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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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黒糖プリンの隣で、存在しない警部が電話をかけてきた ――本物の警部は潮風より気取り、新人刑事は“声の嘘”に躓く

南ぬ島の昼下がりには、事件よりも眠気のほうがよく似合う。


海から吹き込む風は白いカーテンをゆっくり膨らませ、窓辺の観葉植物の葉をかすかに揺らしていた。遠くでは漁船のエンジン音が低く響き、店内には挽きたてのコーヒーと、炒めた島野菜の香りが漂っている。


「島カフェ しおかぜ」の窓際では、大城誠司警部が、いつもの島野菜パスタを食べていた。


薄いグレーのジャケット。


襟元を少しだけ緩めた白いシャツ。


椅子の背へ軽く体を預けながらも、姿勢は決して崩さない。


フォークで島オクラを巻き取る動作にさえ、本人なりの美学があるらしい。


向かいには、新人刑事の宮城咲希巡査が座っていた。


咲希は食事の途中にもかかわらず、膝の上へ警察手帳を広げ、午前中の聞き込みで注意された内容を書き留めている。


「宮城巡査」


大城が低い声で呼んだ。


「はい」


「食事中に手帳を開くな」


「午前中の反省点を、忘れないうちに整理しております」


「反省熱心なのは結構だ。しかし君は今、入口へ背を向けている」


咲希は慌てて椅子を動かした。


「動きが大きい」


「申し訳ありません」


「謝る時に下を向くな」


咲希は顔を上げた。


「顎を上げすぎだ」


「……はい」


「返事に不満が混じった」


咲希の眉間へ、ほんの少しだけ皺が寄る。


大城はそれを見逃さない。


「感情を顔へ出すな。刑事は、相手の表情を読む側だ。自分の内心を読ませてどうする」


言葉の内容は正しい。


しかし、その日はいつにも増して声が低く、言い回しが妙に格好よかった。


なぜなら、カウンターの向こうで玲奈が聞いていたからである。


玲奈は黒糖プリンへ琥珀色のソースをかけながら、時折、大城と咲希のほうを見ている。


その視線を感じるたび、大城の指導は少しだけ芝居がかった。


「刑事の仕事は、事件が起きてから始まるものではない。平穏の中に潜む違和感を拾い上げるところから、すでに捜査は始まっている」


水を運んできた亮介が、すぐに口を挟んだ。


「今の台詞、玲奈さんへ聞かせるために言いましたよね」


大城は亮介を見ようともしなかった。


「ウェイター君は、向こうへ行っていなさい」


「いきなり追い払います?」


「ほら。奈央さんがキミを呼んでいるよ」


カウンター席では、奈央が文庫本を読んでいた。


亮介が近づくと、奈央はページから顔を上げる。


「呼んでませんけど……」


「ですよね」


亮介は振り返った。


「警部さん。奈央さん、呼んでないそうです」


大城は涼しい顔でパスタを口へ運ぶ。


「今から呼ぶかもしれない」


「予測で追い払わないでくださいよ」


奈央は文庫本へしおりを挟み、肩を揺らした。


「大城警部は相変わらずですね」


「玲奈さんの前だと、咲希さんへの指導が三割増しになるんですよ」


「声も一段低くなりますね」


「たまに刑事ドラマの主役みたいになります」


二人が小声で笑う。


大城には聞こえているはずだが、聞こえないふりをしていた。


そこまでは、「しおかぜ」の平和な日常だった。


その空気を変えたのは、常連客の仲宗根トヨだった。


小柄で朗らかなトヨは、窓際の席で黒糖プリンを食べながら、亮介が淹れた薄めのコーヒーを飲んでいた。


テーブルの上で携帯電話が震える。


画面には「非通知」と表示されていた。


「誰かねえ」


トヨは首を傾げながら電話へ出た。


「もしもし」


低い男の声が聞こえる。


相手は、落ち着いた口調で名乗った。


沖縄県警の山川警部。


トヨの銀行口座が犯罪組織の資金洗浄へ使用されている。捜査のため、通帳とキャッシュカードを預かる必要がある。ほかの人へ話せば捜査妨害になる――。


最初は穏やかに応じていたトヨの表情が、次第に曇っていく。


玲奈は、プリンを運びながらその変化に気づいた。


「トヨさん。どうされました?」


「警察の人からでね。私の口座が犯罪に使われているらしいよ」


大城のフォークが止まった。


先ほどまでの気取った余裕が消え、刑事の目になる。


もっとも、立ち上がる動作には依然として無駄がなく、ジャケットの裾を整える仕草まで決まっていた。


