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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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黒糖プリンの午後に、見知らぬ影が立つ ――大城警部と岡本元警部補の事件ファイル・前編 潮風が止む日は、いつも少しだけ嫌な予感がする

南ぬ島の朝は、亮介のくだらない話から始まる。


それは「しおかぜ」が開店してから、いつの間にか定着した習慣だった。


玲奈が黒糖プリンの仕上がりを確認し、コーヒー豆を量り、島野菜サンドに使うパンを切っている横で、亮介はテーブルを拭きながら途切れることなく喋り続ける。


「玲奈さん、昨日のおじいの話、聞いてくださいよ」


「はいはい」


玲奈はパンから視線を上げない。


「まだ何も話してないのに、もう二回返事したよね?」


「どうせ長くなるでしょう」


「今日は短いです」


「毎回そう言います」


カウンター席には、開店前から顔を出した奈央がいた。


今日は保育園の遅番らしく、コーヒーを飲みながら画用紙の飾りを切っている。手芸部で鍛えられたとはいえ、切り口はまだ少し危なっかしい。


「それで、どんな話なんですか?」


奈央が聞くと、亮介は嬉しそうに振り向いた。


「さすが奈央ちゃん。聞く姿勢ができてる」


「玲奈さんが聞いてくれないからですか?」


「聞いてはいます」


玲奈が静かに訂正する。


「内容に応じた反応をしているだけです」


「まだ内容を言ってないじゃないですか」


亮介は少し不満そうにしながらも、すぐに話を始めた。


昨日、近所のおじいが「若い頃は島一番の色男だった」と自慢していたこと。那覇から来た女性が自分を見るために港へ通い詰めたこと。祭りの日には、女性たちが彼を取り合って喧嘩をしたこと。


