低く投げた石と、負けず嫌いな恋 ――サブマリン玲奈、静かな海で覚醒する
「しおかぜ」の定休日は、いつもより少しだけ空が広く見える。
その日は朝から海が穏やかだった。風は弱く、波は低く、砂浜には白い光がさらさらと降っている。
玲奈と亮介は、店の仕込みを早めに終えて、海岸沿いを歩いていた。
「玲奈さん、聞いてください」
「はい」
「昨日の夢にヤギが出てきました」
「はい」
「しかも、俺を見て笑ってたんですよ」
「はい」
「夢の中でも負けた気がしました」
「はい」
亮介が横目で見る。
「玲奈さん、聞いてます?」
「聞いています」
「全部『はい』じゃないですか」
「内容が薄いので」
「朝から厳しい」
玲奈は涼しい顔で歩く。亮介は相変わらず、くだらない話をいくつも並べる。パチンコの話、昨日見た変な雲の話、島猫に睨まれた話。玲奈は半分聞き流しながら、それでも隣を歩いていた。
途中で奈央も合流した。
「お散歩ですか?」
「はい」
「亮介さんの話に付き合わされています」
「それは大変ですね」
「奈央ちゃんまで」
三人で海岸へ出ると、島の子どもたちが波打ち際で石を投げていた。
水切りだった。
平たい石が水面を跳ねるたび、子どもたちは歓声を上げる。
「三回!」
「俺、五回!」
「もう一回!」
亮介の目が輝いた。
「懐かしいなあ」
玲奈が見る。
「できますか?」
「四国の山奥では毎日やってました」
「出ましたね、四国」
奈央が笑う。
亮介は平たい石を拾った。指で重さを確かめ、少し腰を落とす。
「見ててください」
シュッ。
石は低く鋭く飛び、水面を跳ねた。
一回、二回、三回、四回、五回、六回、七回。
子どもたちは大騒ぎになった。
「リョウお兄ちゃんすごい!」
「七回!」
「かっこいい!」
亮介は一気に得意顔になる。
「まあね。昔はもっといけたけど」
島のおじいまで近くに寄ってくる。
「リョウちゃん、やるさぁ」
「四国八位は伊達じゃないねぇ」
玲奈は腕を組む。
「水切りと四国八位は関係ありますか?」
「あります。たぶん」
調子に乗った亮介は、いたずらっぽく言った。
「玲奈さんなら、十回くらいいけますよね?」
奈央が小さく「あ」と言った。
玲奈は静かに亮介を見る。
そして、当然のように言った。
「もちろんです」
平たい石を拾う。構えは綺麗だった。背筋も伸び、腕の角度も悪くない。
しかし。
シュッ。
ボチャン。
一回。
玲奈は石を見つめた。
もう一度。
ボチャン。
また一回。
三度目。
水面に刺さるように沈んだ。
子どもたちが顔を見合わせる。
「玲奈お姉ちゃん……下手?」
奈央は笑いをこらえる。
亮介は完全にこらえきれていない。
そこへおじいがとどめを刺した。
「玲奈ちゃん、埋め立て地でも作る気かい?」
海岸中が笑いに包まれた。
玲奈は耳まで少し赤くなったが、顔はすましたままだった。
「今日は調子が悪いだけです」
亮介がペロッと舌を出す。
「今日は?」
「今日は、です」
その日の玲奈は、そこから何度も挑戦した。
だが結果は、ほぼ一回。
たまに二回。
三回跳ねた時には、子どもたちが優しく拍手してくれた。
それがまた悔しかった。
「頑張ったね、玲奈お姉ちゃん!」
慰められている。
元警部補。
元戦隊ヒロイン。
女優のような美人店主。
水切りでは、島の小学生に慰められている。
玲奈の中で、何かに火がついた。
その夜。
「しおかぜ」の自宅リビングで、亮介がさんぴん茶を飲んでいると、玲奈はノートパソコンを開いていた。
「何してるんですか?」
「研究です」
「何の?」
「水切りです」
亮介は吹き出した。
「そこまで?」
玲奈は真顔だった。
「亮介さんに負けたままでは終われません」
「たかが水切りですよ」
「されど水切りです」
そこから玲奈の本気が始まった。
動画サイトで水切りのコツを探す。
石の形。
投射角。
回転数。
リリースポイント。
手首の使い方。
腰の回転。
さらに調べるうち、玲奈はある映像にたどり着いた。
細身の背番号31番。
地面すれすれから球を放つ、伝説的な超低空アンダースロー投手。
普通の投手とはまるで違う、海面を滑るような軌道。