「少し失礼します」


大城はトヨの許可を得て携帯電話の画面を見る。


着信は非通知。


通話はまだつながっている。


大城はトヨへ小さく合図し、一度電話を切らせた。


その上で着信履歴を確認する。


「非通知ですね」


「そうみたいだねえ」


大城はトヨの目を見た。


声は低いが、怖がらせないように少し柔らかくしている。


「県警が電話だけで通帳やキャッシュカードの提出を求めることはありません。暗証番号を聞くこともありません」


署へ照会すると、「山川警部」という人物は関係部署に存在しなかった。


大城は静かに断言する。


「百パーセント、詐欺の電話です」


「あらまあ」


トヨは驚いたものの、声は妙にのんびりしていた。


「警部さんがいる時に、偽物の警部から電話が来るなんてねえ」


「犯人にとっては、不運でしたね」


大城はわずかに口角を上げた。


玲奈が見ていることを確認してから、さらに低い声で続ける。


「偽物が警部を名乗るなら、本物がどこにいるかくらい調べておくべきでした」


亮介が小声で言った。


「今の決め台詞、早くないです? まだ犯人捕まってませんよ」


大城は亮介を一瞥した。


「ウェイター君。事件には伏線というものがある」


「捜査じゃなくてドラマになってますよ」


大城はトヨへ向き直った。


「大変ご面倒ですが、捜査にご協力いただけませんか。犯人から再び連絡があれば、まだ信じているふりをしていただきたいのです」


「あっ、はいはい……」


トヨは、その仰々しい頼み方に少し呆気に取られながらも頷いた。


「私、芝居は上手じゃないよ」


「自然にしていただければ十分です」


大城はそう言い、咲希へ視線を向けた。


「宮城巡査」


「はい」


「この件を君に任せる」


咲希の表情が引き締まる。


「必ず犯人を――」


「最初から犯人を捕まえることだけを考えるな」


大城は先回りして制した。


「第一に被害者を守る。第二に事実を確認する。逮捕はその後だ」


「はい」


「今の返事は悪くない」


咲希はトヨの隣へ座り、事情を聞き始める。


しかし、偽警部がトヨの名前だけでなく、最近参加した老人会の催しや、島外に住む息子の仕事まで知っていたと分かると、咲希の焦りが顔を出した。


「老人会の名簿は公開されていますか」


「息子さんの勤務先をご近所の方へ話しましたか」


「最近、ご自宅の周りに不審な人物はいませんでしたか」


「郵便物を盗まれた可能性は――」


質問を重ねるほど、トヨの顔が不安そうになっていく。


大城が低く言った。


「宮城巡査。止めなさい」


「ですが、情報の流出元を特定しなければ」


「君は今、犯人ではなく被害者を追い詰めている」


咲希は言葉を失う。


「質問の数が、捜査の質ではない。相手が不安になっていることへ、なぜ気づかない」


大城の指導は正しいが、玲奈の前ということもあり、語調には必要以上の厳しさがあった。


咲希の顔が険しくなる。


亮介が気になって近づく。


「警部さん。そのくらいでいいんじゃないですか。咲希さんだって初めてなんですから」


大城は静かに振り向いた。


「ウェイター君」


「はい」


「向こうへ行っていなさい」


「またですか」


「奈央さんがキミを呼んでいるぞ」


奈央は文庫本を開いたまま、首を横へ振った。


「呼んでませんけど……」


「ほら」


亮介が言う。


「奈央さんも困ってます」


大城は平然と返す。


「これから呼ぶ予定かもしれない」


「予定を捏造しないでください」


奈央が笑う。


「亮介さん、警部さんは今、玲奈さんに格好いいところを見せるので忙しいんですよ」


「やっぱりそうですよね」


「二人とも」


大城の声が低くなる。


「捜査の妨げになる会話は控えたまえ」


「図星になると声がさらに低くなるんですよ」


亮介はそう言いながらも、トヨの不安そうな表情を見ると口を閉じた。


玲奈が温かいお茶をトヨの前へ置く。


「トヨさん。まず、ゆっくり息をしてください」


「はいよ」


「通帳もカードも、誰にも渡さなくて大丈夫です。ここには本物の警察官が二人いますから」


大城が小さく姿勢を正した。


玲奈は咲希にも目を向ける。


「宮城さん。犯人の情報を集めることは大切ですけれど、今はトヨさんの不安を小さくするほうが先ではないでしょうか」


咲希はトヨの顔を見る。


質問を始めた時よりも、明らかに表情が硬くなっていた。


「申し訳ありません」


「謝るのは、事件が終わってからでもできますよ」


玲奈の声は穏やかだった。


