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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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島最速は、四本足でした ――四国八位、ヤギに敗れる。しおかぜに生まれた新しい伝説

南ぬ島の午後は、何も起こらないような顔をして、時々とんでもない小事件を連れてくる。


その日も「しおかぜ」は穏やかだった。


ランチタイムの忙しさが引き、黒糖プリンを食べに来た常連のおばあ達が、窓際で涼んでいる。玲奈はカウンターの奥で翌日の島野菜サンドの仕込みをしていた。亮介はテラス席の椅子を拭きながら、得意げに昔話をしている。


「だから中学の時は、千五百メートルで四国八位だったんだよ」


「また始まりましたね」


玲奈は島オクラを刻みながら淡々と言った。


亮介は胸を張る。


「四国八位ってなかなかですよ。県じゃなくて四国ですから」


「はい。何度も聞きました」


「玲奈さん、もっと敬意を」


「四国八位様、そちらのテーブルも拭いてください」


常連のおばあ達が笑った。


その時だった。


店の入口に、近所のおじいが息を切らせて駆け込んできた。


「リョウちゃん! 大変さぁ!」


亮介が振り向く。


「どうしたの?」


「ヤギが逃げた!」


一瞬、店内が静かになった。


島ではヤギが逃げること自体は、そこまで珍しくない。だが道路へ飛び出せば危ないし、畑に入れば作物を食べてしまう。


おじいは真剣だった。


「港の方へ走って行ったさぁ!」


亮介の目が光った。


「任せて」


玲奈は嫌な予感がした。


「亮介さん」


「こういう時こそ、四国八位の出番でしょう」


「相手はヤギです」


「大丈夫。俺、まだ走れます」


「そういう問題でしょうか」


亮介はすでに店の外へ飛び出していた。


そこから先は、ちょっとした祭りだった。


「リョウちゃんが走るぞ!」


「四国八位さぁ!」


「ヤギ追いかけるってよ!」


近所のおじい、おばあが道端に出てくる。

通りかかった小学生たちまでランドセルを揺らして集まってきた。


「リョウちゃん頑張れー!」


「四国八位ー!」


「ヤギ捕まえてー!」


応援されると熱くなるのが亮介である。


「任せろー!」


元ラガーマンらしい大きなストライドで、海沿いの道を駆け出した。


確かに速かった。


長身でがっしりした体をしているのに、足の運びは軽い。中距離選手だった名残か、フォームもきれいだった。小学生たちは目を輝かせ、おじい達も感心する。


「リョウちゃん速いさぁ」


「まだまだ若いねぇ」


「四国八位は本当だったんだねぇ」


しかし。


ヤギは、もっと速かった。


ぴょん。


ぴょん。


ぴょん。


防風林の横を抜け、畑の脇を曲がり、海へ向かう細道を軽やかに逃げていく。亮介が距離を詰めると、ヤギはふいに立ち止まり、こちらを見る。


「メェ」


まるで、まだ来ないのかと言っているようだった。


「待て!」


亮介がもう一歩踏み込む。


ヤギはひょいとかわし、また走る。


「お前、絶対遊んでるだろ!」


その様子を見て、小学生たちは大笑いした。


「ヤギの方が速い!」


「リョウちゃん負けてる!」


「頑張れー!」


「四国八位、追いついてー!」


亮介は完全に火がついた。


「絶対捕まえる!」


玲奈は「しおかぜ」の前まで出て、その様子を遠くから見ていた。


奈央もいつの間にか隣に立っている。


「リョウさん、本当に速いですね」


「ええ」


「でも、ヤギの方が速いですね」


「ええ」


玲奈は珍しく、口元を少し緩めた。


「今日は良い勝負です」


「良い勝負なんですか?」


「今のところ、ヤギの優勢です」


亮介は島を半周する勢いで走った。


港の手前。

畑の角。

防風林。

小さな坂道。

集落の細い路地。


追いつきそうで追いつかない。


ヤギは時々止まる。

亮介が近づくと、また逃げる。

完全に弄ばれていた。


「こいつ……!」


亮介は汗だくになりながら息を切らせる。


