黒糖プリンの隣で、存在しない警部が電話をかけてきた ――本物の警部は潮風より気取り、新人刑事は“声の嘘”に躓く
南ぬ島の昼下がりには、事件よりも眠気のほうがよく似合う。
海から吹き込む風は白いカーテンをゆっくり膨らませ、窓辺の観葉植物の葉をかすかに揺らしていた。遠くでは漁船のエンジン音が低く響き、店内には挽きたてのコーヒーと、炒めた島野菜の香りが漂っている。
「島カフェ しおかぜ」の窓際では、大城誠司警部が、いつもの島野菜パスタを食べていた。
薄いグレーのジャケット。
襟元を少しだけ緩めた白いシャツ。
椅子の背へ軽く体を預けながらも、姿勢は決して崩さない。
フォークで島オクラを巻き取る動作にさえ、本人なりの美学があるらしい。
向かいには、新人刑事の宮城咲希巡査が座っていた。
咲希は食事の途中にもかかわらず、膝の上へ警察手帳を広げ、午前中の聞き込みで注意された内容を書き留めている。
「宮城巡査」
大城が低い声で呼んだ。
「はい」
「食事中に手帳を開くな」
「午前中の反省点を、忘れないうちに整理しております」
「反省熱心なのは結構だ。しかし君は今、入口へ背を向けている」
咲希は慌てて椅子を動かした。
「動きが大きい」
「申し訳ありません」
「謝る時に下を向くな」
咲希は顔を上げた。
「顎を上げすぎだ」
「……はい」
「返事に不満が混じった」
咲希の眉間へ、ほんの少しだけ皺が寄る。
大城はそれを見逃さない。
「感情を顔へ出すな。刑事は、相手の表情を読む側だ。自分の内心を読ませてどうする」
言葉の内容は正しい。
しかし、その日はいつにも増して声が低く、言い回しが妙に格好よかった。
なぜなら、カウンターの向こうで玲奈が聞いていたからである。
玲奈は黒糖プリンへ琥珀色のソースをかけながら、時折、大城と咲希のほうを見ている。
その視線を感じるたび、大城の指導は少しだけ芝居がかった。
「刑事の仕事は、事件が起きてから始まるものではない。平穏の中に潜む違和感を拾い上げるところから、すでに捜査は始まっている」
水を運んできた亮介が、すぐに口を挟んだ。
「今の台詞、玲奈さんへ聞かせるために言いましたよね」
大城は亮介を見ようともしなかった。
「ウェイター君は、向こうへ行っていなさい」
「いきなり追い払います?」
「ほら。奈央さんがキミを呼んでいるよ」
カウンター席では、奈央が文庫本を読んでいた。
亮介が近づくと、奈央はページから顔を上げる。
「呼んでませんけど……」
「ですよね」
亮介は振り返った。
「警部さん。奈央さん、呼んでないそうです」
大城は涼しい顔でパスタを口へ運ぶ。
「今から呼ぶかもしれない」
「予測で追い払わないでくださいよ」
奈央は文庫本へしおりを挟み、肩を揺らした。
「大城警部は相変わらずですね」
「玲奈さんの前だと、咲希さんへの指導が三割増しになるんですよ」
「声も一段低くなりますね」
「たまに刑事ドラマの主役みたいになります」
二人が小声で笑う。
大城には聞こえているはずだが、聞こえないふりをしていた。
そこまでは、「しおかぜ」の平和な日常だった。
その空気を変えたのは、常連客の仲宗根トヨだった。
小柄で朗らかなトヨは、窓際の席で黒糖プリンを食べながら、亮介が淹れた薄めのコーヒーを飲んでいた。
テーブルの上で携帯電話が震える。
画面には「非通知」と表示されていた。
「誰かねえ」
トヨは首を傾げながら電話へ出た。
「もしもし」
低い男の声が聞こえる。
相手は、落ち着いた口調で名乗った。
沖縄県警の山川警部。
トヨの銀行口座が犯罪組織の資金洗浄へ使用されている。捜査のため、通帳とキャッシュカードを預かる必要がある。ほかの人へ話せば捜査妨害になる――。
最初は穏やかに応じていたトヨの表情が、次第に曇っていく。
玲奈は、プリンを運びながらその変化に気づいた。
「トヨさん。どうされました?」
「警察の人からでね。私の口座が犯罪に使われているらしいよ」
大城のフォークが止まった。
先ほどまでの気取った余裕が消え、刑事の目になる。
もっとも、立ち上がる動作には依然として無駄がなく、ジャケットの裾を整える仕草まで決まっていた。
「少し失礼します」
大城はトヨの許可を得て携帯電話の画面を見る。
着信は非通知。
通話はまだつながっている。
大城はトヨへ小さく合図し、一度電話を切らせた。
