雨の日の紙飛行機と、負けず嫌いな店主 ――まっすぐ飛んだのは、紙飛行機より笑顔でした
雨の日の「しおかぜ」は、いつもより少し静かだった。
南ぬ島の雨は、降り出すと急に世界の色を変える。窓の外の海は灰色がかり、店先のハイビスカスは水滴をまとい、潮風は湿った匂いを連れてくる。
玲奈はカウンターの奥で、黒糖プリン用のソースを丁寧に混ぜていた。亮介はテラス席の椅子を中へ入れ、退屈そうに窓の雨粒を眺めている。
そこへ、幸せそうな家族連れがやって来た。
祖母と、若い両親と、幼い兄妹。
雨で予定が変わったらしく、少し困った顔をしていたが、「しおかぜ」の暖かい灯りを見ると、すぐに表情が柔らかくなった。
「雨宿りがてら、少し休ませてください」
「もちろんです」
玲奈は静かに迎える。
黒糖プリンと珈琲、子どもたちには島バナナジュース。
やがて退屈した兄妹に、祖母が折り紙を取り出した。
「紙飛行機でも作ろうか」
その一言で、兄妹の目が輝いた。
小さなテーブルの上に、赤、青、黄色の折り紙が広がる。兄がぎこちなく折り、妹は途中で折る方向を間違える。それでも二人は楽しそうだった。
亮介がすぐに混ざる。
「懐かしいなあ。俺も作っていい?」
「リョウお兄ちゃんも作るの?」
「作るよ」
亮介の折り方は雑だった。
角も少しずれている。折り目も玲奈なら許さないほど甘い。
しかし、できあがった紙飛行機は不思議とよく飛んだ。
「いくぞ」
亮介が軽く投げる。
紙飛行機はふわりと浮かび、店内の通路を滑るように飛んでいく。椅子と椅子の間を抜け、カウンターの手前でゆっくり床へ降りた。
兄妹は歓声を上げた。
「すごーい!」
「もう一回!」
祖母も拍手する。
「まあ、上手ねぇ」
亮介はすっかり得意顔だった。
「昔、山で遊ぶくらいしかなかったからね」
母親が笑う。
「器用なんですね」
玲奈はカウンターの奥で、少しだけ眉を動かした。
器用。
亮介が。
その言葉に少し引っかかった。
亮介は、その一瞬を見逃さない。
いたずらっ子のように口元を緩め、玲奈へ声をかけた。
「玲奈さん」
「はい」
「玲奈さん、手先器用ですよね」
「そうですね」
「ハンドメイド雑貨も作れるし」
「はい」
「紙飛行機くらい、一瞬ですよね?」
奈央が、ちょうど雨宿りに来ていたカウンター席で小さく息を飲んだ。
また始まった。
玲奈は静かに折り紙を受け取った。
「簡単です」
亮介は笑いをこらえる。
「ですよね」
玲奈は折り始めた。
その手つきは美しかった。
折り目はまっすぐ。角はぴたり。左右の翼は定規で測ったように対称。紙飛行機というより、展示用の模型のようだった。
祖母が感心する。
「まあ、綺麗」
父親も身を乗り出す。
「これは見事ですね」
母親も笑う。
「飾っておきたいくらい」
兄妹も拍手した。
「玲奈お姉ちゃん、すごい!」
玲奈は少しだけ誇らしげに微笑んだ。
「では、飛ばします」
しん、と店内が見守る。
玲奈が紙飛行機を放つ。
ふわっ。
すとん。
二メートルほどで落ちた。
沈黙。
兄妹が同時に言う。
「飛ばない」
亮介は口元を押さえる。
奈央は視線をそらす。
玲奈は紙飛行機を拾い、もう一度翼を確認した。
「重心でしょうか」
再挑戦。
ふわっ。
すとん。
今度は少し右へ曲がって、テーブルの脚に当たった。
亮介の紙飛行機は、相変わらずよく飛ぶ。
玲奈の紙飛行機は、芸術品のように美しい。
しかし、飛ばない。
兄妹は面白がって、二人の飛行機を並べた。
「リョウお兄ちゃんのは遠くまで行く!」
「玲奈お姉ちゃんのは綺麗!」
亮介が胸を張る。
「役割分担だね」
玲奈は無表情で答える。
「まだ結論を出すには早いです」
負けず嫌いの火がついた。
三号機。
四号機。
五号機。
