エリート警部、非番は「しおかぜ」へ ――黒糖プリンと一杯の珈琲。リョウちゃん、今日は珍しく口数が少ない日
県警の防犯・特殊詐欺防止ポスターが「しおかぜ」の入口に貼られてから、一週間ほどが過ぎていた。
島は今日も穏やかだった。
午後のピークを過ぎた店内には、ゆるやかなジャズが流れ、窓から入る潮風がコーヒーの香りを運んでいる。
いつものように玲奈はカウンターで豆を挽き、亮介はテーブルを拭きながら朝から絶好調だった。
「玲奈さん。」
「はい。」
「この前、おじいが"島のヤギは人の顔を覚える"って言うから、本当かなと思って見に行ったんですよ。」
「はい。」
「そしたら俺を見るなり逃げた。」
玲奈は笑いを堪えながら答える。
「顔を覚えていたんですね。」
「どういう意味?」
「また追い掛け回されると思ったのでしょう。」
「それ、この前のヤギ事件をまだ引っ張ってる?」
「もちろんです。」
「玲奈さん、結構根に持つよね。」
「はい。」
「賞味期限事件も?」
「もちろんです。」
亮介は肩を落とす。
「まだ許されてないのか……。」
玲奈は少しだけ笑う。
「半分くらいです。」
その笑顔を見て、亮介もつられて笑う。
こんな他愛もない会話が、二人の日常だった。
そこへ店のドアベルが静かに鳴る。
「こんにちは。」
現れたのは、大城誠司だった。
今日は警察官の制服でもスーツでもない。
淡いブルーのシャツにベージュのジャケットという私服姿。
休日とは思えないほどきちんとした身なりだった。
玲奈はすぐに気付く。
「あ……。」
「大城警部。」
大城は柔らかく微笑む。
「今日は警部ではありません。」
「ただのコーヒー好きです。」
玲奈も自然に微笑んだ。
「いらっしゃいませ。」
「お待ちしておりました。」
その一言だけで、大城の胸は高鳴る。
(覚えていてくださった。)
(それだけで今日は来た甲斐があった。)
亮介は雑巾を持ったまま固まる。
(来た。)
(本当に来た。)
(しかも私服だ。)
奈央はカウンター席で本を閉じ、小さく微笑む。
(今日は面白くなりそう。)
大城は窓際の席へ腰掛ける。
「本日のおすすめを。」
玲奈は迷わず答えた。
「自家焙煎ブレンドと黒糖プリンです。」
「では、それを。」
玲奈はいつもより少しだけ丁寧にドリップを始める。
その姿を、大城は静かに見つめていた。
豆を蒸らす時間。
お湯を注ぐ角度。
カップを温める所作。
どれも美しく、見ていて飽きない。
(この人は、本当に仕事が美しい。)
玲奈がコーヒーを運ぶ。
「お待たせしました。」
大城は一口飲み、静かに目を閉じる。
「……素晴らしい。」
「ありがとうございます。」
「この一杯だけで非番が報われます。」
玲奈は少し照れたように笑った。
「そこまで言っていただけると嬉しいです。」
亮介は遠くから見ている。
(褒めるの上手いな……。)
(俺なんか『うまい!』しか言わない。)
続いて黒糖プリン。
大城はゆっくり味わう。
「黒糖の香りが柔らかい。」
「後味も上品です。」
「島の景色まで一緒に食べているようですね。」
玲奈は嬉しそうに頷く。
「その言葉、とても嬉しいです。」
亮介の心に、小さな波が立つ。
(玲奈さん……。)
(そんなに楽しそうに笑うんだ。)
大城は自然な流れで話題を広げる。
「休日は、雑貨作りを?」
「はい。」
「読書も好きです。」
「何をお読みになりますか。」
「歴史や建築、それから古い映画も。」
「私も歴史は好きです。」
そこから二人の会話はどんどん広がる。
古民家保存。
琉球王国の石積み。
神戸の洋館。
歴史ある建築物。
古典映画。
亮介には半分くらいしか分からない。
