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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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潮風より静かな敬礼 ――警部が貼りに来た防犯ポスター。「しおかぜ」に、少しだけ風向きが変わる日

南ぬ島の朝は、今日ものんびりしている。


開店前の「しおかぜ」には、コーヒー豆を挽く音と、いつものおしゃべりが流れていた。


「玲奈さん。」


「はい。」


「昨日さ、おじいが『昨日はカジキが二メートルあった』って言うから、『本当ですか?』って聞いたら、『心の中では』だって。」


「はい。」


「どういう意味だと思う?」


玲奈はコーヒーを丁寧にドリップしながら、小さく笑う。


「夢の中でしょうか。」


「いや、それが本人にも分からないらしい。」


亮介は一人で大笑いしている。


「あと昨日パチンコでね。」


玲奈は顔も上げずに答える。


「負けたんですね。」


「違う。」


「勝ちました。」


「珍しいですね。」


「もっと驚いて。」


「おめでとうございます。」


「反応が薄い!」


玲奈は苦笑する。


「毎朝同じ話ですから。」


「飽きた?」


「少し。」


「ひどい。」


亮介は肩を落とす。


すると玲奈は少しだけ表情を和らげる。


「でも。」


「はい?」


「こういう話がないと、朝が始まった気がしません。」


亮介は嬉しそうに笑った。


「それ、好きってこと?」


「くだらない話が、です。」


「俺じゃないの?」


「半分くらいです。」


そんなやり取りを見ていた常連のおばあは笑う。


「朝から夫婦みたいさー。」


玲奈は耳を少し赤くしながら、


「違います。」


と小さく否定する。


亮介は嬉しそうに笑うだけだった。


この何気ない朝が、玲奈は嫌いではなかった。


いや、本当は好きだった。


亮介のどうでもいい話に「はいはい」と返す時間が、いつの間にか一日の始まりになっていた。


昼前。


亮介は市場へ仕入れに向かう。


「牛乳!」


「はい。」


「卵!」


「はい。」


「島野菜!」


「はい。」


「あと俺のおやつ!」


「不要です。」


「えー。」


笑いながら店を飛び出していく。


玲奈はその背中を見送り、小さく笑う。


「いってらっしゃい。」


店内は静けさを取り戻した。


潮風が窓を揺らし、ジャズが流れる。


その時、一台の覆面セダンが「しおかぜ」の前へ静かに止まった。


降りてきたのは二人の警察官。


先頭に立つ男は背が高く、色黒で整った顔立ち。


仕立ての良いスーツを着こなし、歩き方まで隙がない。


八重山警察署刑事課警部。


大城誠司。


那覇市出身。


県警本部勤務を歴任した将来の幹部候補。


自信家でニヒル。


離島勤務も「経験の一つ」と考えている、生粋のエリートだった。


店へ入る直前、部下が笑う。


「警部。」


「何だ。」


「この店、料理も人気ですけど。」


「店主さんが有名なんです。」


「女優さんみたいな美人だって。」


大城は軽く笑う。


「また島の大げさな評判だろう。」


「いえ。」


部下は断言する。


「今回は本当です。」


ドアベルが鳴る。


「いらっしゃいませ。」


玲奈が顔を上げた。


その瞬間。


大城の時間だけが、一瞬止まる。


白いブラウスに淡い色のエプロン。


光を受ける透明感のある肌。


飾らないのに目を奪われる美しさ。


派手ではない。


それなのに、店全体が彼女を中心に穏やかな光をまとっているようだった。


大城は思わず心の中で呟く。


(……美しい。)


(部下の話以上だ。)


(こんな女性が、本当に石垣島にいるのか。)


刑事として数え切れないほどの人間を見てきた。


冷静さには自信があった。


それなのに。


目の前の女性から視線を外せない。


部下が小さく笑う。


「だから申し上げたでしょう。」


大城はようやく我に返る。


「失礼しました。」


警察手帳を見せる。


「八重山警察署刑事課の大城誠司です。」


「県警で作成しました特殊詐欺防止、防犯啓発ポスターの掲示をお願いしたく参りました。」


玲奈は穏やかに微笑む。


「もちろんです。」


「観光客も多い店ですから、お役に立てるなら。」


その笑顔を見た瞬間、大城はもう一度思う。


(……笑顔まで美しい。)