その上で着信履歴を確認する。
「非通知ですね」
「そうみたいだねえ」
大城はトヨの目を見た。
声は低いが、怖がらせないように少し柔らかくしている。
「県警が電話だけで通帳やキャッシュカードの提出を求めることはありません。暗証番号を聞くこともありません」
署へ照会すると、「山川警部」という人物は関係部署に存在しなかった。
大城は静かに断言する。
「百パーセント、詐欺の電話です」
「あらまあ」
トヨは驚いたものの、声は妙にのんびりしていた。
「警部さんがいる時に、偽物の警部から電話が来るなんてねえ」
「犯人にとっては、不運でしたね」
大城はわずかに口角を上げた。
玲奈が見ていることを確認してから、さらに低い声で続ける。
「偽物が警部を名乗るなら、本物がどこにいるかくらい調べておくべきでした」
亮介が小声で言った。
「今の決め台詞、早くないです? まだ犯人捕まってませんよ」
大城は亮介を一瞥した。
「ウェイター君。事件には伏線というものがある」
「捜査じゃなくてドラマになってますよ」
大城はトヨへ向き直った。
「大変ご面倒ですが、捜査にご協力いただけませんか。犯人から再び連絡があれば、まだ信じているふりをしていただきたいのです」
「あっ、はいはい……」
トヨは、その仰々しい頼み方に少し呆気に取られながらも頷いた。
「私、芝居は上手じゃないよ」
「自然にしていただければ十分です」
大城はそう言い、咲希へ視線を向けた。
「宮城巡査」
「はい」
「この件を君に任せる」
咲希の表情が引き締まる。
「必ず犯人を――」
「最初から犯人を捕まえることだけを考えるな」
大城は先回りして制した。
「第一に被害者を守る。第二に事実を確認する。逮捕はその後だ」
「はい」
「今の返事は悪くない」
咲希はトヨの隣へ座り、事情を聞き始める。
しかし、偽警部がトヨの名前だけでなく、最近参加した老人会の催しや、島外に住む息子の仕事まで知っていたと分かると、咲希の焦りが顔を出した。
「老人会の名簿は公開されていますか」
「息子さんの勤務先をご近所の方へ話しましたか」
「最近、ご自宅の周りに不審な人物はいませんでしたか」
「郵便物を盗まれた可能性は――」
質問を重ねるほど、トヨの顔が不安そうになっていく。
大城が低く言った。
「宮城巡査。止めなさい」
「ですが、情報の流出元を特定しなければ」
「君は今、犯人ではなく被害者を追い詰めている」
咲希は言葉を失う。
「質問の数が、捜査の質ではない。相手が不安になっていることへ、なぜ気づかない」
大城の指導は正しいが、玲奈の前ということもあり、語調には必要以上の厳しさがあった。
咲希の顔が険しくなる。
亮介が気になって近づく。
「警部さん。そのくらいでいいんじゃないですか。咲希さんだって初めてなんですから」
大城は静かに振り向いた。
「ウェイター君」
「はい」
「向こうへ行っていなさい」
「またですか」
「奈央さんがキミを呼んでいるぞ」
奈央は文庫本を開いたまま、首を横へ振った。
「呼んでませんけど……」
「ほら」
亮介が言う。
「奈央さんも困ってます」
大城は平然と返す。
「これから呼ぶ予定かもしれない」
「予定を捏造しないでください」
奈央が笑う。
「亮介さん、警部さんは今、玲奈さんに格好いいところを見せるので忙しいんですよ」
「やっぱりそうですよね」
「二人とも」
大城の声が低くなる。
「捜査の妨げになる会話は控えたまえ」
「図星になると声がさらに低くなるんですよ」
亮介はそう言いながらも、トヨの不安そうな表情を見ると口を閉じた。
玲奈が温かいお茶をトヨの前へ置く。
「トヨさん。まず、ゆっくり息をしてください」
「はいよ」
「通帳もカードも、誰にも渡さなくて大丈夫です。ここには本物の警察官が二人いますから」
大城が小さく姿勢を正した。
玲奈は咲希にも目を向ける。
「宮城さん。犯人の情報を集めることは大切ですけれど、今はトヨさんの不安を小さくするほうが先ではないでしょうか」
咲希はトヨの顔を見る。
質問を始めた時よりも、明らかに表情が硬くなっていた。
「申し訳ありません」
「謝るのは、事件が終わってからでもできますよ」
玲奈の声は穏やかだった。
「まずは、安心して話せる場所を作りましょう」
その直後、トヨの携帯電話が再び震えた。
また非通知だった。
