潮風に浮かぶ虹色の午後 ――元警部補、シャボン玉職人に敗れる。店主の本気が、島を少しだけメルヘンにした日
雨上がりの南ぬ島は、不思議なくらい空が近い。
潮風が海の匂いを運び、青空には真っ白な雲がゆっくり流れている。
午後の「しおかぜ」は、いつものように穏やかな時間が流れていた。
店先に植えられたハイビスカスは雨粒をまとい、窓辺では玲奈の手作りモビールが風に揺れている。
「いらっしゃいませ。」
ドアベルとともに入ってきたのは、本土から旅行に来た若い夫婦と、五歳くらいのお姉ちゃん、三歳くらいの妹。
どこから見ても幸せそうな家族だった。
島野菜サンドと黒糖プリンを注文し、食後になると、お父さんがバッグから小さなシャボン玉セットを取り出した。
「ほら、遊んでおいで。」
「やったー!」
姉妹は店のテラスへ飛び出す。
潮風に乗って、小さなシャボン玉が空へ舞い上がる。
虹色に輝きながら、ふわふわと海の方へ流れていく。
その様子を見ていた亮介は思わず笑った。
「懐かしいなあ。」
お姉ちゃんが振り返る。
「お兄ちゃんもやる?」
「もちろん!」
亮介は店のエプロンを外し、しゃがみ込む。
ゆっくり息を吹く。
ふわり。
大きなシャボン玉が生まれた。
さらにもう一つ。
もう一つ。
風向きを読むのが妙にうまい。
シャボン玉は割れることなく、ゆっくり空へ昇っていく。
「わぁー!」
「おっきい!」
姉妹は飛び跳ねて大喜び。
亮介も子どもに戻ったような笑顔だった。
「コツはね。」
「風に逆らわないこと。」
「焦らないこと。」
「人生も同じ。」
玲奈は厨房から聞こえてくるその台詞に小さくため息をつく。
「最後だけ余計です。」
亮介は笑う。
「聞こえてた?」
「全部。」
そのやり取りに家族も笑った。
そこへ、いつものようにコーヒーを飲みに来ていた奈央がテラスへ出てくる。
「今日は賑やかですね。」
姉妹はすぐに奈央へシャボン玉を差し出した。
「お姉ちゃんも!」
「私?」
奈央は少し照れながら受け取る。
保育士として毎日のように子どもたちと遊んでいる奈央は、さすがに慣れていた。
ゆっくり息を吹く。
大きなシャボン玉。
小さなシャボン玉。
連なって飛ぶシャボン玉。
次々と空へ舞い上がる。
姉妹は歓声を上げる。
「先生だ!」
「すごーい!」
奈央は照れ笑いした。
「先生なんです。」
亮介が肩をすくめる。
「本職には勝てないな。」
そんな笑い声が厨房まで届く。
玲奈はコーヒーカップを棚へ戻しながら、そっと店先を覗いた。
そこには、
亮介。
奈央。
姉妹。
みんなが笑っていた。
その空気があまりにも柔らかくて、玲奈も自然と外へ出る。
「私も少しだけ。」
姉妹はすぐに駆け寄る。
「玲奈お姉ちゃん!」
「一緒にやろ!」
亮介は、待っていましたと言わんばかりにニヤリと笑う。
「玲奈さん。」
「はい。」
「シャボン玉なんて息を吹くだけですよ?」
「手先が器用なんだから簡単ですよね?」
奈央は空を見上げる。
(今日も始まった……。)
玲奈は静かに受け取る。
「もちろんです。」
最初の一吹き。
パン。
膜が割れた。
亮介は肩を震わせる。
二回目。
小さなシャボン玉が二つ。
三回目。
勢いが強すぎて全部弾ける。
姉妹は不思議そう。
「玲奈お姉ちゃん?」
「難しい?」
玲奈は真剣だった。
「少々。」
亮介が笑う。
「少々?」
「かなり?」
「少々です。」
奈央が優しく教える。
「もっと力を抜いて。」
「息を細く。」
玲奈は深く頷く。
「なるほど。」
そこからだった。
玲奈は完全に研究モードへ入る。
「風速。」
「湿度。」
「吹く角度。」
「息の量。」
亮介は苦笑する。
「分析始まった。」
奈央も笑う。
