黒糖プリンが暴いた密航ルート ――大城警部と岡本元警部補の事件ファイル 防犯カメラ最大の障害は、よく働くウェイターでした
南ぬ島の午後は、事件などという言葉から最も遠い場所にあるように見えた。
海は青く、潮風は穏やかで、「しおかぜ」の窓辺では、玲奈が作った貝殻のモビールが小さな音を立てている。
ランチの混雑が過ぎた店内で、亮介は常連のおじいたちを相手に、朝から三度目になる話をしていた。
「それでね、おじいが漁港で大きな魚を見たって言うんですよ」
「どれくらい大きかったの?」
「聞いたら、両手をこう広げて」
亮介が大げさに腕を伸ばす。
「これくらいだって」
常連のおじいが笑った。
「それは魚じゃなくて、昨日港に着いたクーラーボックスさー」
「えっ、そうなの?」
玲奈はカウンターの奥でコーヒーを淹れながら、半分呆れた顔で言う。
「亮介さん、その話は事実確認をしてから広めてください」
「島の昔話なんて、少しくらい脚色があった方が面白いじゃないですか」
「今のは脚色ではなく誤認です」
「元警部補は厳しいなぁ」
玲奈はほんの少し笑った。
平和だった。
何も起きないことが、何よりありがたい。
そんな午後だった。
店の前に、見慣れた捜査車両が止まるまでは。
ドアベルが鳴る。
入ってきた大城誠司警部は、いつものランチタイムとは明らかに違っていた。
濃紺のスーツ。
手には薄い書類封筒。
普段のニヒルな余裕は残っているが、目だけが鋭い。
玲奈は一目で察した。
今日はコーヒーを飲みに来たのではない。
「大城警部」
「玲奈さん」
大城は店内を一度見回し、声を少し落とした。
「お仕事中に申し訳ありません。少し、お力をお借りしたい」
その言い方に、亮介も軽口を引っ込めた。
「事件ですか」
玲奈の声も変わる。
カフェの店主ではない。
かつて兵庫県警で警部補を務めた女性の声だった。
「はい」
大城は封筒から一枚の写真を取り出した。
五十代前後の男。
派手さのない顔立ちだが、目だけが妙に冷たい。
「岡山県警から協力要請がありました。投資詐欺事件の主犯格です」
常連のおじいたちの表情も引き締まる。
大城は続ける。
「この男が南ぬ島周辺に潜伏している可能性があります。近く漁船を利用して国外へ逃亡するという情報も入っています」
亮介が写真を覗き込む。
「詐欺師ですか」
大城の視線が一瞬だけ亮介へ向く。
「君ほどではないかもしれないがね、ウェイター君」
「そこ、比べなくていいでしょう」
早くも亮介の顔が曇る。
大城は何事もなかったように玲奈へ写真を差し出した。
「観光客も島の人間も出入りする店です。念のため、見覚えがないか確認していただきたい」
玲奈は写真をじっと見た。
最初は首を横へ振る。
「すぐには思い出せません」
しかし、写真をカウンターの上へ置いたあと、何かが引っかかったようにもう一度手に取る。
「……少し待ってください」
大城が黙って玲奈を見る。
「三日ほど前」
玲奈は記憶をたどるように、ゆっくり話す。
「似た方が窓際へ座っていた気がします」
「お一人でしたか」
「最初は一人でした。途中から、帽子をかぶった別の男性が来ました」
「何を話していました?」
「分かりません。団体のお客様がいて、店内がかなり混み合っていましたから」
玲奈は少し眉を寄せた。
「二人とも小声で話していましたが、特に騒ぐこともなく、注文も普通でした。不審に思うほどではありませんでした」
「他に何か」
大城の問いに、玲奈は考える。
「そういえば……」
「何でしょう」
「二人とも、何度か店の外を確認していました。誰かを待っているのだと思っていましたが」
大城の目が変わる。
「防犯カメラは?」
「残っています」
「確認させてください」
「どうぞ」
三人は店の奥にある小さな事務スペースへ移動した。
奈央もその日、カウンターの端でコーヒーを飲んでいた。事件と聞いて遠慮していたものの、亮介から「奈央ちゃんも見届けて」と頼まれ、少し離れた場所から成り行きを見守ることになった。
パソコンを起動し、該当日の映像を呼び出す。