咲希は大城へ確認し、スピーカーへ切り替える。
偽の山川警部は、先ほどより少し強い口調で話す。
口座の確認には時間がない。
県警から派遣する職員が、「しおかぜ」へ通帳とキャッシュカードを受け取りに行く。
暗証番号を書いた紙も一緒に封筒へ入れるように――。
大城は署へ連絡し、店の周辺へ私服捜査員を配置する。
トヨには、カードの代わりに厚紙を入れた封筒を用意してもらった。
「私にも何かできます?」
亮介が尋ねる。
「普段どおりにしていなさい」
「それだけ?」
「君が特別なことをすると、すべてが不自然になる」
「見下してますよね」
「経験に基づく評価だよ、ウェイター君」
「千五百メートル四国八位の行動力を甘く見ないでください」
「今必要なのは走力ではなく、静かにしている能力だ」
「一番苦手なことを要求しますね」
「自覚はあるようだ」
しばらくすると、配送会社の制服を着た若い男性が段ボール箱を抱えて入ってきた。
店の前で携帯電話を確認し、落ち着かない様子で店内を見回している。
咲希はすぐに反応した。
封筒を受け取りに来た受け子だと思ったのだ。
「警察です。少しお話を――」
立ち上がりかけた咲希の腕へ、玲奈がそっと触れる。
「宮城さん。その方は、うちが注文したコーヒー豆の配達員さんです」
若い配達員は目を丸くし、納品伝票を差し出した。
咲希の顔が赤くなる。
「大変申し訳ありません」
大城の目が厳しくなる。
「宮城巡査」
「はい」
「不安そうにしている人間が、犯罪者とは限らない」
「はい」
「重い箱を抱え、初めて入る店で納品先を探していた。それだけだ。送り状を確認すれば、店への正規配送だと分かった」
「申し訳ありません」
「君は犯人を観察したのではない。“犯人らしい人物”を探していた」
咲希は唇を噛む。
大城は玲奈の前で、さらに格好よく締めくくろうとする。
「刑事は先入観で獲物を選ぶ猟師ではない。事実を積み重ね、真実へ近づく仕事だ」
亮介がぼそりと言った。
「今の、玲奈さんが近くに来るまで待ってから言いましたよね」
「ウェイター君には関係ない」
大城は視線だけで追い払う。
玲奈は何も言わず、店の外へ目を向けていた。
歩道の端に、中年の男が立っている。
観光客風の花柄シャツ。
つばの広い帽子。
片手には観光案内のパンフレット。
だが男は、海も空も見ていなかった。
ガラス越しに、トヨの手元ばかり確認している。
外は強い日差しなのに、額に汗がほとんどない。近くまで車で来たのだろう。
店内へ入ってからも席へ座らず、メニューを開こうとしない。
視線は何度もトヨの封筒へ向かう。
玲奈は咲希へ静かに声をかけた。
「今度は、すぐに動かず見てみましょう」
咲希は頷く。
「人を探している人は、探している相手を見すぎないようにすることがあります」
玲奈の言葉を受け、咲希は男を観察した。
男は携帯電話の画面とトヨの服装を見比べる。
店内に警察官がいないと思ったのか、ゆっくりトヨの席へ近づく。
「仲宗根トヨさんですね」
「そうですけど」
「沖縄県警の山川警部から依頼を受けて参りました。封筒をお預かりします」
咲希が静かに立った。
今度は焦らない。
男が警察を名乗り、封筒へ手を伸ばした事実を確認してから前へ出る。
「沖縄県警八重山警察署です」
男の顔色が変わる。
「身分を確認させてください」
男は踵を返して逃げようとした。
だが、その先には大城が立っていた。
いつの間にか男の退路へ回り込み、ジャケットの内側から警察手帳を取り出している。
大城はサングラスを外した。
そして玲奈が見ていることを確認してから、低く言い放つ。
「残念だったね」
男が息を呑む。
「存在しない警部の使いを名乗るなら、本物の警部がどこでランチを取っているかくらい、調べておくべきだった」
完璧に決めた。
少なくとも本人はそう思った。
男を咲希と協力して取り押さえた直後、亮介が尋ねる。
「警部さん、その台詞、最初の電話からずっと考えてました?」
大城は男から目を離さない。
「ウェイター君には関係ない」
「間が妙に完璧でしたもんね」
「向こうへ行っていなさい」
「奈央さんが呼んでるんですか?」
奈央は文庫本を掲げながら言った。
「今回は呼んでません」
「ほら」
亮介が笑う。
大城は無言で男へ手錠をかけた。