店内へ入り、壁に並ぶ雑貨へ目を向ける。


木工。


刺繍。


リース。


布小物。


どれも温かみがあり、手仕事とは思えない完成度だった。


「これらは?」


「私が作っています。」


「趣味ですが。」


大城は一つ一つ丁寧に眺める。


「趣味、ですか。」


「実に美しい。」


「色彩の使い方も、構図も上品です。」


「作り手のお人柄が、そのまま作品に表れています。」


玲奈は少し照れながら微笑む。


「ありがとうございます。」


建築。


伝統工芸。


歴史。


文化財。


話題は自然と広がっていく。


玲奈も珍しく楽しそうだった。


部下は二人を見比べる。


(警部……。)


(完全に一目惚れだ。)


普段の大城なら、こんなに穏やかな笑顔は見せない。


玲奈の話には、どんな話題でも耳を傾けていた。


ポスターを貼り終えた大城は言う。


「店主さん。」


「はい。」


「人気店です。」


「何か危険なことがあれば。」


少し柔らかい声になる。


「私がすぐ駆け付けます。」


玲奈は少し驚きながらも頭を下げた。


「ありがとうございます。」


すると常連のおばあが笑いながら言う。


「警部さん。」


「玲奈ちゃんは心配いらんさー。」


「元兵庫県警の警部補だったんだから。」


大城は驚く。


「……警部補?」


玲奈は少し照れながら頷いた。


「以前ですが。」


「兵庫県警で勤務していました。」


次の瞬間。


大城は姿勢を正し、右手を額へ。


「失礼いたしました。」


「警部補殿。」


きびしい敬礼だった。


店内は一瞬静まり返り、


次の瞬間、おばあが声を上げて笑う。


「玲奈ちゃんが敬礼されてるさー!」


玲奈は慌てる。


「もう退職しておりますので……。」


「どうか普通に。」


大城は首を振る。


「階級ではありません。」


「職責を全うされた方への敬意です。」


玲奈は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


その笑顔に、大城はまた胸が高鳴る。


(やはり。)


(この人は特別だ。)


その時、ドアが勢いよく開いた。


「ただいまー!」


市場から戻った亮介だった。


大きな発泡スチロール箱を抱え、


島野菜。


牛乳。


卵。


果物。


両腕いっぱいの荷物を抱えている。


「重かったー!」


玲奈が振り返る。


「お帰りなさい。」


「ありがとうございます。」


荷物を受け取ろうとする玲奈。


その自然なやり取りを、大城は静かに見つめていた。


玲奈が紹介する。


「こちら、八重山警察署の大城警部です。」


亮介は笑顔で頭を下げる。


「初めまして。」


「いつも玲奈さんがお世話になってます。」


玲奈は少し困る。


「お世話はされていません。」


大城も穏やかに会釈した。


「初めまして。」


「本日は防犯啓発のお願いに伺いました。」


短い挨拶だった。


しかし大城の視線は、自然と玲奈へ向いてしまう。


帰り際。


ドアの前で一度振り返る。


「本日はありがとうございました。」


「今度は。」


少しだけ笑う。


「非番の日に、一人の客として伺います。」


「ご自慢のコーヒーと。」


「黒糖プリンを、ぜひいただきたい。」


玲奈は静かに微笑む。


「ありがとうございます。」


「お待ちしております。」


店を出た大城は、車へ乗り込む。


部下がニヤニヤしながら聞く。


「警部。」


「どうでした?」


大城は窓の外、「しおかぜ」の看板を見つめる。


「……。」


少し間を置いて、小さく呟いた。


「また来よう。」


その声は、防犯ポスターを貼りに来た警察官のものというより、一人の男の独り言だった。


一方、店内では亮介が発泡スチロール箱を片付けながら尋ねる。


「玲奈さん。」


「はい。」


「警察の人、いい人だった?」


玲奈は少し考えて答える。


「ええ。」


「とても礼儀正しい方でした。」


亮介は何気なく頷く。


「そっか。」


まだ気付いていない。


この日、「しおかぜ」の扉を開いたエリート警部が、自分の穏やかな毎日に、小さな波紋を広げ始めたことを。


潮風はいつもと変わらず静かだった。


けれど、その風向きだけが、ほんの少しだけ変わり始めていた。

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