表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
158/161

黒糖プリンより甘くない、新人刑事の第一歩 ――未来の県警エースは、「しおかぜ」で最初の授業を受ける

南ぬ島の昼は、少しだけ時間の流れ方が違う。


午前中に港を出た漁船が水平線の向こうへ小さく消え、白い雲が青空をゆっくり横切っていく。海から吹いてきた風は、珊瑚の砂と潮の匂いをまとったまま、海沿いの道を抜けて「島カフェ しおかぜ」の白い暖簾を揺らしていた。


店内には、玲奈が朝から仕込んだトマトソースの香りが漂っている。


島トマト、島ニンジン、ナス、オクラ、細く刻んだ島らっきょう。鮮やかな野菜をふんだんに使った島野菜パスタは、最近では黒糖プリンと並ぶ「しおかぜ」の看板メニューになっていた。


「今日もいい匂いですねえ」


カウンターの内側でグラスを磨きながら、亮介が鼻をひくつかせた。


「味見なら、もうしましたよね」


玲奈は鍋を静かにかき混ぜながら言った。


「味見じゃなくて、品質管理です」


「三回も必要ですか?」


「料理は繊細ですから」


「作ったのは私です」


「だからこそ、第三者の公平な評価が必要なんですよ」


玲奈は亮介を見た。


「四回目はありません」


「まだ何も言ってませんけど」


「顔に書いてあります」


玲奈が淡々と返すと、カウンター席にいた奈央が小さく笑った。


事件のない昼下がり。


常連客の話し声と、スプーンがカップに触れる軽い音。店内に流れる古いジャズは、開け放した窓から入り込む波音と不思議によく馴染んでいた。


そんな穏やかな時間を区切るように、一台の黒い車が店の前へ静かに止まった。


亮介は窓の外を見て、少しだけ眉を上げる。


「また来ましたよ」


運転席から降りてきたのは、沖縄県警八重山警察署の大城誠司警部だった。


濃い色のジャケットに、涼しげなシャツ。南国の強い日差しの下でも、大城はいつも通り妙に隙がない。


だが、その日は一人ではなかった。


助手席のドアが開き、若い女性が降りてくる。


紺色のリクルートスーツ。


白いシャツ。


磨かれた黒いパンプス。


肩に届く黒髪は低い位置できちんとまとめられ、手にはまだ新しさの残る黒い鞄を抱えている。


理知的に整った顔立ちには、若さと緊張が同居していた。背筋はまっすぐ伸びているものの、店の前で一度だけ小さく息を吸ったところを見ると、かなり緊張しているらしい。


若い女性に目ざとい亮介は、グラスを磨く手をぴたりと止めた。


「警部さん、今日はずいぶん華やかな同行者ですね」


店へ入ってきた大城は、サングラスを外しながらニヒルに笑った。


「今日は将来の県警のエースを連れてきました」


「警部さんじゃなくて?」


「私は将来ではない。現在進行形のエース候補だ」


「候補なんですね」


「そこは今、重要ではない」


大城の後ろから、若い女性が店内へ入ってくる。


彼女は玲奈の姿を確認すると、すぐに両足を揃え、勢いよく頭を下げた。


「失礼いたします!」


あまりに元気な声だったため、近くの席にいた常連客まで振り返った。


「本日付で八重山警察署刑事課勤務となりました、宮城咲希巡査です。宮古島出身です。よろしくお願いいたします!」


「宮城巡査」


大城が低い声で呼ぶ。


咲希は勢いよく顔を上げた。


「はい!」


「声が大きい」


「申し訳ありません!」


「謝罪の声も大きい」


「失礼しました」


今度は急に声が小さくなる。


奈央は口元を押さえて笑いをこらえた。


玲奈は厨房から出ると、緊張する咲希を安心させるように柔らかく微笑んだ。


「いらっしゃいませ。岡本玲奈です。そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ」


「はい。ありがとうございます!」


また声が大きくなり、咲希は慌てて口元を押さえる。


大城は小さくため息をついたが、その目にはどこか温かなものがあった。


「警察学校を卒業後、交番勤務を経験してきた。勤務態度は真面目。報告書も正確。住民からの評判も悪くない。刑事課への推薦を受け、今日から私が教育係を務めることになった」