「四本足、ずるいだろ……!」


最後にヤギが逃げ込んだのは、集落の外れにある小さな草地だった。


亮介が膝に手をつき、肩で息をしていると、後ろからおばあがゆっくり歩いてきた。


手には青々とした草が一束。


「ほら、おいで」


ヤギはぴたりと止まった。


そして、何事もなかったようにおばあの方へ歩いていく。


もしゃもしゃ。


草を食べ始める。


首輪をつかまれる。


確保完了。


亮介は呆然とした。


「……え?」


おばあは笑った。


「走らなくても、草で来るさぁ」


小学生たちは大爆笑だった。


「リョウちゃん負けたー!」


「ヤギ優勝!」


「四国八位、準優勝!」


おじい達も腹を抱えて笑った。


「リョウちゃん、いい走りだったさぁ」


「でもヤギには勝てんねぇ」


「相手が悪かったさぁ」


夕方。


亮介はようやく「しおかぜ」に戻ってきた。


全身汗だく。

髪は乱れ、シャツは背中まで濡れている。

顔には敗者の疲労と、どこか満足そうな照れ笑いが同居していた。


玲奈は何も言わず、冷たい麦茶とタオルを差し出した。


「お疲れ様です」


「ありがとう……」


亮介は麦茶を一気に飲む。


玲奈は静かに言った。


「四国八位も、ヤギには敵いませんね」


亮介はすぐ反論した。


「だって向こうは四本足だもん」


「なるほど」


玲奈は真顔で頷く。


「では次回は、亮介さんも四本足で挑戦しますか」


「俺、人間だから」


「残念です」


奈央が吹き出した。


玲奈はさらに続ける。


「それに、ヤギは草で捕まりました」


「うん」


「つまり、俊足より草です」


「まとめ方がひどい」


「今日の教訓です」


亮介はタオルで顔を拭きながら笑った。


「玲奈さん、今日はやけに楽しそうですね」


玲奈は少しだけ目を逸らした。


「そうでしょうか」


「絶対楽しんでる」


「珍しいものが見られましたから」


「何を?」


「ヤギに翻弄される四国八位です」


「肩書きに傷がつく」


「むしろ親しみやすくなりました」


亮介は苦笑した。


「これ、しばらく言われるやつだ」


「はい」


「否定しないんだ」


「島の皆さんの記憶に残ると思います」


「最悪だ」


玲奈は珈琲を淹れながら、小さく笑った。


その笑顔は、いつもの冷静な美人店主のものではなかった。少しお茶目で、少し楽しそうで、亮介だけが知っている柔らかさがあった。


「でも」


玲奈はカップを置きながら言った。


「今日は一番速く走ったのはヤギでしたが」


「うん」


「一番たくさん笑わせたのは、亮介さんでした」


亮介は顔を上げた。


「それ、褒めてる?」


「かなり」


「本当に?」


「はい。しおかぜのウェイターとしては、十分な成績です」


「四国八位より?」


「島内一位です」


亮介は少し照れたように笑った。


外では夕暮れの潮風が、店先の風鈴をやさしく鳴らしている。


小学生たちは帰り道でまだ言っていた。


「リョウちゃん、ヤギに負けたねー!」


「でも速かったねー!」


「また走ってほしいねー!」


亮介は窓の外を見ながら苦笑する。


「完全に島の見世物だ」


玲奈は隣で静かに珈琲を飲む。


「人気者ですね」


「褒めてないでしょう」


「褒めています」


「今日、何回からかうんですか」


「四国八位なので、八回まで」


「多いなぁ」


二人は顔を見合わせて笑った。


その日、「しおかぜ」には新しい伝説が生まれた。


四国八位の快速ウェイター、ヤギには勝てず。


けれど島の人たちは、その負けっぷりまで含めて亮介を好きになった。


そして玲奈は、そんな亮介を少しだけ誇らしく思いながら、また一口、珈琲を飲んだ。


「リョウさん」


「はい」


「次はニワトリなら勝てるかもしれません」


「やめてください」


「練習しておきますか」


「しません」


「残念です」


玲奈の声は、ほんの少しだけ弾んでいた。


潮風に溶けるその笑い声は、黒糖プリンより少し甘く、「しおかぜ」の夕暮れをやさしく照らしていた。

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