亮介の話は、進むほどに豪華になっていく。


最後には、おじいが歩くだけで集落の女性が窓を開けたことになっていた。


奈央が半笑いで尋ねる。


「それ、本当におじいが言っていたんですか?」


「大筋は」


「大筋以外は?」


「俺が聞きやすく整理しました」


玲奈はパンを切り終え、包丁を置いた。


「脚色したのですね」


「物語としての完成度を高めたんです」


「亮介さん」


「はい」


「昨日、そのおじいから直接聞きました」


亮介の動きが止まる。


玲奈は涼しい顔で続けた。


「港へ通っていた女性は、おじいの奥様一人だけです」


「……そうでしたっけ」


「祭りで喧嘩したのは、女性ではなく飼っていたヤギ二頭です」


奈央が吹き出した。


玲奈はさらに言う。


「窓を開けたのは、おじいが毎朝大声で歌っていたので、近所の方が苦情を言うためだったそうです」


「だいぶ違うなぁ」


「別の話になっています」


奈央は笑いながら目元を拭いた。


「リョウさん、話を盛りすぎです」


「でも、俺の方が面白かったでしょ?」


「それは否定しません」


玲奈は呆れたように言いながら、ほんの少し笑っていた。


亮介の話の半分は誇張で、残りの半分には余計な前置きがついている。それでも、その声が店内に響いていないと、朝がまだ始まっていないように感じる。


玲奈はそんな日常を、嫌いではなかった。


むしろ、かなり気に入っていた。


ただし、それを亮介本人へ伝える予定はない。


「次はパチンコの話なんですけど」


「それは結構です」


「まだ一言も」


「聞かなくても結構です」


「厳しいなぁ」


店の扉が開き、常連のおばあたちが入ってきた。


いつもの窓際席へ座り、黒糖プリンを注文する。


続いて、近所のおじいたちがやって来る。


「リョウちゃん、昨日わしの話を玲奈ちゃんにしたか?」


「しましたよ」


「ちゃんと島一番の色男だったと言ったか?」


玲奈が振り向く。


「やはり、そこは本当なのですか?」


おじいは胸を張った。


「本人が言うんだから間違いないさー」


亮介が勝ち誇った顔をする。


玲奈は小さくため息をついた。


「証言の信用性に問題がありますね」


そんな笑い声の中で、「しおかぜ」は開店した。


昼を過ぎる頃には観光客も入り、いつものように黒糖プリンと島野菜サンドが運ばれていく。


空は明るく、海も穏やかだった。


ただ、その日に限って潮風が弱かった。


窓辺に吊るされた貝殻のモビールは、時折小さく揺れるだけだった。


玲奈は一度だけ窓の外を見た。


風がない。


ただそれだけのことなのに、なぜか胸の奥に小さな引っかかりが残った。


午後の混雑が落ち着いた頃、店の前に八重山署の捜査車両が止まった。


亮介が窓越しに気づく。


「あ、大城警部」


奈央も画用紙から顔を上げる。


「今日はランチの時間じゃないですね」


玲奈はすでに、入ってくる人物の表情を見ていた。


ドアベルが鳴る。


大城誠司警部は、いつものニヒルな笑みを浮かべていなかった。


端正な顔立ちには緊張があり、片手には薄い書類封筒を持っている。


「こんにちは」


「いらっしゃいませ、大城警部」


玲奈が静かに応じる。


「今日は食事ではありませんね」


大城は短く頷いた。


「さすがですね、玲奈さん。話が早い」


亮介が小声で奈央へ言う。


「俺だって分かりましたよ」


「リョウさんは窓から車を見ていましたから」


「玲奈さんだけ褒めるんだよなぁ」


大城は亮介の小声を聞き流し、店内を見渡した。


常連客が数人。


奈央。


そして玲奈と亮介。


「皆さんにも関係する注意喚起です。少しお時間をいただきたい」


店内の空気が静まった。


大城は封筒を開き、顔写真を取り出した。


四十代後半ほどの男だった。


痩せ気味の顔。短く刈った髪。頬はこけ、目元には深い影がある。


特に目につくのは、右の頬骨の下にある大きな黒いほくろだった。


右の眉尻には、縦に走る古い傷痕もある。


写真では無表情だが、見る者を不安にさせる冷たい目をしていた。


大城が低い声で説明する。


「埼玉県警から照会がありました。氏名は河村征治、四十七歳。殺人、放火、傷害などを含め、これまで五度の服役歴があります」


おばあたちの表情から笑みが消える。


大城は写真をカウンターへ置いた。


「現在は、本土で発生した事件に関連して行方を追われています。数日前、八重山方面へ入った可能性を示す情報が入りました」


玲奈が写真を手に取る。


「南ぬ島へ潜伏している可能性があるのですね」


「高いと見ています」


「特徴は、この右頬のほくろと右眉の傷ですか」


「ええ。身長は百七十センチ前後。右手の小指が古いけがで伸びにくいという情報もあります」


玲奈は写真をじっと見つめ、特徴を頭へ刻み込んだ。


かつて警察官だった頃の表情に変わっている。


大城もその横顔を見て、わずかに目を細めた。


「さすがですね。確認すべき箇所をすぐに拾われる」


亮介が写真を覗く。


「俺も右のほくろは気づきましたよ」


大城は亮介へ一瞥を向けた。


「それは良かった、ウェイター君」


「反応が雑じゃないですか?」


「写真の特徴を一つ認識できたことは評価している」


「小学生みたいな褒め方だなぁ」


奈央が口元を押さえて笑う。


大城は再び玲奈へ向き直った。


「玲奈さん。この男は追い詰められた場合、何をするか分かりません」


その声だけが、先ほどより柔らかくなる。


「どうか、くれぐれも注意してください。似た人物を見かけても声をかけず、距離を取り、すぐ私へ連絡を」


「分かりました」


「昼夜は問いません。私の携帯へ直接で構いません」


大城は連絡先を書いたカードを玲奈の前へ置いた。


「ほんの少しでも異変を感じたら呼んでください。必ず駆けつけます」


玲奈はカードを受け取り、丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます」


それから大城は、ゆっくり亮介を見た。


「ウェイター君」


「はい。何でしょう」


「君にも忠告しておこう」


「俺も店を守りますよ」


「その意気込みだけは立派だ」


「だけは?」


大城は涼しい顔で続けた。


「ただし、相手は凶悪犯だ。君がこれまで相手にしてきた女性客やパチンコ台のようにはいかない」


奈央が吹き出しそうになり、慌てて口元を隠した。


亮介は眉を寄せる。


「女性客は相手にしてるんじゃなくて接客です。パチンコ台は……まあ、相手にしてますけど」


「いずれにせよ、君が前へ出る必要はない」


「俺、元ラガーマンですよ」


