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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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黒糖プリンの午後に、見知らぬ影が立つ ――大城警部と岡本元警部補の事件ファイル・後編 四国八位が駆けつけた頃、事件はもう終わっていた

翌朝の南ぬ島には、昨日まで止まっていた潮風が戻っていた。


店先のハイビスカスが揺れ、窓辺の貝殻のモビールが、からん、と小さな音を立てる。


「しおかぜ」の開店準備も、いつもと変わらなかった。


玲奈は黒糖プリンの状態を確認し、亮介はテーブルを拭きながら、まだ昨日のことを根に持っていた。


「玲奈さん」


「はい」


「大城警部、ひどいですよね」


「はいはい」


「俺に凶悪犯から逃げる時は四国八位の脚力が役に立つって」


「そうでしたね」


「しかも玲奈さんを守るのは自分で、俺はコーヒーカップ担当ですよ」


「大切な役目です」


「玲奈さんまで同じこと言ってる」


亮介は布巾を畳みながら、少し不満そうに唇を尖らせた。


「でも、何かあったら俺が一番に駆けつけますから」


「その前に警察へ連絡してください」


「俺、元ラガーマンですよ」


「存じています」


「千五百メートル四国八位ですよ」


「何度も伺いました」


「ヤギには負けたけど、人間には負けません」


玲奈は手を止め、亮介を見る。


「その自信が一番心配です」


「信用ないなぁ」


「信用しているから、余計なことをしないでほしいのです」


亮介は少しだけ黙った。


玲奈は何事もなかったようにプリンの蓋を閉じる。


「それに」


「はい?」


「亮介さんには、今日も仕入れをお願いします」


「戦力として?」


「ウェイターとして」


「大城警部と同じ呼び方になってる!」


玲奈は小さく笑った。


いつもの朝だった。


亮介のくだらない話。


玲奈の「はいはい」。


コーヒーの香りと、黒糖の甘い匂い。


前日に凶悪犯の注意喚起を受けたことさえ、少し遠い出来事のように思えた。


昼前、牛乳と島野菜の在庫が少なくなり、亮介は近くの商店へ仕入れに出ることになった。


「すぐ戻ります」


「お願いします」


「何かあったら電話してくださいね」


「はい」


「大城警部より先に俺に」


「警察へ連絡します」


「そこは俺って言ってくださいよ」


玲奈は少し呆れたように笑う。


「早く行ってきてください」


「行ってきます」


亮介が店を出る。


玲奈はその背中を見送ってから、一人で店内を整え始めた。


まだ客は少ない。


常連のおじいたちは漁港へ行っており、奈央は保育園の勤務中だった。


午後の賑わいが始まる前の、短い静けさ。


その時。


ドアベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


入ってきたのは、薄い帽子を目深にかぶった中年の男だった。


マスクで顔の下半分を隠し、くたびれたシャツを着ている。観光客に見えなくもないが、旅行鞄は持っていなかった。


男は店内をゆっくり見回した。


客席。


厨房。


奥へ続く扉。


そして、玲奈。


若い女性が一人で切り盛りしている小さなカフェ。


男の目に、それは都合のいい獲物としか映らなかった。


「コーヒー」


低い声だった。


「かしこまりました」


玲奈は普段どおりに応じた。


だが男が窓際の席へ向かう際、帽子の影から右眉尻の古い傷が見えた。


玲奈の記憶に、昨日見た写真が浮かぶ。


右の頬骨の下にある大きなほくろ。


右眉尻の縦傷。


伸びにくい右手の小指。


マスクでほくろは隠れている。


しかし、男が椅子を引いた右手を見ると、小指だけが不自然に曲がっていた。


間違いない。


玲奈は表情を変えなかった。


コーヒー豆を挽き、お湯を注ぐ。


逃げ道を確認する。


携帯電話はレジ横。


