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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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黒糖プリンは、夕暮れを走る ――閉店五分前のラストラン。四国八位の快速ウェイター、島の声援を背に

閉店まで、あと五分だった。


南ぬ島の夕暮れは、今日もやわらかかった。西日が「しおかぜ」の窓を金色に染め、店先の風鈴が小さく鳴っている。玲奈はレジ締めの準備を始め、亮介はテラス席の椅子を片づけていた。


奈央はカウンターの隅で、冷めかけたさんぴん茶を飲みながら、保育園の壁面飾りの下絵を直していた。


「今日は静かに終わりそうですね」


亮介が言った。


玲奈はすぐに答える。


「そういうことを言うと、何か起きます」


「まさか」


その瞬間、店のドアベルが鳴った。


カラン。


入ってきたのは、六十代後半ほどの上品な夫婦だった。帽子を手に、少し息を切らしている。


「すみません。まだ大丈夫でしょうか」


「黒糖プリンの噂を聞いて、どうしても食べて帰りたくて」


玲奈はすぐに柔らかく頭を下げた。


「ありがとうございます。ただ……」


ショーケースを見る。


空だった。


「申し訳ありません。ちょうど在庫を切らしてしまいました」


奥様が残念そうに笑う。


「やっぱり人気なんですね」


ご主人も時計を見る。


「最終バスで中心街へ戻らないといけなくて。バス停まで歩くと五分はかかるでしょうし、私たちの足だと少し心配で」


玲奈は一瞬で状況を計算した。


プリンの仕上げに数分。

包装に一分。

バス停までは若い足なら三分少々。

高齢の夫婦なら五分以上。


間に合うか、かなり微妙だった。


その時、亮介が胸を叩いた。


「方法があります」


玲奈が見る。


「嫌な予感がします」


「お客様は先にバス停へ向かってください」


「え?」


「出来上がったら、俺が走って届けます」


奈央が顔を上げる。


「まさか」


亮介は得意げに言った。


「四国八位の快速で」


玲奈は一秒だけ目を閉じた。


しかし、次の瞬間には厨房へ入っていた。


「亮介さん」


「はい」


「三分ください」


「了解」


「転ばないでください」


「四国八位ですから」


「プリンを揺らしたら減点です」


「競技種目が増えた」


ご夫婦は半信半疑のまま、先にバス停へ向かった。


玲奈の動きは速かった。

冷蔵庫から器を出し、黒糖ソースを整え、蓋をして、保冷袋へ入れる。余計な動作が一つもない。


奈央は思わず見入った。


「玲奈さん、速い……」


「亮介さんが走るなら、こちらも急ぎます」


その声は冷静だったが、少しだけ楽しそうでもあった。


「できました」


玲奈が保冷袋を差し出す。


亮介はそれを受け取る。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


その言葉が妙に優しくて、亮介は少しだけ顔を緩めた。


そして、走った。


夕暮れの島道を、亮介が駆け抜ける。


最初は店の前のおばあが気づいた。


「リョウちゃん、また走ってるさぁ!」


次に小学生たちが気づいた。


「リョウちゃんだ!」


「四国八位だ!」


「今日はヤギじゃない!」


「プリン持ってる!」


そして誰かが叫んだ。


「リョウちゃん頑張れー!」


それが合図のように、道端の声が一斉に重なる。


「リョウちゃん頑張れ!」


「リョウちゃん頑張れ!」


「リョウちゃん頑張れ!」


まるで昔の実況中継の名調子みたいに、島の人たちの声が夕暮れに響いた。


亮介はその声に弱い。


応援されると燃える男である。


「任せろー!」


長い脚が地面を蹴る。

元中距離ランナーの滑らかなフォーム。

元ラガーマンの力強い体幹。

そして、保冷袋を揺らさない妙な集中力。


畑からおじいが叫ぶ。


「バス来るぞー!」


小学生が走りながら並ぼうとする。


「リョウちゃん速い!」


「追いつけない!」


「四国八位すげー!」


亮介は風を切った。


昨日ヤギに弄ばれた男とは思えない。

今日は相手がヤギではない。

相手は時刻表だ。


バス停が見えた。


年配の夫婦が、少し不安そうに道の先を見ている。


その向こうから、最終バスが角を曲がってくる。


