窓際席の警部と、機嫌の悪いウェイター ――エリート警部、今日も「しおかぜ」へ。黒糖プリンより苦いリョウちゃんの昼下がり
大城誠司警部が「しおかぜ」に顔を出すようになってから、店の空気は少しだけ変わった。
それは嵐ではない。
けれど、海面に小さな波紋が広がるように、確かに誰かの心を揺らしていた。
大城警部が来る時間は決まっていない。
午前の聞き込みのあと。
午後の会議の前。
署へ戻る途中。
あるいは、単に「近くを通ったので」と言うには少し遠回りすぎる時間帯。
週に二回、多い時は三回。
店の前に警察車両が止まると、常連のおじいがすぐに言う。
「ほら、県警本部のお偉いさんが来たさー。」
おばあも笑う。
「また玲奈ちゃんの顔見に来たんでしょ。」
大城はその声を聞いても、涼しい顔で店に入ってくる。
長身。
色黒。
整った顔立ち。
少し冷めたような目元。
歩き方まで無駄がなく、いかにも本部勤務を経験したエリート警察官という雰囲気だった。
「こんにちは。」
低い声。
穏やかだが、どこか人を見下ろすような余裕がある。
亮介はカウンターの奥で小さくため息をつく。
「来た……。」
奈央はその日もコーヒーを飲みに来ていた。
彼女は本を閉じ、少しだけ姿勢を正す。
大城警部を見るたび、胸の奥がふわりとする。
知的で、落ち着いていて、少し近寄りがたい。
それがかえって奈央には眩しかった。
大城は窓際の席へ向かう。
いつの間にか、そこは彼の定位置になっていた。
「玲奈さん。」
「はい。」
玲奈が顔を上げる。
大城は、玲奈に対してだけ声の温度が変わる。
「今日のランチをお願いします。」
「今日は島野菜パスタです。」
「それは楽しみです。」
「家庭菜園の島オクラと島バジルを使っています。」
大城は目を細める。
「ご自分で育てた野菜を料理に使う。」
「実にあなたらしい。」
「料理というより、生活そのものを丁寧に編んでいるようですね。」
玲奈は少し照れる。
「大げさです。」
「いいえ。」
「あなたの仕事は、いつも丁寧です。」
それを聞いた亮介は、皿を拭く手を止めた。
「……褒め方がいちいち上手いんだよな。」
奈央が小声で言う。
「素敵じゃないですか。」
「奈央ちゃんまで?」
「だって、知的ですし。」
亮介はさらに面白くない。
「俺だって知的な時あるよ。」
「いつですか?」
「……たまに。」
「見たことないです。」
「ひどい。」
大城の島野菜パスタが運ばれる。
彼は一口食べると、静かに頷いた。
「火入れが絶妙ですね。」
「野菜の香りが残っている。」
「本部近くのレストランでも、ここまで丁寧な皿はそうありません。」
玲奈は嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます。」
大城はさらに続ける。
「玲奈さんは、もっと大きな場所でも通用する方です。」
「警察官としても、店主としても。」
「神戸時代も、そうだったのでしょう。」
玲奈は少し驚く。
「神戸時代を?」
「少し調べました。」
大城はさらりと言う。
「二号線の鬼台貫。」
その言葉に、常連のおじいが反応する。
「何ね、その鬼みたいな名前は。」
玲奈は少し困ったように笑う。
「昔のあだ名です。」
大城はグラスを置く。
「大型車両の過積載取締りを徹底された。」
「運送業界では有名だったそうですね。」
「さらに県警広報では、美しすぎる警察官として注目され。」
「戦隊ヒロインとしても活躍された。」
玲奈は少しだけ恥ずかしそうに目を伏せる。
「あまり目立つことは得意ではありませんでした。」
「でしょうね。」
大城は穏やかに言う。
「しかし、組織は優秀な人材を放っておかない。」
「高卒採用から若くして警部補まで昇進された。」
「私のようなキャリア組から見ても、尊敬に値します。」
“私のようなキャリア組”。
自然すぎるほど自然に、自分の優秀さを差し込んでくる。
常連のおばあが小声で言う。