「……。」
「……。」
普段なら真っ先に話へ飛び込む亮介が、今日は妙に静かだった。
玲奈がふと振り向く。
「亮介さん。」
「はい?」
「どうしました?」
「今日は静かですね。」
「いや。」
「二人とも難しい話してるから。」
奈央がクスクス笑う。
「リョウさん。」
「何?」
「焼きもちですか?」
「違う。」
「違います?」
「違う。」
「顔に書いてあります。」
亮介は小声で返す。
「だってさ。」
「何です?」
「あの警部、何でも知ってるし。」
「背も高いし。」
「イケメンだし。」
「コーヒー飲む姿まで絵になるじゃん。」
奈央は思わず笑った。
「確かに。」
「認めるんだ。」
「認めます。」
奈央もそっと大城を見る。
落ち着いた話し方。
知的な雰囲気。
自然な気遣い。
(素敵な人だな。)
そんなことを思ってしまう。
しかし、その視線の先には、玲奈しか見えていない大城がいた。
玲奈が笑うたびに、大城も穏やかに笑う。
その空気を見て、亮介はますます落ち着かない。
「玲奈さん。」
「はい。」
「豆なくなりそう。」
玲奈は棚を見る。
「まだあります。」
「……そうだった。」
数分後。
「玲奈さん。」
「はい。」
「氷足りる?」
「十分あります。」
「……。」
奈央は肩を震わせる。
「リョウさん。」
「何。」
「話を止めようとしてます?」
「そんなことない。」
「分かりやすすぎます。」
玲奈は首をかしげる。
「今日はよく話しかけますね。」
亮介は苦笑い。
「たまたま。」
「そうですか。」
玲奈は気付いていない。
大城は気付いている。
奈央は面白くて仕方がない。
店の空気は、どこかおかしかった。
やがて夕方が近づく。
大城は時計を見て立ち上がる。
「長居をしてしまいました。」
「いえ。」
玲奈は微笑む。
「ゆっくりしていただけて良かったです。」
大城は静かに頭を下げる。
「本当に素敵なお店です。」
「雰囲気も。」
「コーヒーも。」
「黒糖プリンも。」
少し間を置き、玲奈を見つめる。
「そして、店主さんも。」
玲奈は一瞬だけ照れたように目を伏せる。
「ありがとうございます。」
大城は穏やかな笑顔で続ける。
「もしご迷惑でなければ。」
「次の非番にも寄らせてください。」
「もちろんです。」
玲奈は自然に答えた。
「いつでもお待ちしております。」
その返事だけで、大城の表情が少し明るくなる。
店を出る前、亮介にも軽く会釈する。
「今日はありがとうございました。」
「また伺います。」
「どうぞ。」
亮介も笑顔で返す。
笑顔だった。
笑顔ではあった。
ただ、その笑顔は少し引きつっていた。
ドアが閉まり、大城の姿が見えなくなる。
しばらく沈黙。
最初に口を開いたのは奈央だった。
「リョウさん。」
「何。」
「今日、一番静かでしたね。」
「そう?」
「しおかぜ始まって以来かもしれません。」
玲奈も不思議そうに言う。
「本当に珍しかったですね。」
亮介はため息をついた。
「俺だって、静かな日くらいあるよ。」
奈央は笑いながら首を振る。
「でも。」
「私は今日のリョウさん、ちょっと面白かったです。」
「ひどい。」
玲奈は事情が分からないまま、小さく笑う。
「また皆さんでゆっくりお話ししましょう。」
その一言に、亮介だけが心の中で思う。
("皆さん"じゃなくて……。)
(俺の玲奈さんなんだけどな。)
もちろん、その言葉は口には出さない。
出せるはずもない。
潮風は相変わらず穏やかに吹いていた。
だが「しおかぜ」の片隅では、黒糖プリンより少しだけ甘く、コーヒーより少しだけ苦い、小さな焼きもちが静かに湯気を立て始めていた。




