大さじと小さじの恋愛戦争 ――小さじ一杯の逆襲。玲奈店主、賞味期限事件の仕返しを決行する
「しおかぜ」は、今日も平和だった。
ただし、それは客席から見た場合である。
カウンターの奥では、玲奈が静かに燃えていた。
数日前のことだ。
玲奈は冷蔵庫の賞味期限を一日勘違いし、亮介の楽しみにしていたチーズを処分しかけた。
完璧主義で、ほぼミスをしない玲奈にとって、それだけでも十分に屈辱だった。
さらに悪いことに、亮介がそれを面白がった。
「元警部補、賞味期限を誤認!」
「これはしおかぜ史上初!」
「証拠保全します?」
「ごめんなさい、もう一回言ってください。録音しますから」
あれから数日。
玲奈は表向き、いつも通りだった。
珈琲を淹れ、黒糖プリンを仕込み、島野菜サンドを作る。
けれど内心では、ずっと思っていた。
(いつか、やり返します)
かなり次元は低い。
しかし玲奈は本気だった。
元警部補の観察眼で、亮介の小さなミスを虎視眈々と狙っていた。
パチンコの景品を置き忘れないか。
洗ったグラスを棚へ戻し間違えないか。
黒板メニューの字を書き間違えないか。
亮介は何も知らず、のんきに鼻歌を歌っていた。
「玲奈さん、今日も平和ですね」
「そうですね」
「なんか声が冷たい」
「気のせいです」
そして、その時は来た。
午後の営業が一段落した頃、玲奈は新しい島野菜ドレッシングの試作をすることにした。
「亮介さん」
「はい」
「手伝ってください」
「任せてください。俺、料理の腕も上がってきましたから」
奈央はカウンター席でアイスコーヒーを飲みながら、そのやり取りを見ていた。
最近の奈央にとって、「しおかぜ」はただのカフェではない。
人生相談所であり、手芸部であり、方言講座であり、時々ラブコメ劇場でもある。
今日はどうやら、後者らしい。
玲奈はレシピを亮介に渡した。
「この通りにお願いします」
「はいはい」
亮介は張り切って材料を並べる。
酢。
島レモン。
オリーブオイル。
塩。
砂糖。
レシピには、はっきり書いてあった。
砂糖 大さじ一杯。
亮介は引き出しから計量スプーンを取り出した。
迷いなく砂糖をすくう。
玲奈は横で見ていた。
何も言わない。
奈央も見ていた。
何かが起きる気がして、もう本を読むふりもできなかった。
亮介は混ぜる。
「できました」
味見する。
「あれ?」
もう一口。
「なんか薄い」
玲奈は静かにレシピを閉じた。
そして引き出しから、二本の計量スプーンを取り出す。
大きい方。
小さい方。
それをカウンターの上に、まるで証拠品のように並べた。
「亮介さん」
「はい」
「こちらをご覧ください」
亮介の顔から笑みが消える。
「これは」
玲奈が小さい方を指す。
「小さじです」
「……」
次に大きい方を指す。
「こちらが大さじです」
奈央が耐えきれず吹き出した。
「リョウさん、間違えたんですか?」
亮介は小さじを見つめる。
「……小さかった?」
玲奈はすました顔で頷く。
「はい」
「だいぶ?」
「三倍違います」
その瞬間、玲奈の反撃が始まった。
「賞味期限は一日違いでした」
「はい」
「こちらは三倍違います」
「はい……」
「一日と三倍」
「はい」
「どちらが重大でしょうか」
亮介は苦笑いした。
「玲奈さん、そこまで言わなくても」
玲奈は首を横に振る。
「ダメです」
奈央はもう笑いが止まらない。
「玲奈さん、絶対まだ根に持ってますよね」
玲奈は少しだけ口元を緩めた。
「根に持っていません」
「持ってます」
亮介も言う。
「完全に持ってる」
玲奈は淡々と続ける。
「料理において計量は基本です」
「はい」
「元敏腕詐欺師なら、数字には強いと思っていました」
「そこで元詐欺師を出すのやめて」
「しかし、小さじと大さじを誤認」
「誤認って言い方」
「確認不足です」
「はい……」
「反省してください」
亮介は両手を上げた。
「反省します」
しかし玲奈の攻撃は終わらない。
その後も、ことあるごとにからかう。
