黒糖プリンより甘くない、新人刑事の第一歩 ――未来の県警エースは、「しおかぜ」で最初の授業を受ける
南ぬ島の昼は、少しだけ時間の流れ方が違う。
午前中に港を出た漁船が水平線の向こうへ小さく消え、白い雲が青空をゆっくり横切っていく。海から吹いてきた風は、珊瑚の砂と潮の匂いをまとったまま、海沿いの道を抜けて「島カフェ しおかぜ」の白い暖簾を揺らしていた。
店内には、玲奈が朝から仕込んだトマトソースの香りが漂っている。
島トマト、島ニンジン、ナス、オクラ、細く刻んだ島らっきょう。鮮やかな野菜をふんだんに使った島野菜パスタは、最近では黒糖プリンと並ぶ「しおかぜ」の看板メニューになっていた。
「今日もいい匂いですねえ」
カウンターの内側でグラスを磨きながら、亮介が鼻をひくつかせた。
「味見なら、もうしましたよね」
玲奈は鍋を静かにかき混ぜながら言った。
「味見じゃなくて、品質管理です」
「三回も必要ですか?」
「料理は繊細ですから」
「作ったのは私です」
「だからこそ、第三者の公平な評価が必要なんですよ」
玲奈は亮介を見た。
「四回目はありません」
「まだ何も言ってませんけど」
「顔に書いてあります」
玲奈が淡々と返すと、カウンター席にいた奈央が小さく笑った。
事件のない昼下がり。
常連客の話し声と、スプーンがカップに触れる軽い音。店内に流れる古いジャズは、開け放した窓から入り込む波音と不思議によく馴染んでいた。
そんな穏やかな時間を区切るように、一台の黒い車が店の前へ静かに止まった。
亮介は窓の外を見て、少しだけ眉を上げる。
「また来ましたよ」
運転席から降りてきたのは、沖縄県警八重山警察署の大城誠司警部だった。
濃い色のジャケットに、涼しげなシャツ。南国の強い日差しの下でも、大城はいつも通り妙に隙がない。
だが、その日は一人ではなかった。
助手席のドアが開き、若い女性が降りてくる。
紺色のリクルートスーツ。
白いシャツ。
磨かれた黒いパンプス。
肩に届く黒髪は低い位置できちんとまとめられ、手にはまだ新しさの残る黒い鞄を抱えている。
理知的に整った顔立ちには、若さと緊張が同居していた。背筋はまっすぐ伸びているものの、店の前で一度だけ小さく息を吸ったところを見ると、かなり緊張しているらしい。
若い女性に目ざとい亮介は、グラスを磨く手をぴたりと止めた。
「警部さん、今日はずいぶん華やかな同行者ですね」
店へ入ってきた大城は、サングラスを外しながらニヒルに笑った。
「今日は将来の県警のエースを連れてきました」
「警部さんじゃなくて?」
「私は将来ではない。現在進行形のエース候補だ」
「候補なんですね」
「そこは今、重要ではない」
大城の後ろから、若い女性が店内へ入ってくる。
彼女は玲奈の姿を確認すると、すぐに両足を揃え、勢いよく頭を下げた。
「失礼いたします!」
あまりに元気な声だったため、近くの席にいた常連客まで振り返った。
「本日付で八重山警察署刑事課勤務となりました、宮城咲希巡査です。宮古島出身です。よろしくお願いいたします!」
「宮城巡査」
大城が低い声で呼ぶ。
咲希は勢いよく顔を上げた。
「はい!」
「声が大きい」
「申し訳ありません!」
「謝罪の声も大きい」
「失礼しました」
今度は急に声が小さくなる。
奈央は口元を押さえて笑いをこらえた。
玲奈は厨房から出ると、緊張する咲希を安心させるように柔らかく微笑んだ。
「いらっしゃいませ。岡本玲奈です。そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ」
「はい。ありがとうございます!」
また声が大きくなり、咲希は慌てて口元を押さえる。
大城は小さくため息をついたが、その目にはどこか温かなものがあった。
