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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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氷の店主と、回らないヨーヨー ――元警部補、ヨーヨーに敗れる。しおかぜに響いた小さな笑い声

後は、時間までゆっくり流れているようだった。


海から届く潮風が「しおかぜ」の暖簾を揺らし、窓辺に吊るされた貝殻のモビールが、小さな音色を重ねる。


ランチの賑わいも落ち着き、玲奈はカウンターの奥で黒糖プリン用の黒糖をゆっくり火にかけていた。


その時、店のベルが軽やかに鳴る。


「こんにちは!」


入ってきたのは、本土から旅行に来た若い家族だった。


優しそうな父親と母親、そして五歳くらいの男の子。


男の子は首からヨーヨーをぶら下げ、店へ入るなり元気いっぱいだった。


「見て見て!」


「犬の散歩!」


ヨーヨーが床すれすれを滑る。


「今度はブランコ!」


くるり。


店内にいた常連のおばあも思わず拍手した。


「上手だねぇ。」


亮介は目を細める。


「すごいじゃん。」


「お兄ちゃんもやる?」


男の子がヨーヨーを差し出す。


「もちろん。」


亮介は笑いながら受け取った。


実は子どもの頃、少しだけ遊んでいたことがある。


決して名人ではない。


だが基本技くらいなら体が覚えていた。


ヨーヨーを軽く放る。


シュン。


「おぉ!」


犬の散歩。


ブランコ。


少しぎこちないながらも成功する。


男の子は目を輝かせた。


「すごーい!」


父親も笑う。


「お兄さん、お上手ですね。」


母親も頷く。


「運動神経いいんですね。」


亮介は照れ笑いを浮かべる。


「まあ、昔ちょっとだけ。」


玲奈はカウンターの向こうでコーヒーを淹れながら、その様子を静かに見ていた。


その時だった。


亮介がいたずらっぽい笑みを浮かべる。


「玲奈さん。」


「はい。」


「ヨーヨーくらい簡単ですよね?」


玲奈は顔を上げる。


亮介の顔を見る。


男の子を見る。


ヨーヨーを見る。


そして一言。


「もちろんです。」


奈央はカウンター席でさんぴん茶を飲みながら心の中でつぶやいた。


(始まった。)


玲奈は負けず嫌いだった。


しかも、できませんとは言えない。


亮介はヨーヨーを差し出した。


「どうぞ。」


玲奈は受け取る。


(どう持つのでしょう。)


(まず投げるのでしょうか。)


(回るのですよね。)