画面には、普段通りの「しおかぜ」が映っていた。
観光客。
常連客。
運ばれるコーヒー。
黒糖プリン。
そして、やたらと動き回る亮介。
「この時間帯です」
玲奈が映像を進める。
窓際に、写真の男が現れた。
大城が身を乗り出す。
「間違いない」
少し遅れて、帽子をかぶった男が向かいへ座る。
二人は何かを話している。
大城が言う。
「少し戻してください」
玲奈が映像を戻す。
その瞬間。
画面いっぱいに、亮介の背中が映った。
コーヒーポットを持って通り過ぎる。
「……」
大城は黙る。
「もう一度」
映像を戻す。
今度は亮介が注文を取っている。
肝心の男たちは半分しか見えない。
「もう少し先を」
亮介が水を運ぶ。
「ここです」
亮介が常連のおばあと笑っている。
「止めてください」
亮介がしゃがみ込み、落としたスプーンを拾っている。
画面のほとんどが亮介だった。
大城は深く息を吐き、額へ手を当てた。
「ウェイター君」
「はい?」
「君、邪魔だったんだよ」
亮介は目を丸くした。
「仕事してただけですよ!」
「君の店内における稼働率が異常に高い」
「褒めてます?」
「まったく」
玲奈は笑いをこらえながら言った。
「確かによく映っていますね」
奈央も肩を震わせる。
「リョウさん、防犯カメラの主役です」
「事件の主役じゃなくて?」
「邪魔な主役です」
「奈央ちゃんまで!」
大城は画面を睨んだまま、冷たく言う。
「ウェイター君。次に捜査対象が来店した時は、少し静止していてくれ」
「接客できないでしょう!」
「では、防犯カメラを増設した方が早いな」
「俺が原因みたいに言わないでください」
玲奈はとうとう小さく吹き出した。
「すみません。続けましょう」
再生速度を落とし、一コマずつ確認する。
亮介の隙間を縫うようにして、二人の男の動きを追う。
やがて玲奈の顔から笑みが消えた。
「ここです」
「何が見えました?」
「帽子の男性が、テーブルの下で紙袋を渡しています」
画面を拡大する。
大城が目を細めた。
「確かに」
「受け取った男は左手を使っています」
玲奈はさらに映像を追う。
「立ち上がるところを見てください」
男が椅子から立つ。
ほんのわずかに、右足を引きずるような歩き方をしている。
「右足をかばっていますね」
大城が頷く。
「逃走時の特徴になる」
「それと、二人が別れる直前です」
玲奈は映像を止めた。
二人の視線が、同時に店の外へ向いている。
正面の道路ではなく、その先にある港の方向。
「会話の途中から、何度も同じ方向を見ています」
「港の位置を確認していた可能性がある」
「はい」
玲奈はかつての感覚を取り戻していた。
画面の一部ではなく、全体を見る。
人ではなく、人と人との距離を見る。
何をしているかではなく、何を避けているかを見る。
交通課時代、過積載車両を見抜く時にも使っていた観察眼だった。
大城は玲奈の横顔を見つめる。
店主として穏やかに笑う玲奈も美しい。
だが、元警察官として集中している玲奈には、別の凛々しさがあった。
「さすがです」
大城の声が柔らかくなる。
「警部補殿の観察力は、まだまったく衰えていませんね」
玲奈は少し照れたように首を振る。
「昔を思い出しただけです」
「それで十分です」
二人は港周辺の地図を広げた。
映像に映った男の歩き方。
店を出た方向。
港へ向かう可能性。
大城は必要な情報だけを素早く整理する。
玲奈も地元の道や、店を利用する漁師たちの動線について、分かる範囲で協力した。
その横で、亮介は完全に置いていかれていた。
「奈央ちゃん」
「はい」
「俺、何か役に立てるかな」
奈央は少し考える。
「コーヒーを淹れてあげたらどうですか」
「それだけ?」
「得意でしょう?」
「まあね」
亮介は少し寂しそうに三人分のコーヒーを用意した。
大城へ差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう、ウェイター君」
「名前で呼んでくれてもいいんですよ」