非常口までの距離。


客は他にいない。


男と自分の位置。


元警察官として身についた判断が、静かに頭の中を巡っていく。


コーヒーを置く。


「お待たせしました」


男はカップへ触れず、玲奈の顔を見上げた。


「姉ちゃん、一人か」


「間もなく従業員が戻ります」


「本当か?」


「はい」


男の口元がマスクの下でわずかに動いた。


玲奈が何かに気づいている。


男もまた、玲奈の一瞬の警戒を感じ取ったらしい。


「俺の顔を知ってるのか」


「何のことでしょう」


玲奈は静かに答えた。


男はゆっくり立ち上がった。


出口へ向かうのではない。


カウンターへ近づいてくる。


「騒ぐなよ」


玲奈は一歩下がった。


「それ以上近づかないでください」


「金を出せ」


男の声が低くなる。


「レジの金と、奥にあるものを全部だ」


若い女が一人。


脅せば言うことを聞く。


そう考えていることは、その粗雑な態度から十分に伝わった。


「お断りします」


玲奈の返事は短かった。


男が笑う。


「強がるな」


ポケットから小型の刃物を取り出す。


玲奈はそれを見ても、悲鳴を上げなかった。


ただエプロンの裾を軽く整えた。


その仕草を、男は恐怖で身を固くしたのだと勘違いした。


実際には違う。


動きを妨げないように整えただけだった。


玲奈は元兵庫県警警部補である。


交通課に在籍しながら、現場で必要な逮捕術を身につけてきた。


さらに戦隊ヒロインとして活動していた時代には、通常の警察官より踏み込んだ護身訓練や対人制圧訓練も受けている。


相手は凶器を持った凶悪犯。


だが、玲奈にとって男一人を取り押さえることは、決して不可能な仕事ではなかった。


「最後に警告します」


玲奈は男の目をまっすぐ見る。


「刃物を置いてください」


「黙れ!」


男が踏み込んだ。


次の瞬間。


玲奈の身体が、半歩だけ横へ流れた。


刃物を持つ腕を正面から止めようとはしない。


攻撃の軌道から外れ、手首と肘を制し、男の勢いをそのまま利用する。


男の身体が大きく傾いた。


「なっ――」


玲奈は足をかけ、重心を崩す。


男は派手な音を立てて床へ転がった。


刃物が手から離れ、客席の下へ滑っていく。


玲奈はすぐに距離を取った。


「動かないでください」


だが男は自分が何をされたのか理解できず、怒りに任せて立ち上がった。


「この女!」


今度は両手で玲奈へつかみかかる。


玲奈はテーブルの角を避けながら身をかわし、腕を取る。


男の肩が不自然に上がり、身体が再び床へ落ちた。


速い。


無駄がない。


そして何より、冷静だった。


店内のカップや玲奈の手作り雑貨を壊さないよう、相手の向きをまで選んで倒している。


男は三度目に立ち上がろうとした。


玲奈は低い声で言った。


「もう、おやめになった方がよろしいですよ」


その声には怒鳴り声より強い冷たさがあった。


男は逆上し、最後の力で飛びかかった。


玲奈は一歩踏み込み、相手の腕を抱え込むように制しながら体勢を入れ替える。


次の瞬間には、男はうつ伏せで床へ押さえ込まれていた。


右腕は背中側で完全に固定されている。


「痛い! 離せ!」


「抵抗しないでください」


「何者だ、お前!」


玲奈は息一つ乱さず答えた。


「この店の店主です」


それだけだった。


一方、その頃。


商店で買い物を済ませた亮介は、牛乳と島野菜を抱えて「しおかぜ」へ戻る途中だった。


遠くから店を見る。


いつもなら開いているテラス側の椅子が、不自然に倒れている。


入口の前には、見慣れない帽子が落ちていた。


胸の奥に嫌なものが走る。


前日の顔写真。


大城警部の警告。


玲奈が一人で店にいること。


亮介は買い物袋を道端へ置いた。


「玲奈さん……」


次の瞬間、走り出していた。


中学時代、千五百メートルで四国八位。


高校では快速フランカー。


ヤギには敗れたが、足そのものは今も確かに速い。


長い脚が島の道を蹴る。


全身で風を切る。