亮介は最後の力で加速した。


「すみませーーん!」


ご主人が目を丸くする。


「来た!」


亮介はバス停へ滑り込むように到着し、保冷袋を差し出した。


「黒糖プリンです。宿でゆっくり召し上がってください」


奥様は両手で受け取り、目を潤ませた。


「まあ……本当に届けてくださったの」


「ありがとうございます。忘れられない旅になります」


ご主人も深く頭を下げる。


「若い頃の駅伝を見ているようでした」


亮介は息を切らしながら笑った。


「四国八位ですから」


バスの扉が開く。


夫婦が乗り込み、窓から大きく手を振る。


亮介も手を振り返した。


夕焼け色のバスがゆっくり走り出す。


その後ろ姿を見ながら、亮介は肩で息をした。


「間に合った……」


「しおかぜ」へ戻る頃には、もうすっかり汗だくだった。


入口では、奈央が拍手で迎えた。


「リョウさん、すごかったです!」


「本当?」


「本当に。ちょっと格好よかったです」


「ちょっと?」


「かなり」


亮介の顔が明るくなる。


そこへ玲奈が冷たいアイスコーヒーとタオルを持って出てきた。


「お疲れ様です」


「ただいま」


玲奈は亮介の手元を確認する。


「無事に届けましたか」


「はい」


「プリンは揺れませんでしたか」


「たぶん」


「たぶん?」


「全力で守りました」


玲奈は少しだけ笑った。


「では、百点です」


亮介は固まった。


「え?」


「今日は百点です」


奈央がすかさず言う。


「玲奈さんから百点出ましたよ!」


亮介は有頂天になった。


「聞いた? 奈央ちゃん聞いた?」


「聞きました」


「玲奈さんが百点って」


「聞きました」


「録音したかった」


玲奈は呆れたように言う。


「調子に乗らないでください」


「無理です。今日は乗ります」


「では減点します」


「待ってください」


奈央は笑いながら片づけを手伝った。


「でも本当に、今日のリョウさんは格好よかったです。ヤギの時とは違いました」


「奈央ちゃん、そこは忘れて」


玲奈が静かに言う。


「ヤギは強敵でしたから」


「玲奈さんまで」


「でも今日は、人のために走りました」


玲奈は亮介にタオルを渡しながら、少しだけ柔らかく言った。


「その方が、亮介さんらしくて良いと思います」


その一言に、亮介は急に黙った。


島の人たちに応援されるより、観光客に感謝されるより、奈央に褒められるより、玲奈にそう言われることが一番効いた。


「玲奈さん」


「はい」


「もう一回言ってください」


「言いません」


「百点だけでも」


「言いません」


「録音したかったなぁ」


玲奈はアイスコーヒーを差し出した。


「代わりに飲んでください」


亮介は笑って受け取る。


夕暮れの潮風が、店先を通り抜ける。


さっきまで島中に響いていた「リョウちゃん頑張れ」の声が、まだどこかに残っているようだった。


閉店五分前の小さなラストラン。


黒糖プリンを届けるためだけに、四国八位の快速ウェイターは島道を走った。


それは大事件ではない。

新聞にも載らない。

記録にも残らない。


けれど「しおかぜ」には、また一つ新しい評判が増えた。


黒糖プリンのために、走ってくれる店。


そして亮介には、もっと大切な記憶が増えた。


玲奈が珍しく褒めてくれた夕暮れ。


奈央が拍手してくれた入口。


小学生たちが声をそろえて叫んでくれた道。


「リョウちゃん頑張れ」


その声に押されて走った自分は、昔の自分より少しだけ真人間に近づいている気がした。


玲奈がカウンターを拭きながら言う。


「亮介さん」


「はい」


「明日から閉店五分前の注文は、毎回走るわけではありません」


「分かってます」


「ヤギも追いません」


「分かってます」


「パチンコの話も五分までです」


「それは別件では?」


玲奈は涼しい顔で答えた。


「大事なことです」


亮介は笑った。


「じゃあ、今日の自慢話は?」


玲奈は少し考えた。


「今日は十分まで許可します」


亮介は目を輝かせた。


「十分快挙!」


奈央が笑う。


「リョウさん、よかったですね」


玲奈も、ほんの少しだけ笑っていた。


その笑顔は、夕暮れの海より静かで、黒糖プリンより少しだけ甘かった。

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