大城はそこで少し胸を張り、亮介へ視線を向けた。


「僕ほどのクラスになると、優秀な新人の教育係を任されるんだよ。分かるカナ、ウェイター君」


「分かりませんけど、やたら腹が立つ言い方ですね」


「つまり、組織から高く評価されているということだ」


「自分で言います?」


「事実を説明しただけだ」


「ニヒルな顔で言えば何でも格好よく聞こえると思ってません?」


「ウェイター君。嫉妬は見苦しいよ」


「してませんよ!」


玲奈は二人のやり取りを聞きながら、咲希を窓際の席へ案内した。


咲希は椅子へ座ってからも、膝の上に両手を揃え、教官の講義を待つ学生のように姿勢を正している。


大城は向かいの席に腰を下ろすと、メニューを開くことなく言った。


「島野菜パスタを二つ」


「勝手に決めるんですか?」


亮介が尋ねる。


「宮城巡査には、まずこの店の基本を覚えてもらう」


「刑事課の基本じゃなくて、店の基本なんですね」


「両方だ」


大城は咲希へ向き直った。


「宮城巡査。刑事課へ入った以上、この店は覚えておくといい。外回りの日の昼食は、なるべくここで取るといい」


「はい!」


咲希は鞄から小さな手帳を取り出した。


「島カフェ、しおかぜ。外回り時の昼食候補……」


「そこまで書かなくていい」


「失礼しました」


「ただし、島野菜パスタは覚えておきたまえ」


「はい。島野菜パスタは必ず記憶いたします」


「大城警部、それは刑事教育ではありませんよね」


玲奈が笑いながら言う。


「重要な情報です」


大城は真顔だった。


「張り込みも聞き込みも、空腹では精度が落ちます。ここの島野菜パスタは栄養のバランスがよく、何より美味しい。私はかなり気に入っています」


「かなり、なんですね」


「大のお気に入りと言ってもいい」


玲奈は少し照れたように目を伏せた。


「ありがとうございます」


大城の表情がわずかに柔らかくなる。


亮介はそれを見逃さなかった。


「警部さん、最近は週に何回来てましたっけ」


「捜査上の秘密だ」


「ランチの回数が捜査情報なんですか?」


「君には関係ない」


大城は咳払いをすると、改めて玲奈を咲希へ紹介した。


「宮城巡査。この方からは学ぶことが多い」


「はい」


「岡本玲奈さん。元兵庫県警警部補。交通部門を中心に数多くの現場を経験し、被害者へ寄り添う姿勢と冷静な判断力で高く評価されていた」


玲奈が口を挟む。


「大城警部、そのくらいで」


しかし、大城は止まらない。


「さらに県警の広報活動では、『美人すぎる警察官』として県警の広告塔を務めた。交通安全や防犯の啓発にも尽力し、その知名度によって犯罪抑止にも一役買った人物だ」


「大城警部」


「まだあります」


「まだあるんですか?」


玲奈は困ったように笑った。


「国家プロジェクトの戦隊ヒロインとしても活躍。高度な防御訓練と制圧技術を修め、判断力、観察力、身体能力、いずれも一級品。宮城巡査、君にも玲奈さんのような、強く美しい警察官を目指してほしい」


