潮風より静かな敬礼 ――警部が貼りに来た防犯ポスター。「しおかぜ」に、少しだけ風向きが変わる日
南ぬ島の朝は、今日ものんびりしている。
開店前の「しおかぜ」には、コーヒー豆を挽く音と、いつものおしゃべりが流れていた。
「玲奈さん。」
「はい。」
「昨日さ、おじいが『昨日はカジキが二メートルあった』って言うから、『本当ですか?』って聞いたら、『心の中では』だって。」
「はい。」
「どういう意味だと思う?」
玲奈はコーヒーを丁寧にドリップしながら、小さく笑う。
「夢の中でしょうか。」
「いや、それが本人にも分からないらしい。」
亮介は一人で大笑いしている。
「あと昨日パチンコでね。」
玲奈は顔も上げずに答える。
「負けたんですね。」
「違う。」
「勝ちました。」
「珍しいですね。」
「もっと驚いて。」
「おめでとうございます。」
「反応が薄い!」
玲奈は苦笑する。
「毎朝同じ話ですから。」
「飽きた?」
「少し。」
「ひどい。」
亮介は肩を落とす。
すると玲奈は少しだけ表情を和らげる。
「でも。」
「はい?」
「こういう話がないと、朝が始まった気がしません。」
亮介は嬉しそうに笑った。
「それ、好きってこと?」
「くだらない話が、です。」
「俺じゃないの?」
「半分くらいです。」
そんなやり取りを見ていた常連のおばあは笑う。
「朝から夫婦みたいさー。」
玲奈は耳を少し赤くしながら、
「違います。」
と小さく否定する。
亮介は嬉しそうに笑うだけだった。
この何気ない朝が、玲奈は嫌いではなかった。
いや、本当は好きだった。
亮介のどうでもいい話に「はいはい」と返す時間が、いつの間にか一日の始まりになっていた。
昼前。
亮介は市場へ仕入れに向かう。
「牛乳!」
「はい。」
「卵!」
「はい。」
「島野菜!」
「はい。」
「あと俺のおやつ!」
「不要です。」
「えー。」
笑いながら店を飛び出していく。
玲奈はその背中を見送り、小さく笑う。
「いってらっしゃい。」
店内は静けさを取り戻した。
潮風が窓を揺らし、ジャズが流れる。
その時、一台の覆面セダンが「しおかぜ」の前へ静かに止まった。
降りてきたのは二人の警察官。
先頭に立つ男は背が高く、色黒で整った顔立ち。
仕立ての良いスーツを着こなし、歩き方まで隙がない。
八重山警察署刑事課警部。
大城誠司。
那覇市出身。
県警本部勤務を歴任した将来の幹部候補。
自信家でニヒル。
離島勤務も「経験の一つ」と考えている、生粋のエリートだった。
店へ入る直前、部下が笑う。
「警部。」
「何だ。」
「この店、料理も人気ですけど。」
「店主さんが有名なんです。」
「女優さんみたいな美人だって。」
大城は軽く笑う。
「また島の大げさな評判だろう。」
「いえ。」
部下は断言する。
「今回は本当です。」
ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。」
玲奈が顔を上げた。
その瞬間。
大城の時間だけが、一瞬止まる。
白いブラウスに淡い色のエプロン。
光を受ける透明感のある肌。
飾らないのに目を奪われる美しさ。
派手ではない。
それなのに、店全体が彼女を中心に穏やかな光をまとっているようだった。
大城は思わず心の中で呟く。
(……美しい。)
(部下の話以上だ。)
(こんな女性が、本当に石垣島にいるのか。)
刑事として数え切れないほどの人間を見てきた。
冷静さには自信があった。
それなのに。
目の前の女性から視線を外せない。
部下が小さく笑う。
「だから申し上げたでしょう。」
大城はようやく我に返る。
「失礼しました。」
警察手帳を見せる。
「八重山警察署刑事課の大城誠司です。」
「県警で作成しました特殊詐欺防止、防犯啓発ポスターの掲示をお願いしたく参りました。」
玲奈は穏やかに微笑む。
「もちろんです。」
「観光客も多い店ですから、お役に立てるなら。」
その笑顔を見た瞬間、大城はもう一度思う。
(……笑顔まで美しい。)
