社には捜索が入り、偽造された運用報告書、架空事業の資料、多数の被害者名簿が押収された。
芙美子以外にも、本土や離島の高齢者から多額の金を集めていたことが判明する。
関係者は次々に検挙され、投資詐欺グループは壊滅。
隠されていた資金も確保され、芙美子の三百万円は全額戻ってきた。
数日後。
「しおかぜ」には、いつもの潮風とコーヒーの香りが戻っていた。
顔に小さな絆創膏を貼った亮介が、少しぎこちない動きでグラスを拭いている。
「痛っ……」
「まだ無理をしないでください」
玲奈が言う。
「大丈夫ですよ。この程度、ラグビーやってた頃に比べれば」
「昨日、寝返りを打つだけで悲鳴を上げていたそうですね」
奈央が文庫本を読みながら言った。
「誰から聞いたんですか」
「壁が薄いので」
「生活音の報告やめてください」
そこへ芙美子が、小さな包みを抱えてやってきた。
「三百万円、全部戻ってきました」
店内に拍手が起きる。
「本当にありがとうございました」
芙美子は亮介へ頭を下げた。
亮介は慌てて両手を振る。
「やめてください。俺が昔作った悪い仕組みですから。壊す責任くらいはあります」
「それでも、あの日の亮介さんは格好よかったですよ」
奈央が微笑む。
「入口を守っているところ、映画みたいでした」
亮介は照れ隠しに鼻の下をこする。
「まあ、千五百メートル四国八位ですからね」
「走っていませんけど」
「心の中では走ってました」
玲奈はカウンターの奥から、黒糖プリンを一皿運んできた。
亮介の前へ置く。
「今日は味見ではありません」
「俺にですか?」
「はい」
玲奈は、少し言いにくそうに間を置いた。
「今回は……立派でした」
亮介が固まった。
店内も静かになる。
玲奈が亮介を真正面から褒めることは、めったにない。
「自分の過去から逃げずに、芙美子さんのお金だけでなく、ほかの被害者の方々も救いました」
「俺が原因みたいなものですから」
「それでもです」
玲奈は穏やかに微笑んだ。
「自分の間違いを認めることと、それを直そうとすることは、別の勇気が必要です」
亮介は黒糖プリンへ目を落とした。
「亮介さんは、もう昔の亮介さんではありませんね」
目頭が熱くなる。
だが店内には奈央も芙美子も、大城も咲希もいる。
ここで泣くわけにはいかない。
亮介は胸を張った。
「玲奈さん。そこまで俺を認めてくれるなら、この際、共同経営者への昇格を正式に――」
玲奈の微笑みが消えた。
「今の褒め言葉は取り消します」
「早い!」
「記録上、なかったことにします」
咲希が真面目な顔で尋ねる。
「褒め言葉は、警察の供述調書のように取り消せるものなのですか?」
大城はコーヒーカップを持ちながら答える。
「宮城巡査。今のは、店主としての適切な危機管理だ」
「何の危機ですか!」
亮介が抗議する。
「経営権を要求するウェイターという危機だよ」
大城がニヒルに言う。
「警部さん、俺が格好よかったから嫉妬してるでしょう」
「ウェイター君。頭部も負傷したのかね」
店内に笑いが広がる。
亮介はせめて最後だけでも格好よく決めようと、黒糖プリンを大きくすくった。
「まあ見ていてください。真の男はプリンの一つや二つ――」
そのまま一口で食べ、喉へ詰まらせた。
「んっ……!」
亮介は胸を押さえ、目を白黒させる。
玲奈は慌てることもなく、用意していたように水を差し出した。
亮介が一気に飲み干す。
「危なかった……」
玲奈は呆れた顔で言う。
「どうして普通に食べられないんですか」
「皆が見ていたので、格好よく食べようと」
「黒糖プリンに格好よさは必要ありません」
大城が静かにカップを置く。
「ウェイター君。詐欺組織には勝てても、黒糖プリンには完敗のようだね」
「水を飲んでいる時に話しかけないでください!」
奈央が笑う。
芙美子も、咲希も笑う。
大城さえ口元へわずかな笑みを浮かべた。
玲奈は亮介の空になったグラスへ、もう一度水を注ぐ。
「それでも」
小さな声で言った。
「今回は、本当にありがとうございました」
亮介は一瞬、言葉を失った。
そして今度は調子に乗らず、少し照れたように笑う。
「……どういたしまして」
「それだけですか?」
奈央がからかう。
「今、余計なことを言うと、また褒め言葉を取り消されますから」
「少しは学習したようだね、ウェイター君」
「警部さんに褒められても、全然うれしくないです」
笑い声が、潮風とともに店の外へ流れていった。
こうして元詐欺師のウェイターは、自分が過去に残した“悪い設計図”をひとつ壊した。
取り戻したのは、三百万円だけではない。
過去を消すことはできなくても、過去とは違う選択をすることはできる。
かつて人を殴って従わせた男は、今度は誰かを守るために殴られ、それでも入口の前から退かなかった。
それは亮介が、失ったままだと思っていた誇りを少しだけ取り戻した午後だった。
もっとも、その誇りの半分ほどは、最後に黒糖プリンを喉へ詰まらせたことで台無しになった。
けれど「しおかぜ」では、それくらいがちょうどいい。
誰かが格好をつけすぎれば、誰かが笑う。
誰かが過去に沈みそうになれば、温かいコーヒーと黒糖プリンが置かれる。
そして、その隣には必ず、黙って水を差し出してくれる人がいるのだから。