玲奈は次々と改良を重ねる。
翼を細くする。
胴を短くする。
先端を重くする。
折り目を微調整する。
兄妹も応援する。
「玲奈お姉ちゃん頑張れ!」
「もうちょっと!」
それでも亮介の紙飛行機には敵わなかった。
家族が帰る頃、店には紙飛行機が小さな群れのように並んでいた。
祖母は笑いながら言った。
「今日は雨で残念だったけど、楽しかったわ」
玲奈は少し照れた顔で頭を下げた。
「ありがとうございます」
兄妹は帰り際に手を振る。
「玲奈お姉ちゃん、次は飛ばしてね!」
玲奈は静かに答えた。
「次は必ず」
亮介はその声の真剣さに、少しだけ笑った。
閉店後。
雨はまだ降っていた。
店内には、しっとりとしたジャズが流れている。奈央は帰り、客席には玲奈と亮介だけが残った。
亮介が椅子を上げ終えて厨房を覗くと、玲奈はまだ紙飛行機を折っていた。
折り紙。
メモ。
定規。
ペン。
なぜか料理用のはかりまで置いてある。
「玲奈さん」
「はい」
「何してるんですか」
「研究です」
「紙飛行機の?」
「はい」
玲奈は真剣だった。
一号機から八号機まで番号が振られている。
メモには、
「翼角度、やや広め」
「先端重量、過多」
「投射角、要検討」
などと書かれていた。
亮介は吹き出した。
「本気すぎる」
玲奈は少しだけ頬を膨らませる。
「笑わないでください」
「ごめん。でも可愛い」
玲奈の手が止まる。
「何がですか」
「たかが紙飛行機にそこまで本気になるところ」
「たかが、ではありません」
「そういうところ」
亮介はカウンターに肘をつき、彼女を見る。
普段の玲奈は涼しい顔をしている。
元警部補で、何でも落ち着いていて、感情を乱さない。
けれど時々、こうして熱くなる。
負けず嫌いで、研究熱心で、子どもみたいに悔しがる。
その一面を見るたび、亮介は少し胸が鳴る。
「玲奈さんって」
「はい」
「冷たい氷みたいに見えて、中はけっこう熱いよね」
玲奈は少し困った顔をする。
「褒めていますか」
「かなり」
「分かりにくいです」
「じゃあ言い直す」
亮介は少し照れたように笑う。
「そういう玲奈さん、好きです」
雨音だけが少し大きく聞こえた。
玲奈は目を逸らし、紙飛行機の翼を整える。
「……口が上手いですね」
「元詐欺師ですから」
「そこは自慢しないでください」
「今のは本当」
玲奈は小さく息を吐いた。
それから、ほんの少し拗ねたように言う。
「それでも、今日は負けました」
「うん」
「悔しいです」
「うん」
「次は勝ちます」
亮介は笑った。
「じゃあ、俺が教える?」
玲奈は顔を上げる。
「勝者の余裕ですか」
「先生の余裕です」
「授業料は?」
「黒糖プリン一個」
「高いです」
「じゃあ、玲奈さんの笑顔一回」
玲奈は黙った。
そして少しだけ、口元を緩めた。
「今ので払いました」
亮介は胸を押さえる。
「安すぎた」
玲奈は初めて声を出して笑った。
その笑顔は、昼間の紙飛行機よりずっとまっすぐ亮介のところへ飛んできた。
「リョウさん」
「はい」
「次の定休日、練習します」
「紙飛行機?」
「はい」
「本気で?」
「本気です」
「俺、勝てるかな」
玲奈は静かに微笑んだ。
「今のうちに勝っておいてください」
「怖いなあ」
「負けません」
雨はまだ窓を濡らしていた。
けれど店内は暖かかった。
カウンターの上には、飛ばなかった紙飛行機が何機も並んでいる。
完璧すぎて飛べなかった玲奈の飛行機。
少し雑だけれど遠くまで飛んだ亮介の飛行機。
二つはまるで、二人そのものだった。
「しおかぜ」の夜は更けていく。
紙飛行機はまだ遠くへ飛ばない。
けれど、玲奈の少し悔しそうな横顔と、亮介のいたずらっぽい笑顔だけは、雨の日の店内をどこまでも明るくしていた。