店内へ入り、壁に並ぶ雑貨へ目を向ける。
木工。
刺繍。
リース。
布小物。
どれも温かみがあり、手仕事とは思えない完成度だった。
「これらは?」
「私が作っています。」
「趣味ですが。」
大城は一つ一つ丁寧に眺める。
「趣味、ですか。」
「実に美しい。」
「色彩の使い方も、構図も上品です。」
「作り手のお人柄が、そのまま作品に表れています。」
玲奈は少し照れながら微笑む。
「ありがとうございます。」
建築。
伝統工芸。
歴史。
文化財。
話題は自然と広がっていく。
玲奈も珍しく楽しそうだった。
部下は二人を見比べる。
(警部……。)
(完全に一目惚れだ。)
普段の大城なら、こんなに穏やかな笑顔は見せない。
玲奈の話には、どんな話題でも耳を傾けていた。
ポスターを貼り終えた大城は言う。
「店主さん。」
「はい。」
「人気店です。」
「何か危険なことがあれば。」
少し柔らかい声になる。
「私がすぐ駆け付けます。」
玲奈は少し驚きながらも頭を下げた。
「ありがとうございます。」
すると常連のおばあが笑いながら言う。
「警部さん。」
「玲奈ちゃんは心配いらんさー。」
「元兵庫県警の警部補だったんだから。」
大城は驚く。
「……警部補?」
玲奈は少し照れながら頷いた。
「以前ですが。」
「兵庫県警で勤務していました。」
次の瞬間。
大城は姿勢を正し、右手を額へ。
「失礼いたしました。」
「警部補殿。」
きびしい敬礼だった。
店内は一瞬静まり返り、
次の瞬間、おばあが声を上げて笑う。
「玲奈ちゃんが敬礼されてるさー!」
玲奈は慌てる。
「もう退職しておりますので……。」
「どうか普通に。」
大城は首を振る。
「階級ではありません。」
「職責を全うされた方への敬意です。」
玲奈は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に、大城はまた胸が高鳴る。
(やはり。)
(この人は特別だ。)
その時、ドアが勢いよく開いた。
「ただいまー!」
市場から戻った亮介だった。
大きな発泡スチロール箱を抱え、
島野菜。
牛乳。
卵。
果物。
両腕いっぱいの荷物を抱えている。
「重かったー!」
玲奈が振り返る。
「お帰りなさい。」
「ありがとうございます。」
荷物を受け取ろうとする玲奈。
その自然なやり取りを、大城は静かに見つめていた。
玲奈が紹介する。
「こちら、八重山警察署の大城警部です。」
亮介は笑顔で頭を下げる。
「初めまして。」
「いつも玲奈さんがお世話になってます。」
玲奈は少し困る。
「お世話はされていません。」
大城も穏やかに会釈した。
「初めまして。」
「本日は防犯啓発のお願いに伺いました。」
短い挨拶だった。
しかし大城の視線は、自然と玲奈へ向いてしまう。
帰り際。
ドアの前で一度振り返る。
「本日はありがとうございました。」
「今度は。」
少しだけ笑う。
「非番の日に、一人の客として伺います。」
「ご自慢のコーヒーと。」
「黒糖プリンを、ぜひいただきたい。」
玲奈は静かに微笑む。
「ありがとうございます。」
「お待ちしております。」
店を出た大城は、車へ乗り込む。
部下がニヤニヤしながら聞く。
「警部。」
「どうでした?」
大城は窓の外、「しおかぜ」の看板を見つめる。
「……。」
少し間を置いて、小さく呟いた。
「また来よう。」
その声は、防犯ポスターを貼りに来た警察官のものというより、一人の男の独り言だった。
一方、店内では亮介が発泡スチロール箱を片付けながら尋ねる。
「玲奈さん。」
「はい。」
「警察の人、いい人だった?」
玲奈は少し考えて答える。
「ええ。」
「とても礼儀正しい方でした。」
亮介は何気なく頷く。
「そっか。」
まだ気付いていない。
この日、「しおかぜ」の扉を開いたエリート警部が、自分の穏やかな毎日に、小さな波紋を広げ始めたことを。
潮風はいつもと変わらず静かだった。
けれど、その風向きだけが、ほんの少しだけ変わり始めていた。