「亮介さん、珈琲豆は大さじでは量りません」
「分かってる」
「砂糖は小さじですか、大さじですか」
「もう覚えた」
「本当に?」
「本当」
「テストしますか」
「勘弁してください」
奈央は腹を抱えて笑っていた。
「二人とも、完全に小学生です」
亮介が言う。
「奈央ちゃん、助けて」
奈央は首を振る。
「今日は玲奈さんの味方です。前回からかわれて悔しかったんですよね」
玲奈は少しだけ頬を赤くした。
「……それはあります」
「認めた」
亮介は笑った。
「玲奈さん、可愛いなあ」
玲奈はすぐに言う。
「褒めても減点は消えません」
「減点制なの?」
「はい」
「今、何点?」
「小さじ三杯分です」
「単位が分からない」
そのやり取りを見て、奈央はふと思った。
羨ましい。
子どもみたいな言い合いなのに、ちゃんと温かい。
お互いに遠慮がない。
でも、傷つけるためではない。
笑うために言い合っている。
元被害者の玲奈と、元加害者の亮介。
優秀な警察官だった女性と、敏腕詐欺師だった男。
普通なら、こんな穏やかな場所で一緒にドレッシングを作っているはずがない二人。
それなのに今は、大さじと小さじで喧嘩している。
なんて平和で、なんて贅沢なのだろう。
閉店後。
店内に残ったのは、玲奈と亮介と奈央だけだった。
奈央は帰るタイミングを逃したふりをして、二人のやり取りをもう少し見ていた。
亮介がカウンターを拭きながら言う。
「玲奈さん」
「はい」
「今日は楽しそうでしたね」
玲奈は少し間を置く。
「少しだけ」
「俺をからかって?」
「はい」
「ひどい」
「前回の仕返しです」
「やっぱり」
玲奈は布巾を畳みながら、少しだけ柔らかく笑った。
「でも、これでおあいこです」
「本当に?」
「はい」
「もう賞味期限の話しても怒らない?」
玲奈は亮介を見る。
「その場合は、次の小さじ事件を思い出していただきます」
「セット販売だ」
奈央が笑った。
「もう二人の記念日ですね。賞味期限記念日と小さじ記念日」
亮介は苦笑する。
「嫌な記念日だなあ」
玲奈は涼しい顔で言う。
「忘れにくくて良いと思います」
亮介は降参したように笑った。
「じゃあ、今日のドレッシングは?」
玲奈は試作品をもう一度味見する。
「薄いです」
「やっぱり」
「でも」
「はい」
「直せます」
玲奈は正しい大さじで砂糖を加え、島レモンを少し足し、オリーブオイルを整える。
味がまとまる。
奈央が試食する。
「あ、美味しい」
亮介も食べる。
「うまい」
玲奈は静かに頷く。
「失敗は修正できます」
亮介はその言葉を聞いて、少しだけ真面目な顔になる。
玲奈は続けた。
「賞味期限も」
「小さじも」
「人生も」
それを聞いて、亮介は一瞬黙った。
でも玲奈はすぐに、いつもの調子へ戻る。
「ただし、次からは確認してください」
「はい」
「小さじと大さじ」
「はい」
「三倍違いますから」
「まだ言う!」
奈央はまた笑った。
この店が繁盛する理由が、少し分かった気がした。
黒糖プリンが美味しいから。
島野菜サンドが優しい味だから。
海が見えるから。
それもある。
でも本当は、この空気なのだ。
完璧すぎる玲奈が、時々子どもみたいに悔しがる。
お調子者の亮介が、からかわれても嬉しそうに笑う。
その横で奈央が、少し羨ましくなるほど温かい時間を見届ける。
「しおかぜ」は、今日も小さな失敗を笑いに変えていた。
大さじと小さじの違いくらいで、こんなに賑やかになる店は、きっとこの島でもここだけだ。
帰り際、奈央は言った。
「また来ます」
亮介が笑う。
「次は何事件かな」
玲奈はすました顔で答える。
「事件は起こさないのが一番です」
奈央は吹き出す。
「でも、少しだけ起きた方が楽しいです」
玲奈は困ったように笑い、亮介は大きく頷いた。
潮風が店先の風鈴を鳴らす。
小さじ一杯の逆襲は、無事に終結した。
けれど「しおかぜ」の夜には、三人の笑い声がまだしばらく、甘く残っていた。