咲希の目が輝いた。


「はい!」


彼女は立ち上がると、玲奈へ深々と頭を下げた。


「岡本玲奈さん。未熟者ではございますが、よろしくお願いいたします!」


あまりに律儀な挨拶だった。


玲奈は咲希の姿を見つめる。


まっすぐな背中。


少し力の入りすぎた肩。


褒められると嬉しいのに、表情を崩してはいけないと思っている真面目さ。


そこに玲奈は、警察学校を出たばかりの頃の自分を重ねていた。


誰よりも役に立ちたいと思いながら、何をすればよいのか分からなかった頃。


正しささえ持っていれば、すべての人を救えると信じていた頃。


玲奈は、少し懐かしそうに微笑んだ。


「私は警察をもうだいぶ前に卒業していますが……どうぞよろしくお願いいたします」


「はい。たくさん勉強させていただきます!」


「ここはカフェですから、まずはゆっくり食事をしてくださいね」


「はい!」


その横で亮介が自分を指さした。


「警部さん、俺の紹介は?」


大城は咲希へ視線を向けたまま、何でもないことのように言った。


「こちらはただのウェイター君だから、気にしないで」


「ちょっと待ってください」


「気にしなくていい」


「二回言いましたよね」


「元兵庫県警の敏腕警部補と比較するのが間違いなんだ」


「比較しろとは言ってません。人として紹介してください」


大城は少し考えた。


「元ラグビー選手」


「そうです」


「千五百メートル四国八位」


「そこ大事です」


「よくしゃべる」


「長所みたいに言ってください」


「以上だ」


「最後が雑!」


咲希は口元へ手を添え、控えめに笑った。


その笑顔を見た瞬間、亮介の態度が変わる。


若い女性が何よりも好きな男である。


まして、リクルートスーツ姿の初々しい新人刑事。興味を持たないはずがなかった。


亮介は水の入ったグラスを置きながら、にこやかに尋ねる。


「宮城さんは宮古島のどの辺りの出身なんですか?」


「市街地から少し離れたところです」


「海、近いです?」


「自転車で行ける距離でした」


「じゃあ泳ぎは得意?」


「はい。学校の水泳大会では毎年リレーの選手でした」


「運動神経いいんですね。ほかにスポーツは?」


「高校では陸上部でした。中距離を少し」


亮介の目が輝く。


「千五百?」


「はい」


「最高記録は?」


「高校三年の時に、県大会で入賞しました」


「おお。俺も千五百メートルで四国八位なんですよ」


「存じ上げませんでした。すごいですね」


「ほら、警部さん。初めて素直に褒めてくれる人が現れましたよ」


「宮城巡査」


大城が静かに言う。


「社会には、真に受けなくていい情報もある」


「四国八位は本当ですよ!」


しかし亮介の質問は止まらない。


「宮古島にはご家族が?」


「両親と姉がいます」


「お姉さんも警察関係?」


「いえ、島内のホテルで働いています」


「お休みの日は何してるんです?」


「読書とランニングです。星を見るのも好きです」


「好きな食べ物は?」


「宮古そばです」


「苦手な食べ物は?」


「特にはありません」


「料理は?」


「基本的なものなら」


「彼氏は?」


「おりません」


咲希は勢いで答えてから、はっとした。


店内に一瞬、妙な沈黙が流れる。


奈央がとうとう吹き出す。


玲奈は盆で口元を隠すようにして笑いをこらえた。


大城はゆっくりと顔を上げた。


「ウェイター君」


「はい」


「やめたまえ」


「何がです?」


「私生活への踏み込み方が、刑事の事情聴取より巧妙だ」


「会話の流れですよ」


「完全な誘導尋問だ」


「刑事の才能ありますかね」


「ない」


大城は即答した。


「それ以前に、余計なことを聞くな」


「宮城さんの人となりを知ろうとしただけです」


「彼氏の有無は捜査に関係ない」


「俺には重要です」


「だから余計だと言っている」


咲希は耳まで赤くしながら、それでも礼儀正しく頭を下げた。


「答える必要のない質問に回答してしまいました。申し訳ありません」


大城は額を押さえる。


「謝る相手が違う。まず警戒心を持ちなさい」


「はい!」


「刑事が相手の誘導に乗って、個人情報を次々に話してどうする」


「申し訳ありません!」


「ただし」


大城は亮介へ冷たい視線を送る。


「このウェイター君の質問が無駄に自然だった点は認める」


「褒められた」