通学途中の小学生が、亮介に気づいた。


「リョウちゃんだ!」


「また走ってる!」


「頑張れー!」


事情を知らない子どもたちの声が、海沿いの道に響く。


「リョウちゃん頑張れ!」


「四国八位ー!」


亮介は手を振る余裕もなかった。


今度は黒糖プリンを届けるためでも、ヤギを追うためでもない。


玲奈が危ない。


その一心だった。


「玲奈さーん!」


勢いよく扉を開ける。


ドアベルが激しく鳴った。


亮介は肩で息をしながら店内を見回す。


倒れた椅子。


床へ落ちたマスク。


客席の下にある刃物。


そして――。


床にうつ伏せになった男。


その男の腕を背中側へ固定し、涼しい顔で押さえている玲奈。


髪がほんの少し乱れている程度で、エプロンにも大きな汚れはない。


亮介は入口で固まった。


「……玲奈さん?」


「はい」


「大丈夫?」


「大丈夫です」


「犯人は?」


「この方です」


「もう終わった?」


「はい」


亮介は膝へ手をつき、大きく息を吐いた。


「俺……四国八位の快速を飛ばしてきたんですけど」


「お疲れ様です」


「見せ場は?」


玲奈は少し考える。


「あります」


亮介の顔が明るくなる。


「本当?」


「大城警部へ連絡してください」


「電話係?」


「重要です」


「……はい」


亮介はすぐに携帯電話を取り出した。


大城の番号へかける。


数回の呼び出し音。


『大城だ』


「警部さん、大変です!」


『どうした、ウェイター君』


「その呼び方は今どうでもいいです! 昨日の犯人が店に来ました!」


電話の向こうで空気が変わる。


『玲奈さんは無事か』


「無事です」


『犯人は』


亮介は床を見る。


「玲奈さんに、もう片づけられてます」


一瞬、沈黙。


『……状況を維持しろ。すぐに向かう』


通話が切れる。


亮介は玲奈の隣へしゃがみ込んだ。


「代わろうか?」


「不用意に触らないでください」


「はい」


「刃物にも触れないでください」


「はい」


「入口で警察を待ってください」


「はい」


完全に指示される側だった。


それでも亮介は、玲奈が無事であることを何度も確かめるように見つめていた。


ほどなくして、複数の捜査車両が店の前へ到着した。


大城警部が署員たちとともに駆け込んでくる。


いつものニヒルな余裕はなかった。


「玲奈さん!」


「大城警部」


大城は玲奈の姿を上から下まで確認する。


「お怪我は?」


「ありません」


「本当に?」


「はい」


ようやく、大城の表情に安堵が浮かんだ。


署員が犯人へ手錠をかけ、身柄を引き取る。


床に落ちた刃物も慎重に確保された。


大城は状況を一通り確認したあと、改めて玲奈へ向き直った。


「刃物を持った凶悪犯を一人で制圧したのですか」


「正当防衛の範囲内です」


玲奈は淡々としている。


大城は少しだけ笑った。


「強い」


そして、まっすぐ玲奈を見る。


「それでいて美しい」


「やはり、あなたは extraordinary――いや、特別な方だ」


玲奈は少し困ったように目を伏せた。


「大げさです」


「大げさではありません」


大城は本気だった。


「元警部補としての判断力、戦隊ヒロインとしての訓練、そしてこの冷静さ」


「見事でした」


亮介が横から口を挟む。


「警部さん」


「何だね、ウェイター君」


「俺も四国八位の快速で駆けつけました」


大城は亮介を見る。


「到着した時には?」


「全部終わってました」


「なるほど」


大城は涼しい顔へ戻った。


「君の脚力は、通報時間を数十秒ほど短縮した可能性がある」


亮介の顔が微妙になる。


「ちょっとだけ役に立った?」


「ちょっとだけだ」


「もう少し褒めてくれても」


「事実以上に評価することはできない」


「やっぱり疎ましいなぁ、この人」


大城は聞こえていても無視した。


事件の知らせを聞いた奈央や、常連のおじい、おばあも「しおかぜ」へ駆けつけた。