受け子の携帯電話には、偽の山川警部を名乗った共犯者からの指示が残されていた。近くに止められた車からは、高齢者の名簿、使い捨て携帯電話、複数の封筒が発見される。
警察は通話記録を追い、港近くの駐車場にいた電話役も確保した。
こうして、黒糖プリンの隣から始まった特殊詐欺事件は、被害を出すことなく解決した。
騒ぎが収まると、トヨは冷めてしまった黒糖プリンを見て笑った。
「警察の捜査へ協力するのも大変だねえ。プリンを食べる暇もなかったさ」
玲奈は新しい黒糖プリンと取り替える。
「今度は、ゆっくり召し上がってください」
「捜査協力のお礼かね」
「しおかぜからのお礼です」
トヨは満足そうにスプーンを取った。
咲希は大城の前へ立つ。
「ご指導をお願いいたします」
大城は窓際の席へ戻り、玲奈が淹れ直したコーヒーを一口飲んだ。
事件解決後にもかかわらず、その姿は妙に絵になっている。
「二十五点」
「二十五点……」
咲希の肩が下がる。
「被害者へ質問を重ね、不安を増幅させた。無関係な配達員を疑った。捕まえようとする気持ちが先に立ち、守るべき人間を見失った」
「はい」
「だが、後半は悪くなかった」
咲希が顔を上げる。
「玲奈さんの助言を受けてから、君は動く前に観察した。男の外見ではなく、行動と発言を確認した」
「ありがとうございます」
「五十点だ」
「まだ半分ですね」
「一度の成功で、一人前になったと思わないことだ」
亮介が空いた皿を持ちながら口を挟む。
「相変わらず厳しいですね。事件を解決したんだから、もう少し褒めてもいいでしょう」
大城は冷たい目を向けた。
「ウェイター君。捜査へ参加していない人間が採点へ口を挟まないでくれたまえ」
「普段どおりにしろという指示には従いましたよ」
「何もしなかった点だけは評価しよう」
「何点です?」
「三点」
「咲希さんより厳しい!」
奈央が文庫本の向こうで笑った。
玲奈は咲希の前へ、黒糖プリンを置く。
「今日はお疲れさまでした」
「ありがとうございます」
咲希はスプーンを持つ前に、玲奈へ尋ねた。
「玲奈さん。私は、犯人を早く見つけたいと思うあまり、トヨさんを余計に怖がらせてしまいました」
玲奈は静かに頷く。
「犯人を見つけようとする気持ちは、大切です」
「でも、それだけでは足りないんですね」
「怖がっている人の隣にいる時、警察官まで一緒に焦ってしまったら、その方はもっと不安になります」
玲奈は黒糖プリンの皿を、咲希のほうへ少し押した。
「犯人を追う前に、守るべき人を見る。そうすれば、見えなかったものも少しずつ見えてくると思います」
咲希は深く頷いた。
玲奈は、誰よりも鋭く状況を見ている。
けれど、鋭さを人へ突きつけない。
疑う前に安心させ、話を聞き、相手の心が落ち着くのを待つ。
咲希の中で、玲奈への尊敬がさらに強くなった。
「私も、玲奈さんのような警察官になりたいです」
玲奈は少し照れたように微笑む。
「私は、もうだいぶ前に警察を卒業していますよ」
「それでもです」
少し離れた席で、大城が満足そうに頷いていた。
まるで自分の教育成果であるかのような顔だった。
亮介は、それを見逃さない。
「警部さん。咲希さんを立て直したの、玲奈さんですよ」
大城はゆっくりコーヒーカップを置いた。
「ウェイター君」
「はい」
「奈央さんが呼んでいるぞ」
奈央が今度は本当に手を挙げた。
「亮介さん、黒糖プリンのおかわりをお願いします」
亮介は大城と奈央を交互に見る。
「警部さん、奈央さんに目で頼みました?」
大城はニヒルに笑った。
「証拠はあるのかね」
「さっきまでの捜査で覚えた言葉を、すぐ俺に使わないでください」
玲奈が笑い、咲希も声を上げて笑った。
存在しない山川警部からの電話は切れ、本物の警部は最後まで格好をつけた。
新人刑事は早とちりをし、叱られ、そして少しだけ立ち止まることを覚えた。
追いかける前に、見る。
疑う前に、確かめる。
声の嘘へ耳を澄ませるだけでなく、その声に怯える人の表情にも目を向ける。
窓の外には、午後の光を受けた南ぬ島の海。
トヨの前には、新しい黒糖プリン。
咲希の前にも、反省より少しだけ甘い一皿が置かれていた。
そして大城警部は、玲奈が自分の決め台詞を聞いていたかどうかを、それとなく確かめながら、何事もなかったように島野菜パスタの続きを食べるのだった。