冷静な表情とは裏腹に、頭の中は大混乱だった。


しかし後には引けない。


「失礼します。」


ヨーヨーを放る。


ぽとん。


床へ落ちた。


静まり返る店内。


玲奈は何事もなかったように拾う。


「もう一度。」


ぽとん。


また落ちる。


亮介が口元を押さえる。


奈央も肩が震えている。


玲奈は三回目。


今度は少しだけ回転した。


しかし戻ってこない。


男の子が近付いてきた。


「お姉ちゃん。」


「はい。」


「初めて?」


玲奈は数秒黙った。


そして正直に答える。


「……初めてです。」


男の子はにっこり笑う。


「教えてあげる!」


玲奈は深く頷く。


「お願いします。」


その光景が微笑ましかった。


女優のように美しい店主が、小さな先生に頭を下げている。


男の子は一生懸命教える。


「もっと強く!」


「手をこう!」


「最後にピッて!」


玲奈は真剣そのものだった。


四回。


五回。


六回。


七回。


やっぱり戻らない。


亮介はついに吹き出してしまう。


「玲奈さん。」


「はい。」


「本当に未経験だったんですね。」


「そうです。」


父親も笑う。


「何でもできそうな方なのに。」


母親も優しく言う。


「ちょっと安心しました。」


玲奈は照れ笑いを浮かべる。


「私にも苦手なものはあります。」


その笑顔があまりに自然で、店内全体が柔らかい空気に包まれた。


やがて男の子たちは黒糖プリンを食べ終え、笑顔で帰っていった。


「お姉ちゃん!」


「また練習してね!」


玲奈は少し照れながら手を振る。


「はい。」


しかし家族が見えなくなると同時に、


「少し仕込みをしてきます。」


と言って、少し早足で厨房へ消えていった。


奈央が笑う。


「リョウさん。」


「うん?」


「完全に照れてます。」


亮介は満足そうだった。


「珍しいもの見た。」


夜。


閉店作業。


店内にはジャズが静かに流れている。


亮介は椅子をテーブルへ上げ、玲奈はカップを磨いていた。


亮介が笑いながら言う。


「玲奈さん。」


「はい。」


「ヨーヨー、本当に初めてだったんですね。」


「そうです。」


「昔、ヨーヨーを武器に悪と戦う女子高生の刑事ドラマが流行ってたじゃないですか。」


玲奈は首を傾げる。


「存じません。」


「元警部補だから、てっきり。」


「関係ありません。」


亮介はペロッと舌を出す。


「ごめん。」


玲奈は布巾を畳みながら、小さく息をついた。


「亮介さん。」


「はい。」


「今日は。」


「はい。」


「少し意地悪でした。」


「少し?」


「かなりです。」


「反省してます。」


「嘘ですね。」


「半分だけ。」


玲奈は少しだけ頬を膨らませる。


その横顔は、昼間の凛とした店主とは違って、年相応の女性らしかった。


亮介はその表情を見て、少し優しい声になる。


「でも。」


「何ですか。」


「玲奈さんが出来ないこと、初めて見た。」


玲奈は少し俯く。


「悔しいです。」


「うん。」


「かなり。」


「うん。」


「次は出来るようになります。」


亮介は笑う。


「やっぱり。」


「何がですか。」


「玲奈さんらしい。」


玲奈は少し考えてから、照れ隠しのように言った。


「負けたまま終わるのは好きではありません。」


「知ってる。」


「ですから。」


「はい。」


「ヨーヨー、教えてください。」


亮介は驚いた。


「俺が?」


「先生でしょう。」


「授業料高いよ。」


「いくらですか。」


「黒糖プリン一個。」


玲奈は少し笑った。


「高いですね。」


「人気店だから。」


「では。」


少し間を置いて。


「閉店後だけ、特別授業にしてください。」


亮介は嬉しそうに頷いた。


「了解。」


「でも。」


「何ですか。」


「先生。」


「はい。」


「笑ったら授業料は払いません。」


「厳しいなぁ。」


玲奈は少しだけ口元を緩める。


「今日のお返しです。」


亮介は肩をすくめた。


「一本取られた。」


玲奈はカップを棚へ戻しながら、小さく微笑む。


「亮介さん。」


「はい。」


「今日、一番悔しかったことがあります。」


「ヨーヨー?」


「違います。」


「え?」


「五歳の先生に負けたことです。」


亮介は思わず吹き出した。


「そこ?」


「そこです。」


「玲奈さんらしい。」


玲奈もつられて笑った。


夜の「しおかぜ」は、もう営業を終えていた。


けれどカウンターの内側では、恋人とも夫婦とも少し違う二人だけの穏やかな時間が流れている。


潮風が窓をやさしく揺らす。


玲奈は静かにコーヒーを二杯淹れた。


一杯を亮介の前へ置く。


「先生。」


「はい。」


「次の定休日からお願いします。」


「ヨーヨー教室?」


「はい。」


「今度は負けません。」


亮介はコーヒーを飲みながら笑う。


「その顔。」


「何ですか。」


「また本気になってる。」


玲奈は少し拗ねたように視線を逸らす。


「笑わない約束です。」


「はいはい。」


「……はいは一回です。」


「もう先生より厳しい。」


「当然です。」


その少し膨れた横顔があまりにも可愛らしくて、亮介は思わず笑ってしまう。


玲奈はすぐに気づいた。


「笑いましたね。」


「少しだけ。」


「減点です。」


「まだ授業始まってないよ。」


「予習不足です。」


亮介は降参するように両手を上げた。


「分かりました、玲奈先生。」


玲奈は満足そうに頷く。


「それで結構です。」


その夜、「しおかぜ」にはまたひとつ、小さな約束が生まれた。


次の定休日。


閉店後の店先で始まる、世界で一番のんびりしたヨーヨー教室。


潮風は今日も静かに吹いている。


回らなかったヨーヨーも、少し意地っ張りな店主の心も、きっといつか、きれいな弧を描いて戻ってくるのだろう

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