「警察学校を卒業後、交番勤務を経験してきた。勤務態度は真面目。報告書も正確。住民からの評判も悪くない。刑事課への推薦を受け、今日から私が教育係を務めることになった」
大城はそこで少し胸を張り、亮介へ視線を向けた。
「僕ほどのクラスになると、優秀な新人の教育係を任されるんだよ。分かるカナ、ウェイター君」
「分かりませんけど、やたら腹が立つ言い方ですね」
「つまり、組織から高く評価されているということだ」
「自分で言います?」
「事実を説明しただけだ」
「ニヒルな顔で言えば何でも格好よく聞こえると思ってません?」
「ウェイター君。嫉妬は見苦しいよ」
「してませんよ!」
玲奈は二人のやり取りを聞きながら、咲希を窓際の席へ案内した。
咲希は椅子へ座ってからも、膝の上に両手を揃え、教官の講義を待つ学生のように姿勢を正している。
大城は向かいの席に腰を下ろすと、メニューを開くことなく言った。
「島野菜パスタを二つ」
「勝手に決めるんですか?」
亮介が尋ねる。
「宮城巡査には、まずこの店の基本を覚えてもらう」
「刑事課の基本じゃなくて、店の基本なんですね」
「両方だ」
大城は咲希へ向き直った。
「宮城巡査。刑事課へ入った以上、この店は覚えておくといい。外回りの日の昼食は、なるべくここで取るといい」
「はい!」
咲希は鞄から小さな手帳を取り出した。
「島カフェ、しおかぜ。外回り時の昼食候補……」
「そこまで書かなくていい」
「失礼しました」
「ただし、島野菜パスタは覚えておきたまえ」
「はい。島野菜パスタは必ず記憶いたします」
「大城警部、それは刑事教育ではありませんよね」
玲奈が笑いながら言う。
「重要な情報です」
大城は真顔だった。
「張り込みも聞き込みも、空腹では精度が落ちます。ここの島野菜パスタは栄養のバランスがよく、何より美味しい。私はかなり気に入っています」
「かなり、なんですね」
「大のお気に入りと言ってもいい」
玲奈は少し照れたように目を伏せた。
「ありがとうございます」
大城の表情がわずかに柔らかくなる。
亮介はそれを見逃さなかった。
「警部さん、最近は週に何回来てましたっけ」
「捜査上の秘密だ」
「ランチの回数が捜査情報なんですか?」
「君には関係ない」
大城は咳払いをすると、改めて玲奈を咲希へ紹介した。
「宮城巡査。この方からは学ぶことが多い」
「はい」
「岡本玲奈さん。元兵庫県警警部補。交通部門を中心に数多くの現場を経験し、被害者へ寄り添う姿勢と冷静な判断力で高く評価されていた」
玲奈が口を挟む。
「大城警部、そのくらいで」
しかし、大城は止まらない。
「さらに県警の広報活動では、『美人すぎる警察官』として県警の広告塔を務めた。交通安全や防犯の啓発にも尽力し、その知名度によって犯罪抑止にも一役買った人物だ」
「大城警部」
「まだあります」
「まだあるんですか?」
玲奈は困ったように笑った。
「国家プロジェクトの戦隊ヒロインとしても活躍。高度な防御訓練と制圧技術を修め、判断力、観察力、身体能力、いずれも一級品。宮城巡査、君にも玲奈さんのような、強く美しい警察官を目指してほしい」
咲希の目が輝いた。
「はい!」
彼女は立ち上がると、玲奈へ深々と頭を下げた。
「岡本玲奈さん。未熟者ではございますが、よろしくお願いいたします!」
あまりに律儀な挨拶だった。
玲奈は咲希の姿を見つめる。
まっすぐな背中。
少し力の入りすぎた肩。
褒められると嬉しいのに、表情を崩してはいけないと思っている真面目さ。
そこに玲奈は、警察学校を出たばかりの頃の自分を重ねていた。
誰よりも役に立ちたいと思いながら、何をすればよいのか分からなかった頃。
正しささえ持っていれば、すべての人を救えると信じていた頃。
玲奈は、少し懐かしそうに微笑んだ。
「私は警察をもうだいぶ前に卒業していますが……どうぞよろしくお願いいたします」