「まずは、安心して話せる場所を作りましょう」


その直後、トヨの携帯電話が再び震えた。


また非通知だった。


咲希は大城へ確認し、スピーカーへ切り替える。


偽の山川警部は、先ほどより少し強い口調で話す。


口座の確認には時間がない。


県警から派遣する職員が、「しおかぜ」へ通帳とキャッシュカードを受け取りに行く。


暗証番号を書いた紙も一緒に封筒へ入れるように――。


大城は署へ連絡し、店の周辺へ私服捜査員を配置する。


トヨには、カードの代わりに厚紙を入れた封筒を用意してもらった。


「私にも何かできます?」


亮介が尋ねる。


「普段どおりにしていなさい」


「それだけ?」


「君が特別なことをすると、すべてが不自然になる」


「見下してますよね」


「経験に基づく評価だよ、ウェイター君」


「千五百メートル四国八位の行動力を甘く見ないでください」


「今必要なのは走力ではなく、静かにしている能力だ」


「一番苦手なことを要求しますね」


「自覚はあるようだ」


しばらくすると、配送会社の制服を着た若い男性が段ボール箱を抱えて入ってきた。


店の前で携帯電話を確認し、落ち着かない様子で店内を見回している。


咲希はすぐに反応した。


封筒を受け取りに来た受け子だと思ったのだ。


「警察です。少しお話を――」


立ち上がりかけた咲希の腕へ、玲奈がそっと触れる。


「宮城さん。その方は、うちが注文したコーヒー豆の配達員さんです」


若い配達員は目を丸くし、納品伝票を差し出した。


咲希の顔が赤くなる。


「大変申し訳ありません」


大城の目が厳しくなる。


「宮城巡査」


「はい」


「不安そうにしている人間が、犯罪者とは限らない」


「はい」


「重い箱を抱え、初めて入る店で納品先を探していた。それだけだ。送り状を確認すれば、店への正規配送だと分かった」


「申し訳ありません」


「君は犯人を観察したのではない。“犯人らしい人物”を探していた」


咲希は唇を噛む。


大城は玲奈の前で、さらに格好よく締めくくろうとする。


「刑事は先入観で獲物を選ぶ猟師ではない。事実を積み重ね、真実へ近づく仕事だ」


亮介がぼそりと言った。


「今の、玲奈さんが近くに来るまで待ってから言いましたよね」


「ウェイター君には関係ない」


大城は視線だけで追い払う。


玲奈は何も言わず、店の外へ目を向けていた。


歩道の端に、中年の男が立っている。


観光客風の花柄シャツ。


つばの広い帽子。


片手には観光案内のパンフレット。


だが男は、海も空も見ていなかった。


ガラス越しに、トヨの手元ばかり確認している。


外は強い日差しなのに、額に汗がほとんどない。近くまで車で来たのだろう。


店内へ入ってからも席へ座らず、メニューを開こうとしない。


視線は何度もトヨの封筒へ向かう。


玲奈は咲希へ静かに声をかけた。


「今度は、すぐに動かず見てみましょう」


咲希は頷く。


「人を探している人は、探している相手を見すぎないようにすることがあります」


玲奈の言葉を受け、咲希は男を観察した。


男は携帯電話の画面とトヨの服装を見比べる。


店内に警察官がいないと思ったのか、ゆっくりトヨの席へ近づく。


「仲宗根トヨさんですね」


「そうですけど」


「沖縄県警の山川警部から依頼を受けて参りました。封筒をお預かりします」


咲希が静かに立った。


今度は焦らない。


男が警察を名乗り、封筒へ手を伸ばした事実を確認してから前へ出る。


「沖縄県警八重山警察署です」


男の顔色が変わる。


「身分を確認させてください」


男は踵を返して逃げようとした。


だが、その先には大城が立っていた。


いつの間にか男の退路へ回り込み、ジャケットの内側から警察手帳を取り出している。


大城はサングラスを外した。


そして玲奈が見ていることを確認してから、低く言い放つ。


「残念だったね」


男が息を呑む。


「存在しない警部の使いを名乗るなら、本物の警部がどこでランチを取っているかくらい、調べておくべきだった」


完璧に決めた。


少なくとも本人はそう思った。


男を咲希と協力して取り押さえた直後、亮介が尋ねる。


「警部さん、その台詞、最初の電話からずっと考えてました?」


大城は男から目を離さない。


「ウェイター君には関係ない」


「間が妙に完璧でしたもんね」


「向こうへ行っていなさい」


「奈央さんが呼んでるんですか?」


奈央は文庫本を掲げながら言った。


「今回は呼んでません」


「ほら」


亮介が笑う。


大城は無言で男へ手錠をかけた。