細い体をしなやかに折りたたみ、沈み込むように投げる姿は、もはや職人芸だった。
玲奈は画面に見入った。
「これです」
亮介が覗く。
「野球?」
「違います」
「野球ですよね」
「応用です」
玲奈は動画を止め、再生し、また止める。
「低いリリース」
「腰の回転」
「手首の角度」
「水面に対して水平に近い軌道」
亮介は呆れた。
「玲奈さん、水切りでプロ野球投手を研究する人、初めて見ました」
「勝つためには必要です」
「誰に?」
「亮介さんに」
亮介は一瞬黙った。
そこまで言われると、少し嬉しい。
翌日から、玲奈の夜の習慣が変わった。
閉店後。
店の奥で、玲奈が低く腰を沈める。
腕を地面すれすれに走らせる。
シャドウピッチング。
一回。
二回。
三回。
亮介はカウンターで皿を拭きながら見る。
「玲奈さん」
「はい」
「何もそこまでムキにならなくても」
玲奈はすました顔で言う。
「ムキになっていません」
「なってます」
「研究です」
「サブマリン研究?」
「水切り研究です」
奈央が来た日も、玲奈は閉店後に練習していた。
奈央は目を丸くする。
「玲奈さん、何してるんですか」
亮介が答える。
「サブマリン玲奈の誕生を見守ってます」
玲奈は振り向かない。
「亮介さん、余計な実況は不要です」
「はい」
一週間後。
次の定休日。
海岸には、なぜか人が集まっていた。
島の子どもたち。
奈央。
おじい。
おばあ。
そして亮介。
「玲奈お姉ちゃん、今日リベンジ?」
「今度は跳ねる?」
「サブマリンって何?」
亮介が笑う。
「見れば分かるよ」
玲奈は静かに海を見る。
すました顔。
だが内心は本気だった。
平たい石を選ぶ。
指で重さを確かめる。
足を開く。
そして、驚くほど低く沈み込んだ。
島の子どもたちがざわつく。
「低っ!」
奈央も驚く。
「本当に投手みたい……」
亮介は目を細める。
あの一週間、毎夜繰り返されていたシャドウピッチングは、完全に形になっていた。
細身の背番号31番の名サブマリン投手を思わせる、流れるような超低空フォーム。
玲奈の腕が、海面すれすれに走る。
シュッ。
石は鋭く、低く、一直線に飛んだ。
ピョン。
ピョン。
ピョン。
ピョン。
ピョン。
ピョン。
ピョン。
ピョン。
八回。
海岸が一瞬静まり返った。
そして次の瞬間、大歓声が起こる。
「すごーい!」
「玲奈お姉ちゃん、八回!」
「リョウお兄ちゃん超えた!」
「サブマリン玲奈!」
おじいも腹を抱えて笑う。
「玲奈ちゃん、埋め立て地じゃなくて、今日は滑走路作ったさぁ!」
奈央は拍手する。
「本当に勝った……」
亮介は苦笑した。
「一週間で抜かれた」
玲奈は石を拾いながら、すました顔で言った。
「研究しましたので」
「どのくらい?」
「動画を百回ほど」
「水切りで?」
「はい」
「負けず嫌いすぎる」
玲奈は少しだけ亮介を見る。
「亮介さんには、あまり負けたくありません」
その一言に、亮介は不意に胸を突かれた。
普段は冷静で、涼しい顔をしている玲奈。
けれど、彼女の中には熱い火がある。
くだらないことでも本気になる。
からかわれれば、徹底的に研究する。
そして最後には、すました顔で勝ちに来る。
そういう玲奈が、亮介はたまらなく好きだった。
「玲奈さん」
「はい」
「格好よかったです」
玲奈は少しだけ口元を緩めた。
「当然です」
「でも」
「はい」
「次は負けません」
玲奈は静かに微笑む。
「受けて立ちます」
島の子どもたちは、もう次の勝負を期待していた。
「リョウお兄ちゃんもやって!」
「サブマリン対決!」
おじいが笑う。
「次は大会さぁ」
奈央も笑いながら言う。
「しおかぜ杯、水切り大会ですね」
亮介は空を見上げた。
「まずいなぁ。玲奈さん、本気になったら止まらない」
玲奈はすました顔で、もう一つ石を拾う。
「今さら気づきましたか」
その石は、また美しく水面を跳ねた。
南ぬ島の静かな海に、軽やかな音が重なる。
七回跳ねた石から始まった、小さな負けず嫌い。
一週間眠れなかった店主は、ついに海辺で覚醒した。
サブマリン玲奈。
その誕生を、亮介は少し呆れながら、少し誇らしく、そしてかなり愛おしく見つめていた。