「はい。たくさん勉強させていただきます!」
「ここはカフェですから、まずはゆっくり食事をしてくださいね」
「はい!」
その横で亮介が自分を指さした。
「警部さん、俺の紹介は?」
大城は咲希へ視線を向けたまま、何でもないことのように言った。
「こちらはただのウェイター君だから、気にしないで」
「ちょっと待ってください」
「気にしなくていい」
「二回言いましたよね」
「元兵庫県警の敏腕警部補と比較するのが間違いなんだ」
「比較しろとは言ってません。人として紹介してください」
大城は少し考えた。
「元ラグビー選手」
「そうです」
「千五百メートル四国八位」
「そこ大事です」
「よくしゃべる」
「長所みたいに言ってください」
「以上だ」
「最後が雑!」
咲希は口元へ手を添え、控えめに笑った。
その笑顔を見た瞬間、亮介の態度が変わる。
若い女性が何よりも好きな男である。
まして、リクルートスーツ姿の初々しい新人刑事。興味を持たないはずがなかった。
亮介は水の入ったグラスを置きながら、にこやかに尋ねる。
「宮城さんは宮古島のどの辺りの出身なんですか?」
「市街地から少し離れたところです」
「海、近いです?」
「自転車で行ける距離でした」
「じゃあ泳ぎは得意?」
「はい。学校の水泳大会では毎年リレーの選手でした」
「運動神経いいんですね。ほかにスポーツは?」
「高校では陸上部でした。中距離を少し」
亮介の目が輝く。
「千五百?」
「はい」
「最高記録は?」
「高校三年の時に、県大会で入賞しました」
「おお。俺も千五百メートルで四国八位なんですよ」
「存じ上げませんでした。すごいですね」
「ほら、警部さん。初めて素直に褒めてくれる人が現れましたよ」
「宮城巡査」
大城が静かに言う。
「社会には、真に受けなくていい情報もある」
「四国八位は本当ですよ!」
しかし亮介の質問は止まらない。
「宮古島にはご家族が?」
「両親と姉がいます」
「お姉さんも警察関係?」
「いえ、島内のホテルで働いています」
「お休みの日は何してるんです?」
「読書とランニングです。星を見るのも好きです」
「好きな食べ物は?」
「宮古そばです」
「苦手な食べ物は?」
「特にはありません」
「料理は?」
「基本的なものなら」
「彼氏は?」
「おりません」
咲希は勢いで答えてから、はっとした。
店内に一瞬、妙な沈黙が流れる。
奈央がとうとう吹き出す。
玲奈は盆で口元を隠すようにして笑いをこらえた。
大城はゆっくりと顔を上げた。
「ウェイター君」
「はい」
「やめたまえ」
「何がです?」
「私生活への踏み込み方が、刑事の事情聴取より巧妙だ」
「会話の流れですよ」
「完全な誘導尋問だ」
「刑事の才能ありますかね」
「ない」
大城は即答した。
「それ以前に、余計なことを聞くな」
「宮城さんの人となりを知ろうとしただけです」
「彼氏の有無は捜査に関係ない」
「俺には重要です」
「だから余計だと言っている」
咲希は耳まで赤くしながら、それでも礼儀正しく頭を下げた。
「答える必要のない質問に回答してしまいました。申し訳ありません」
大城は額を押さえる。
「謝る相手が違う。まず警戒心を持ちなさい」
「はい!」
「刑事が相手の誘導に乗って、個人情報を次々に話してどうする」
「申し訳ありません!」
「ただし」
大城は亮介へ冷たい視線を送る。
「このウェイター君の質問が無駄に自然だった点は認める」
「褒められた」
「褒めていない」
「返事だけは宮城巡査並みにいいですね、俺」
「君と一緒にするな」
そこへ玲奈が、湯気の立つ島野菜パスタを運んできた。
赤、緑、黄色。
鮮やかな島野菜が、白い皿の上で南国の庭のように彩られている。トマトソースの酸味と甘み、炒めた島らっきょうの香ばしさが食欲を誘った。
咲希は一口食べると、思わず目を見開いた。