事情を聞いたおばあが玲奈をまじまじと見る。


「玲奈ちゃん」


「はい」


「刃物を持った男を一人で?」


「やむを得ませんでした」


おじいが何度も頷く。


「玲奈ちゃん、やっぱり只者ではないさー」


「前から普通の店主じゃないと思ってたよ」


別のおばあも続ける。


「コーヒー淹れて、プリン作って、犯人まで捕まえるのかね」


奈央は目を輝かせていた。


「玲奈さん、格好よすぎます」


亮介が小さく手を挙げる。


「俺も走ったんですけど」


おじいが笑う。


「リョウちゃんは間に合わんかったさー」


「でも速かったですよ」


「見てないさー」


店内に笑いが戻った。


警察の現場確認が終わると、皆で倒れた椅子を起こし、ずれたテーブルを戻した。


幸い、大きく壊れたものはない。


玲奈が相手の動きを客席から外すように制していたからだった。


大城はそれにも感心する。


「店を守りながら制圧したのですか」


「修理費がかかりますから」


「そこですか」


亮介が言う。


玲奈は真顔で頷く。


「重要です」


常連たちが帰り、大城たちも犯人を連行して署へ戻る。


店内には、玲奈と亮介だけが残った。


亮介は床を拭いていたが、先ほどから妙に静かだった。


玲奈が声をかける。


「亮介さん」


「はい」


「先ほどは、ありがとうございました」


亮介は顔を上げる。


「俺、何もしてないよ」


「連絡してくれました」


「それだけ」


「それから」


玲奈は少し間を置いた。


「帰ってきてくれました」


亮介は黙った。


昼間の軽口とは違う、真剣な目で玲奈を見る。


「本当に怖くなかった?」


玲奈はすぐには答えなかった。


手首には、男を制した際についた薄い赤みが残っている。


亮介は冷たいタオルを持ってきて、そっと当てた。


「少しだけ」


玲奈が小さく言った。


「相手が刃物を出した時は、少し怖かったです」


「やっぱり」


「でも」


「はい」


「亮介さんが扉を開けて、私の名前を呼んだ時」


玲奈はわずかに微笑んだ。


「安心しました」


亮介は困ったように笑う。


「全部終わったあとだったけどね」


「終わったあとでも構いません」


「四国八位、役に立った?」


「少しだけ」


「大城警部と同じ評価だ」


玲奈は珍しく、いたずらっぽく笑った。


「電話は早かったです」


「そこだけ?」


「それに、帰ってくるのも」


亮介はその言葉で、ようやく少し満足した。


「次はもっと早く来ます」


「次はない方が良いです」


「それはそう」


「でも、もしあったら」


亮介は胸を張る。


「四国八位以上で走ります」


玲奈は冷たいタオルを押さえたまま、静かに言った。


「では、島一位を目指してください」


「玲奈さんのところへ戻る速さなら、もう島一位かも」


玲奈は一瞬黙り、少しだけ頬を赤くした。


「そういうことを平気で言うから、信用できないのです」


「本当なのに」


「はいはい」


いつもの相づち。


けれど、その声はいつもよりずっと柔らかかった。


夕方、事件の痕跡はほとんど消えていた。


テーブルは元の位置へ戻り、黒糖プリンは冷蔵庫に並び、コーヒーの香りが再び店を満たしている。


凶悪犯は確保された。


氷の店主の強さは、島中に知れ渡った。


大城警部は玲奈への思いをさらに深め、奈央は玲奈への尊敬を強くした。


常連たちは口をそろえて言うだろう。


「玲奈ちゃん、やっぱり只者ではないさー」


そして亮介は。


四国八位の快速を飛ばし、懸命に玲奈の元へ駆けつけた。


到着した時には、事件はもう終わっていた。


それでも玲奈にとっては、彼が帰ってきたことそのものが、少しだけ意味を持っていた。


潮風は再び窓辺のモビールを揺らしていた。


嫌な予感のあとにも、風は必ず戻ってくる。


その風の中で、玲奈と亮介はいつものように並び、閉店後のコーヒーを静かに飲んだ。

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