「やっぱり県警本部のお偉いさんは言うことが違うさー。」
おじいも頷く。
「でも、ちょっと鼻につくねぇ。」
奈央は笑いをこらえる。
亮介は完全に同意していた。
(鼻につく。めちゃくちゃ鼻につく。)
それでも玲奈は嫌そうではない。
むしろ、大城の話を興味深そうに聞いている。
同じ警察官だった者同士、通じる言葉がある。
階級、現場、広報、組織、職責。
亮介がどう頑張っても入り込めない会話だった。
大城は亮介を見る。
「ウェイターさん。」
亮介の眉がぴくりと動く。
「はい。」
「水をお願いします。」
「……ただいま。」
名前では呼ばない。
毎回、ウェイターさん。
悪意はないように見える。
だが、亮介には十分刺さる。
奈央が小声で言う。
「リョウさん。」
「何。」
「今、顔がすごかったです。」
「どんな?」
「黒糖プリンに塩を入れられたみたいな顔。」
「分かりにくいけど、たぶん当たってる。」
大城は食後のコーヒーを飲みながら、窓の外を見た。
「石垣島は平和ですね。」
「事件がないのは良いことです。」
少しだけ口元を歪める。
「ただ、刑事としては少々退屈です。」
玲奈は静かに答える。
「平和が一番です。」
「もちろんです。」
大城は苦笑する。
「縁起でもないことを言いました。」
「ただ、離島勤務も私のキャリアの一部です。」
「こう毎日何もないと、腕が鈍りそうで。」
常連のおじいが小声で言う。
「お偉いさんは事件がないと退屈なのかねぇ。」
おばあが返す。
「島は平和が一番さー。」
大城はその空気を察しているのかいないのか、玲奈にだけは柔らかい目を向ける。
「ですが、この店に来る時間は退屈しません。」
「玲奈さんのコーヒーは、いつも発見があります。」
「それに、あなたと話すと頭が整理される。」
玲奈は少しだけ微笑んだ。
「それは、こちらこそです。」
その一言で、亮介の胸の中にまた小さな波が立つ。
奈央もそのやり取りを見ていた。
大城警部は確かに嫌味だ。
島を少し見下している。
自分の経歴を自然に差し込む。
でも、玲奈を見る時だけは違う。
その優しさが本物に見えてしまう。
奈央はほんの少し胸が痛くなる。
自分が淡い恋心を抱いている相手は、自分ではなく玲奈しか見ていない。
それでも、目で追ってしまう。
困ったものだと思いながら、奈央は冷めかけたコーヒーを飲んだ。
やがて大城は時計を見る。
「そろそろ戻ります。」
「午後は署内会議です。」
玲奈は立ち上がる。
「お忙しい中、ありがとうございました。」
「いいえ。」
大城は会計を済ませ、最後に玲奈へ言う。
「また近いうちに。」
「次は島野菜サンドをいただきます。」
「お待ちしております。」
玲奈がそう答えると、大城は満足そうに微笑んだ。
店を出る時、亮介にも短く会釈する。
「ごちそうさまでした、ウェイターさん。」
亮介は笑顔で返す。
「ありがとうございました。」
扉が閉まる。
大城の姿が見えなくなる。
途端に亮介は大きく息を吐いた。
「ウェイターさん、ねぇ……。」
奈央が笑う。
「気にしてたんですね。」
「気にしてない。」
「絶対してました。」
常連のおじいも笑う。
「リョウちゃん、県警本部のお偉いさんに負けとるさー。」
おばあも続ける。
「でも、玲奈ちゃんが毎朝くだらん話を聞いてるのはリョウちゃんだけさー。」
玲奈は首をかしげる。
「何の話ですか?」
亮介は慌てて言う。
「何でもありません。」
奈央はその様子を見て笑う。
この三角形は、まだ誰も正面から認めていない。
大城は玲奈にゾッコン。
玲奈は大城の知性と優しさが少し気になっている。
奈央は大城に淡い憧れを抱いている。
そして亮介だけが、はっきり面白くない。
けれど、その面白くなさがあまりにも分かりやすくて、「しおかぜ」の午後は今日もどこか温かい。
潮風が窓辺のモビールを揺らす。
黒糖プリンの甘さの奥に、少しだけ苦いコーヒーの香りが混ざる。
窓際席は、今日も空いたばかりなのに、もう次の来店を待っているようだった。