「美味しいです」
緊張で少し硬かった表情が、初めて素直にほどける。
「野菜の味が濃いですね。トマトも甘くて……でも後味は軽くて」
大城は満足そうに頷く。
「分かっただろう」
「はい。大城警部がお気に入りになる理由が分かります」
「そうだろう」
大城は、まるで自分が作った料理を褒められたように誇らしげだった。
亮介が横から言う。
「警部さん、一応お客さんですよね」
「良いものを正当に評価しているだけだ」
「玲奈さんのことになると、急に説明が長くなるんですよね」
大城のフォークが一瞬止まった。
「ウェイター君」
「はい」
「余計なことはやめたまえ」
「今日はそればっかりですね」
食事が終わる頃には、咲希の緊張もずいぶん解けていた。
そして玲奈が、最後の一皿を運んでくる。
琥珀色の黒糖ソースがかかった、小さな黒糖プリン。
窓から差し込む光を受け、表面が柔らかく輝いている。
「こちらが黒糖プリンです」
咲希はスプーンですくい、慎重に口へ運んだ。
その瞬間、理知的な顔立ちが、年相応の明るい笑顔へ変わった。
「……すごく美味しいです」
大城が微笑む。
「だろう」
「甘いですけど、甘すぎません。黒糖の香りが残って、少しだけ塩味もあって……何個でも食べられそうです」
玲奈は嬉しそうに頷いた。
「島のお塩を少しだけ入れているんです」
「なるほど。だから甘さが優しいんですね」
咲希はもう一口食べた。
今度はゆっくり味わう。
「刑事の仕事も、このプリンみたいだといいですね」
亮介が尋ねる。
「どういう意味です?」
咲希は少し考えた。
「厳しいことが多くても、その中に、人を安心させられるような優しさがあるというか……」
大城は何も言わず、咲希を見た。
警察学校を優秀な成績で卒業しただけではない。
まだ言葉は青く、考え方も理想に寄りすぎている。だが、警察官として大切な部分は、すでに持っている。
大城はそう感じていた。
だからこそ、厳しく育てるつもりだった。
「宮城巡査」
「はい」
「今の発言は悪くない」
咲希の表情が輝く。
「ありがとうございます!」
「ただし、まだまだだ」
「はい!」
「何が足りないか分かるか」
「分かりません!」
「分からないなら、胸を張って答えるな」
店内に笑い声が広がった。
食事を終え、二人が店を出る時、咲希は入口で玲奈へ改めて頭を下げた。
「岡本さん。今日はありがとうございました」
「玲奈でいいですよ」
「それでは……玲奈さん。また来てもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
玲奈は微笑む。
「警察のことはもう卒業しましたが、黒糖プリンのことでしたら、いつでもお教えします」
「はい!」
咲希は嬉しそうに答えた。
すると亮介が横から顔を出す。
「宮古島の星の話も、今度ゆっくり聞かせてください」
「はい。ぜひ――」
「ウェイター君」
大城の低い声が飛んでくる。
亮介は肩をすくめた。
「まだ何もしてませんよ」
「しようとしている」
「警部さん、刑事の勘をそういうところに使わないでください」
大城は亮介を無視し、咲希へ言った。
「行くぞ、宮城巡査」
「はい!」
咲希はもう一度「しおかぜ」を振り返る。
白い暖簾。
潮風に揺れる鉢植え。
穏やかに手を振る玲奈。
その隣で、大城に向かって何かを言い返している亮介。
刑事としての最初の一日。
彼女が受けた最初の授業は、取調室でも事件現場でもなかった。
島野菜パスタの香りと、黒糖プリンの甘さ。
人を見ること。
言葉の裏を考えること。
そして、相手がただのウェイターに見えても、油断して余計なことまで話してはいけないこと。
未来の県警エース候補・宮城咲希の第一歩は、黒糖プリンほど甘くはない。
けれど、その始まりには確かに、誰かを安心させる温かな味があった。