「褒めていない」


「返事だけは宮城巡査並みにいいですね、俺」


「君と一緒にするな」


そこへ玲奈が、湯気の立つ島野菜パスタを運んできた。


赤、緑、黄色。


鮮やかな島野菜が、白い皿の上で南国の庭のように彩られている。トマトソースの酸味と甘み、炒めた島らっきょうの香ばしさが食欲を誘った。


咲希は一口食べると、思わず目を見開いた。


「美味しいです」


緊張で少し硬かった表情が、初めて素直にほどける。


「野菜の味が濃いですね。トマトも甘くて……でも後味は軽くて」


大城は満足そうに頷く。


「分かっただろう」


「はい。大城警部がお気に入りになる理由が分かります」


「そうだろう」


大城は、まるで自分が作った料理を褒められたように誇らしげだった。


亮介が横から言う。


「警部さん、一応お客さんですよね」


「良いものを正当に評価しているだけだ」


「玲奈さんのことになると、急に説明が長くなるんですよね」


大城のフォークが一瞬止まった。


「ウェイター君」


「はい」


「余計なことはやめたまえ」


「今日はそればっかりですね」


食事が終わる頃には、咲希の緊張もずいぶん解けていた。


そして玲奈が、最後の一皿を運んでくる。


琥珀色の黒糖ソースがかかった、小さな黒糖プリン。


窓から差し込む光を受け、表面が柔らかく輝いている。


「こちらが黒糖プリンです」


咲希はスプーンですくい、慎重に口へ運んだ。


その瞬間、理知的な顔立ちが、年相応の明るい笑顔へ変わった。


「……すごく美味しいです」


大城が微笑む。


「だろう」


「甘いですけど、甘すぎません。黒糖の香りが残って、少しだけ塩味もあって……何個でも食べられそうです」


玲奈は嬉しそうに頷いた。


「島のお塩を少しだけ入れているんです」


「なるほど。だから甘さが優しいんですね」


咲希はもう一口食べた。


今度はゆっくり味わう。


「刑事の仕事も、このプリンみたいだといいですね」


亮介が尋ねる。


「どういう意味です?」


咲希は少し考えた。


「厳しいことが多くても、その中に、人を安心させられるような優しさがあるというか……」


大城は何も言わず、咲希を見た。


警察学校を優秀な成績で卒業しただけではない。


まだ言葉は青く、考え方も理想に寄りすぎている。だが、警察官として大切な部分は、すでに持っている。


大城はそう感じていた。


だからこそ、厳しく育てるつもりだった。


「宮城巡査」


「はい」


「今の発言は悪くない」


咲希の表情が輝く。


「ありがとうございます!」


「ただし、まだまだだ」


「はい!」


「何が足りないか分かるか」


「分かりません!」


「分からないなら、胸を張って答えるな」


店内に笑い声が広がった。


食事を終え、二人が店を出る時、咲希は入口で玲奈へ改めて頭を下げた。


「岡本さん。今日はありがとうございました」


「玲奈でいいですよ」


「それでは……玲奈さん。また来てもよろしいでしょうか」


「もちろんです」


玲奈は微笑む。


「警察のことはもう卒業しましたが、黒糖プリンのことでしたら、いつでもお教えします」


「はい!」


咲希は嬉しそうに答えた。


すると亮介が横から顔を出す。


「宮古島の星の話も、今度ゆっくり聞かせてください」


「はい。ぜひ――」


「ウェイター君」


大城の低い声が飛んでくる。


亮介は肩をすくめた。


「まだ何もしてませんよ」


「しようとしている」


「警部さん、刑事の勘をそういうところに使わないでください」


大城は亮介を無視し、咲希へ言った。


「行くぞ、宮城巡査」


「はい!」


咲希はもう一度「しおかぜ」を振り返る。


白い暖簾。


潮風に揺れる鉢植え。


穏やかに手を振る玲奈。


その隣で、大城に向かって何かを言い返している亮介。


刑事としての最初の一日。


彼女が受けた最初の授業は、取調室でも事件現場でもなかった。


島野菜パスタの香りと、黒糖プリンの甘さ。


人を見ること。


言葉の裏を考えること。


そして、相手がただのウェイターに見えても、油断して余計なことまで話してはいけないこと。


未来の県警エース候補・宮城咲希の第一歩は、黒糖プリンほど甘くはない。


けれど、その始まりには確かに、誰かを安心させる温かな味があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