「知っている。四国八位だったそうだね」


亮介が少し得意そうになる。


「そうです」


大城は真顔のまま言った。


「逃げる時には役に立ちそうだ」


店内に笑いが起きた。


「そっちですか!」


亮介は思わず声を上げる。


大城はまったく表情を変えない。


「凶悪犯から安全な距離を確保する。それも重要な能力だ」


「玲奈さん、この人ひどくないですか?」


玲奈は笑いをこらえながら答える。


「大城警部なりに心配してくださっているのだと思います」


「絶対違うよ」


大城はさらに追い打ちをかける。


「玲奈さんについては、私が守ります」


そして亮介へ視線を戻す。


「ウェイター君は、コーヒーカップを守ってくれたまえ」


常連のおじいが腹を抱えて笑った。


「リョウちゃん、カップ担当さー!」


おばあも続く。


「黒糖プリンも守らんとねぇ」


奈央は笑いながら言う。


「リョウさん、お店にとって大切な役目です」


「誰も俺を人員として数えてない」


亮介は本気で面白くなさそうだった。


玲奈が静かに言う。


「亮介さん」


「はい」


「危険なことはしないでください」


「玲奈さんまで大城警部の味方?」


「味方という話ではありません」


「大城警部には『必ず駆けつけます』って言われて、俺には『何もしないでください』ですよ」


「亮介さんは、何かあると考える前に動きそうだからです」


それはかなり正確な評価だった。


亮介は反論できず、口を尖らせた。


常連のおばあは写真を少し離れたところから眺めながら、のんびりした声で言う。


「怖い男だねぇ」


「でも、玲奈ちゃんがいて、大城警部も島にいるなら安心さー」


おじいも頷く。


「元警部補と現職警部だからねぇ。こんな心強い店はないさー」


奈央も大城を見ながら微笑む。


「大城警部が担当なら、きっと大丈夫ですね」


その言葉に、大城は軽く頭を下げた。


「できる限りのことをします」


奈央の頬がほんの少し赤くなる。


亮介は見逃さなかった。


「奈央ちゃんまで大城警部派?」


「派閥ではありません」


「今、ちょっと目が輝いてた」


「気のせいです」


「玲奈さんも安心した顔してるし」


玲奈は首をかしげる。


「警察官が注意喚起に来てくださったのですから、安心するのは当然でしょう」


「俺が『守ります』って言っても、その顔しないよね」


「亮介さんの場合は、まず余計なことをしないか心配になります」


また店内が笑いに包まれた。


凶悪犯の注意喚起という重い話だったはずなのに、「しおかぜ」では最後に亮介がからかわれて終わる。


いつもの日常へ戻れるような気がした。


大城は写真を数枚、玲奈へ預けた。


「店内へ掲示する必要はありません。常連の方や従業員だけで共有してください。一般のお客様を不用意に不安にさせる必要はない」


「承知しました」


「何か思い出したことがあれば、どんな些細なことでも連絡を」


「はい」


大城は最後に亮介を見る。


「ウェイター君」


「まだ何か?」


「本当に無茶はするな」


先ほどまでの皮肉とは少しだけ違う声だった。


亮介も、その変化には気づいた。


「……分かりました」


「結構」


大城は店を後にした。


捜査車両が海沿いの道を遠ざかっていく。


しばらく店内には、写真の男が残した重苦しさが漂っていた。


けれど、最初にそれを破ったのは、やはり亮介だった。


「俺、そんなに頼りないかなぁ」


おじいが即答する。


「うん」


「早いなぁ」


おばあも言う。


「でもリョウちゃんは、店を明るくするのが上手さー」


奈央も微笑む。


「私もそう思います」


亮介は少し元気を取り戻した。


「玲奈さんは?」


玲奈はコーヒーを二杯淹れながら答えた。


「亮介さんには、亮介さんの役割があります」


「何です?」


玲奈は一杯を亮介へ差し出す。


「いつも通り、ここにいることです」


亮介は一瞬黙った。


それから、少し照れたように笑う。


「それなら得意です」


「はい。知っています」


大城に小馬鹿にされていた不満は、わずかに薄れた。


しかし、完全に消えたわけではない。


「でも、次に来たらウェイター君じゃなくて亮介さんって呼ばせる」


「そこですか?」


奈央が笑う。


「重要です」


「随分、小さな目標ですね」


玲奈まで笑った。


その午後も、「しおかぜ」はいつも通り営業を続けた。


黒糖プリンが運ばれ、コーヒーが淹れられ、亮介のくだらない話がまた始まった。


それでも、店内の見えないところには、これまでになかった緊張が残っていた。


玲奈は、レジ横の引き出しへしまった顔写真を何度か思い出した。


右頬の大きなほくろ。


右眉尻の古い傷。


伸びにくい右手の小指。


どこかで見かけたような気もする。


けれど、確信はない。


夕方近くになると、空の色が少しずつ薄くなった。


不思議なほど風がなかった。


いつもなら潮風に揺れる店先の暖簾も、窓辺のモビールも、じっと動きを止めている。


玲奈はテラスへ出た。


海は穏やかだった。


穏やかすぎた。


港へ続く道の向こうに、一人の男が立っているように見えた。


薄い帽子をかぶり、店の方へ顔を向けている。


玲奈が目を凝らす。


その時、店の中から亮介の声がした。


「玲奈さん、コーヒー豆どこでしたっけ?」


「いつもの棚です」


ほんの数秒、視線を外す。


もう一度道を見ると、男の姿は消えていた。


見間違いかもしれない。


観光客だったのかもしれない。


帽子の影で、顔までは見えなかった。


玲奈はしばらく、誰もいない道を見つめていた。


「どうしました?」


奈央が隣へ来る。


玲奈は小さく首を振った。


「何でもありません」


そう答えながらも、胸の奥に残った違和感は消えなかった。


店内へ戻る玲奈の背後で、海は静かに光っていた。


あまりにも美しく、あまりにも平和だった。


けれど島のどこかで、見えない影が確かに動き始めている。


その夜、「しおかぜ」はいつも通り閉店した。


亮介は最後まで大城警部への不満を口にし、


「次は絶対、ウェイター君って呼ばせない」


と小学生のように繰り返していた。


玲奈は「はいはい」と相づちを打ち、奈央は笑いながら帰っていった。


誰もまだ知らなかった。


その平和な会話のすぐ近くまで、写真の男が来ていることを。


潮風が止む日は、いつも少しだけ嫌な予感がする。


そしてその予感は、翌日。


「しおかぜ」の扉が開いた瞬間に、現実のものとなる。

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