「玲奈さんらしいですね。」
何度も挑戦する。
しかし、大きなシャボン玉では亮介に及ばない。
亮介は得意げだ。
「どうです?」
「まだまだですね。」
玲奈は少しだけ悔しそうだった。
そして突然、表情が変わる。
「分かりました。」
「勝負を変えます。」
「え?」
玲奈は静かに息を整える。
ゆっくり。
一定に。
優しく。
ふわり。
小さなシャボン玉が生まれる。
さらに。
また一つ。
また一つ。
十。
二十。
三十。
四十。
細かな虹色のシャボン玉が潮風に乗って、店の前いっぱいへ広がった。
空一面が虹色に染まる。
ハイビスカスの上を流れ、
モビールの間を抜け、
テラスを包み込み、
海へ向かってゆっくり飛んでいく。
「わぁーーーー!」
姉妹は歓声を上げる。
二人はシャボン玉を追いかけ、笑いながら走り回る。
亮介も思わず見とれた。
「負けた。」
奈央も拍手する。
「すごく綺麗。」
玲奈はすました顔。
「数なら勝てました。」
亮介は吹き出す。
「そこ勝負?」
「勝負です。」
「玲奈さんらしい。」
その後は勝負ではなくなった。
亮介も。
玲奈も。
奈央も。
姉妹も。
みんなでシャボン玉を飛ばした。
亮介は大きなシャボン玉。
奈央は形の揃ったシャボン玉。
玲奈は虹色の小さなシャボン玉。
姉妹は夢中で追いかける。
潮風が運び、
太陽が照らし、
「しおかぜ」の前だけが絵本の中のような景色になっていた。
通りがかった島のおばあも立ち止まる。
「まあ。」
「今日はお祭りかい?」
近所の子どもたちまで集まってきて、
「入れて!」
「僕も!」
いつの間にか、小さなシャボン玉大会になっていた。
玲奈も笑っていた。
いつもの控えめな笑顔ではない。
童心に帰ったような、柔らかな笑顔だった。
亮介はその横顔を見て思う。
(やっぱり、この人が笑うといいな。)
営業中の店主ではない。
元警部補でもない。
ただ一人の女性として笑っている玲奈が、何より好きだった。
夕方。
家族が帰る時間になる。
姉妹は何度も振り返って手を振る。
「また来るね!」
「玲奈お姉ちゃん!」
「リョウお兄ちゃん!」
「奈央先生!」
若いお父さんが笑顔で頭を下げた。
「ありがとうございました。」
「カフェに来たつもりだったんですが。」
少し照れながら続ける。
「家族みんなで遊んでしまいました。」
お母さんも優しく笑う。
「本当に楽しいお店ですね。」
「旅行でいろいろなお店へ行きましたけど、一番思い出に残りそうです。」
その言葉に、玲奈は少し驚いた。
そして静かに微笑む。
「ありがとうございます。」
亮介も嬉しそうだった。
「また島へ来たら寄ってください。」
奈央も深くお辞儀する。
「お待ちしています。」
家族が見えなくなっても、三人はしばらく店先に立っていた。
最後のシャボン玉が潮風に乗って海へ消えていく。
亮介がぽつりと言う。
「いい午後だったね。」
奈央も頷く。
「保育園とはまた違う楽しさでした。」
玲奈は空を見上げた。
虹色はもう消えていた。
それでも心の中には、まだふわふわと浮かんでいる。
「亮介さん。」
「はい。」
「今日は負けました。」
「シャボン玉?」
「はい。」
「でも。」
少しだけ微笑む。
「最後は、みんな笑っていました。」
亮介も笑った。
「それなら大成功。」
「はい。」
玲奈は店の看板を眺める。
「しおかぜ」は、黒糖プリンやコーヒーを出すだけの店ではない。
誰かが少し笑って帰れる場所。
そんな店を作りたかった。
今日、その願いは虹色のシャボン玉になって、確かに空へ飛んでいった気がした。
潮風は静かに吹いている。
店先に残った小さな笑い声だけが、夕暮れまで「しおかぜ」を優しく包んでいた。