「必要になれば覚える」
「疎ましいなぁ、この人」
亮介が小声で言うと、奈央が笑った。
「聞こえますよ」
「聞かせてるんです」
大城は聞こえていても、完全に無視していた。
その日の捜査協力は、夕方近くまで続いた。
得られた情報を持ち帰った大城は、八重山署の捜査員と港周辺の警戒に当たった。
翌朝。
問題の男は、漁船へ向かう途中で発見された。
右足をわずかにかばう歩き方が、捜査員の目に留まった。
照会の結果、写真の人物と確認。
男はその場で身柄を確保され、国外逃亡は未然に防がれた。
詳しい事情は、岡山県警との連携の中で明らかにされることになった。
その日の夕方。
大城は再び「しおかぜ」を訪れた。
今度は捜査車両ではなく、一人で。
店へ入ると、まっすぐ玲奈の前へ立った。
「玲奈さん」
「はい」
「犯人を確保しました」
玲奈の表情がほっと緩む。
「そうですか。良かったです」
大城は深く頭を下げた。
「あなたの記憶と観察が決め手になりました」
「さすが元警部補です」
「ご協力、本当にありがとうございました」
玲奈も静かに頭を下げる。
「少しでもお役に立てたなら」
「少しどころではありません」
大城は玲奈だけに見せる柔らかな微笑みを浮かべた。
「現役復帰をお願いしたいほどです」
「それは遠慮します」
玲奈は笑う。
その二人のやり取りを見ていた亮介が、待ってましたとばかりに胸を張った。
「警部さん」
「何だね、ウェイター君」
「俺も役に立ちましたよね?」
大城は少し考えるふりをした。
「君は……」
「はい」
亮介は期待に満ちた顔をする。
「非常によく働いていた」
「おっ」
「防犯カメラに、誰よりも映っていた」
店内が一瞬静まる。
次の瞬間、奈央が吹き出した。
常連のおじいも笑う。
おばあも机を叩く。
「そこですか!」
亮介は頭を抱えた。
大城は涼しい顔で続ける。
「映像解析を困難にしたという意味では、今回の事件で最も存在感があった」
「小馬鹿にしてますよね?」
「事実を述べている」
「本当にこの人、疎ましいなぁ」
「ウェイター君」
「何です」
「聞こえているよ」
「聞かせてますから」
玲奈が笑いながら二人の間に入る。
「亮介さんも、通常通り接客していただけです」
「ほら」
亮介が得意そうに言う。
玲奈は続けた。
「ただし、次回から防犯カメラの前では、少しだけ立ち止まらないようにしてください」
「玲奈さんまで!」
奈央が亮介の隣へ座り、慰めるように肩を軽く叩いた。
「元気を出してください」
「奈央ちゃんだけが味方だよ」
「私は、リョウさんが何度も映るたびに笑えました」
「それ慰め?」
「半分くらいです」
「また半分!」
大城は玲奈の淹れたコーヒーを受け取り、満足そうに一口飲んだ。
「事件解決後のコーヒーは格別ですね」
玲奈は黒糖プリンも添える。
「今日はお疲れでしょうから」
「ありがとうございます」
亮介が横から口を挟む。
「それ、俺の分より大きくない?」
玲奈は即答する。
「同じです」
「本当に?」
「計量しました」
「元警部補の計量なら信用するしかないなぁ」
大城が静かに言う。
「ウェイター君。君はプリンの大きさまで競うのか」
「警部さんとなら何でも競います」
「暇なのかね」
「あなたが来ると忙しくなるんですよ。精神的に」
奈央はまた笑い、玲奈も困ったように微笑んだ。
事件は解決した。
現職警部と元警部補は互いの能力を認め合い、逃亡を防いだ。
奈央は大城の刑事としての姿に、ますます淡い憧れを深めた。
そして亮介だけは、大城警部の存在を以前にも増して疎ましく思うようになった。
ただ、その疎ましさも、「しおかぜ」の中ではどこか穏やかだった。
大城がコーヒーを飲み、玲奈が微笑み、奈央が見とれ、亮介が不機嫌そうに皿を拭く。
黒糖プリンが暴いた密航ルートの事件ファイルは、最後にはいつもの四人の、少しねじれたラブコメへ戻っていった。
潮風は静かに窓辺を通り抜ける。
緊張の残り香も、事件解決の安堵も、亮介の小さな焼きもちも、すべてコーヒーの湯気に溶けていった。




