黒糖プリンより甘くない、四人の午後 ――恋の矢印は、潮風の中で少しだけ迷子になる
南ぬ島には、何も起きないことがいちばん贅沢に思える午後がある。
その日の「しおかぜ」は、まさにそんな空気に包まれていた。
観光客の波は午前中で引き、店内にはゆるやかなジャズと、コーヒーの香りだけが残っている。窓の外では潮風がハイビスカスを揺らし、壁に飾られた玲奈のハンドメイド雑貨が小さく影を落としていた。
玲奈はカウンターの中でカップを磨いている。
亮介は隣で、今日もどうでもいい話をしていた。
「玲奈さん、昨日おじいがね」
「はい」
「若い頃は那覇でモテたって言うんですよ」
「はい」
「で、どれくらいモテたんですかって聞いたら」
「はい」
「本人いわく、向こう三軒両隣」
玲奈は手を止めずに答える。
「かなり狭いですね」
「そうなんですよ」
亮介は一人で笑う。
玲奈は呆れた顔をしているが、その声は少し柔らかい。
窓際には、大城誠司警部が座っていた。
非番ではなく、勤務の合間らしい。短い昼休みにコーヒーだけを飲みに来たと言うが、常連のおばあたちは誰も信じていない。
奈央もカウンター席にいた。
保育園の制作帳を広げているが、ほとんど手は動いていない。視線は時々、大城警部の横顔へ向かう。
そこへ、常連のおばあが黒糖プリンの皿を置きながら言った。
「今日は暇さー」
「はい」
玲奈が微笑む。
おばあは四人を順番に見た。
「みんな三十過ぎて独身ねぇ」
亮介が咳き込む。
玲奈はカップを磨く手を止める。
奈央は顔を赤くする。
大城は静かにコーヒーを置いた。
「おばあ、それは急に切り込むね」
亮介が苦笑する。
おばあは平然としていた。
「昔は少しだけ占い師みたいなことをしてたさー」
「ユタではないよ」
「でも恋愛相談はよく聞いた」
奈央が興味を示す。
「恋愛診断ですか?」
「そうさー」
おばあは紙ナプキンを一枚広げる。
「今日は暇だから、四人の恋の矢印を見てあげるさー」
玲奈はすぐに言った。
「私は結構です」
亮介は笑う。
「やりましょうよ。面白そう」
大城もニヒルに微笑む。
「統計的根拠は薄そうですが、興味深いですね」
おばあは大城を見て笑った。
「警部さん、そういうところが面倒くさいさー」
奈央が吹き出す。
こうして、誰も本気ではないはずの恋愛診断が始まった。
最初の質問。
「好きになる人は、どんな人ね?」
おばあが玲奈を見る。
玲奈は少し考える。
「信用できる人です」
亮介が少し姿勢を正す。
「約束を守って、仕事を真面目にして、くだらないことをしても最後には反省できる人」
「それ、俺?」
亮介が聞く。
玲奈は淡々と答える。
「さあ」
大城は静かに聞いている。
奈央はにやにやしている。
玲奈はさらに続けた。
「それから、悪いことをしない人」
亮介が胸を押さえる。
「刺さるなぁ」
「亮介さんは、また悪さをしないように私が見張っています」
「はい」
「賠償金の支払いが終わる百十七歳まで」
店内が笑いに包まれる。
大城だけは、その言葉の奥にある親しさを見逃さなかった。
次は亮介。
「俺はね」
亮介は少し照れくさそうに頭をかく。
「怒ってても最後は笑ってくれる人」
玲奈の手が止まる。
「料理が上手で、朝のコーヒーが美味くて、俺のくだらない話を聞き流してくれる人」
奈央が言う。
「完全に玲奈さんですね」
亮介は慌てる。
「いや、一般論」
「一般論にしては具体的です」
大城はコーヒーを一口飲み、少しだけ面白くなさそうに窓の外を見る。
次は奈央。
奈央は赤くなりながら言った。
「私は……仕事を頑張っている人がいいです」
「ほう」
おばあが目を細める。
「責任感があって、落ち着いていて、頼れて、制服が似合う人」
亮介が小声で言う。
「それ、大城警部じゃん」
奈央はさらに赤くなる。
大城は全く気付かない。
玲奈だけが少しだけ奈央を見る。
最後は大城だった。
大城は姿勢を崩さず、静かに答える。
「自立している女性です」
「知性があり、誠実で、生活が丁寧で、料理もできる」
亮介が苦い顔をする。
「家庭菜園にも向き合い、古い映画や歴史にも理解がある」
奈央の表情が少し沈む。
玲奈は困ったように目を伏せる。
おばあは紙ナプキンに線を書き始めた。
玲奈。
亮介。
奈央。
大城。
四人の名前を丸で囲み、矢印を引く。
亮介から玲奈へ。
奈央から大城へ。
大城から玲奈へ。
そして玲奈の矢印は、少し迷ったあと、亮介の方へ向いているようで、ほんの少し大城の方にも揺れている。
おばあは首をひねった。
「うーん」
四人が覗き込む。
「どうですか?」
奈央が聞く。
おばあは苦笑いした。
「誰も悪くない」
「でも誰も得しないさー」
亮介が紙ナプキンを見る。
「本当だ……」
大城は腕を組む。
「興味深い構図ですね」
玲奈は小さくため息をつく。
奈央は苦笑いする。
四人そろって、
「うーん……」
と声を漏らした。
その間の抜けた声があまりにも揃っていて、おばあが最初に笑った。
奈央も笑った。
亮介も笑った。
玲奈も肩を震わせた。
大城も珍しく、口元を緩めた。
おばあは紙ナプキンを畳む。
「恋は黒糖プリンみたいにはいかんねぇ」
「材料を混ぜて冷やせば固まるわけじゃないさー」
玲奈は静かに言う。
「手間がかかりますね」
亮介が笑う。
「この章のタイトルみたいだ」
奈央は窓の外を見る。
大城は玲奈だけを見ている。
玲奈は一瞬だけ亮介を見る。
亮介は照れ隠しにテーブルを拭き始めた。
誰の恋も進んでいない。
誰も勝っていない。
けれど、誰も傷ついてはいなかった。
それが「しおかぜ」らしかった。
潮風が窓辺のモビールを揺らす。
黒糖プリンより甘くない。
でも、コーヒーより少しだけ温かい。
そんな四人の午後が、静かに過ぎていった。