受け子の携帯電話には、偽の山川警部を名乗った共犯者からの指示が残されていた。近くに止められた車からは、高齢者の名簿、使い捨て携帯電話、複数の封筒が発見される。


警察は通話記録を追い、港近くの駐車場にいた電話役も確保した。


こうして、黒糖プリンの隣から始まった特殊詐欺事件は、被害を出すことなく解決した。


騒ぎが収まると、トヨは冷めてしまった黒糖プリンを見て笑った。


「警察の捜査へ協力するのも大変だねえ。プリンを食べる暇もなかったさ」


玲奈は新しい黒糖プリンと取り替える。


「今度は、ゆっくり召し上がってください」


「捜査協力のお礼かね」


「しおかぜからのお礼です」


トヨは満足そうにスプーンを取った。


咲希は大城の前へ立つ。


「ご指導をお願いいたします」


大城は窓際の席へ戻り、玲奈が淹れ直したコーヒーを一口飲んだ。


事件解決後にもかかわらず、その姿は妙に絵になっている。


「二十五点」


「二十五点……」


咲希の肩が下がる。


「被害者へ質問を重ね、不安を増幅させた。無関係な配達員を疑った。捕まえようとする気持ちが先に立ち、守るべき人間を見失った」


「はい」


「だが、後半は悪くなかった」


咲希が顔を上げる。


「玲奈さんの助言を受けてから、君は動く前に観察した。男の外見ではなく、行動と発言を確認した」


「ありがとうございます」


「五十点だ」


「まだ半分ですね」


「一度の成功で、一人前になったと思わないことだ」


亮介が空いた皿を持ちながら口を挟む。


「相変わらず厳しいですね。事件を解決したんだから、もう少し褒めてもいいでしょう」


大城は冷たい目を向けた。


「ウェイター君。捜査へ参加していない人間が採点へ口を挟まないでくれたまえ」


「普段どおりにしろという指示には従いましたよ」


「何もしなかった点だけは評価しよう」


「何点です?」


「三点」


「咲希さんより厳しい!」


奈央が文庫本の向こうで笑った。


玲奈は咲希の前へ、黒糖プリンを置く。


「今日はお疲れさまでした」


「ありがとうございます」


咲希はスプーンを持つ前に、玲奈へ尋ねた。


「玲奈さん。私は、犯人を早く見つけたいと思うあまり、トヨさんを余計に怖がらせてしまいました」


玲奈は静かに頷く。


「犯人を見つけようとする気持ちは、大切です」


「でも、それだけでは足りないんですね」


「怖がっている人の隣にいる時、警察官まで一緒に焦ってしまったら、その方はもっと不安になります」


玲奈は黒糖プリンの皿を、咲希のほうへ少し押した。


「犯人を追う前に、守るべき人を見る。そうすれば、見えなかったものも少しずつ見えてくると思います」


咲希は深く頷いた。


玲奈は、誰よりも鋭く状況を見ている。


けれど、鋭さを人へ突きつけない。


疑う前に安心させ、話を聞き、相手の心が落ち着くのを待つ。


咲希の中で、玲奈への尊敬がさらに強くなった。


「私も、玲奈さんのような警察官になりたいです」


玲奈は少し照れたように微笑む。


「私は、もうだいぶ前に警察を卒業していますよ」


「それでもです」


少し離れた席で、大城が満足そうに頷いていた。


まるで自分の教育成果であるかのような顔だった。


亮介は、それを見逃さない。


「警部さん。咲希さんを立て直したの、玲奈さんですよ」


大城はゆっくりコーヒーカップを置いた。


「ウェイター君」


「はい」


「奈央さんが呼んでいるぞ」


奈央が今度は本当に手を挙げた。


「亮介さん、黒糖プリンのおかわりをお願いします」


亮介は大城と奈央を交互に見る。


「警部さん、奈央さんに目で頼みました?」


大城はニヒルに笑った。


「証拠はあるのかね」


「さっきまでの捜査で覚えた言葉を、すぐ俺に使わないでください」


玲奈が笑い、咲希も声を上げて笑った。


存在しない山川警部からの電話は切れ、本物の警部は最後まで格好をつけた。


新人刑事は早とちりをし、叱られ、そして少しだけ立ち止まることを覚えた。


追いかける前に、見る。


疑う前に、確かめる。


声の嘘へ耳を澄ませるだけでなく、その声に怯える人の表情にも目を向ける。


窓の外には、午後の光を受けた南ぬ島の海。


トヨの前には、新しい黒糖プリン。


咲希の前にも、反省より少しだけ甘い一皿が置かれていた。


そして大城警部は、玲奈が自分の決め台詞を聞いていたかどうかを、それとなく確かめながら、何事もなかったように島野菜パスタの続きを食べるのだった。

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