島最速は、四本足でした ――四国八位、ヤギに敗れる。しおかぜに生まれた新しい伝説
南ぬ島の午後は、何も起こらないような顔をして、時々とんでもない小事件を連れてくる。
その日も「しおかぜ」は穏やかだった。
ランチタイムの忙しさが引き、黒糖プリンを食べに来た常連のおばあ達が、窓際で涼んでいる。玲奈はカウンターの奥で翌日の島野菜サンドの仕込みをしていた。亮介はテラス席の椅子を拭きながら、得意げに昔話をしている。
「だから中学の時は、千五百メートルで四国八位だったんだよ」
「また始まりましたね」
玲奈は島オクラを刻みながら淡々と言った。
亮介は胸を張る。
「四国八位ってなかなかですよ。県じゃなくて四国ですから」
「はい。何度も聞きました」
「玲奈さん、もっと敬意を」
「四国八位様、そちらのテーブルも拭いてください」
常連のおばあ達が笑った。
その時だった。
店の入口に、近所のおじいが息を切らせて駆け込んできた。
「リョウちゃん! 大変さぁ!」
亮介が振り向く。
「どうしたの?」
「ヤギが逃げた!」
一瞬、店内が静かになった。
島ではヤギが逃げること自体は、そこまで珍しくない。だが道路へ飛び出せば危ないし、畑に入れば作物を食べてしまう。
おじいは真剣だった。
「港の方へ走って行ったさぁ!」
亮介の目が光った。
「任せて」
玲奈は嫌な予感がした。
「亮介さん」
「こういう時こそ、四国八位の出番でしょう」
「相手はヤギです」
「大丈夫。俺、まだ走れます」
「そういう問題でしょうか」
亮介はすでに店の外へ飛び出していた。
そこから先は、ちょっとした祭りだった。
「リョウちゃんが走るぞ!」
「四国八位さぁ!」
「ヤギ追いかけるってよ!」
近所のおじい、おばあが道端に出てくる。
通りかかった小学生たちまでランドセルを揺らして集まってきた。
「リョウちゃん頑張れー!」
「四国八位ー!」
「ヤギ捕まえてー!」
応援されると熱くなるのが亮介である。
「任せろー!」
元ラガーマンらしい大きなストライドで、海沿いの道を駆け出した。
確かに速かった。
長身でがっしりした体をしているのに、足の運びは軽い。中距離選手だった名残か、フォームもきれいだった。小学生たちは目を輝かせ、おじい達も感心する。
「リョウちゃん速いさぁ」
「まだまだ若いねぇ」
「四国八位は本当だったんだねぇ」
しかし。
ヤギは、もっと速かった。
ぴょん。
ぴょん。
ぴょん。
防風林の横を抜け、畑の脇を曲がり、海へ向かう細道を軽やかに逃げていく。亮介が距離を詰めると、ヤギはふいに立ち止まり、こちらを見る。
「メェ」
まるで、まだ来ないのかと言っているようだった。
「待て!」
亮介がもう一歩踏み込む。
ヤギはひょいとかわし、また走る。
「お前、絶対遊んでるだろ!」
その様子を見て、小学生たちは大笑いした。
「ヤギの方が速い!」
「リョウちゃん負けてる!」
「頑張れー!」
「四国八位、追いついてー!」
亮介は完全に火がついた。
「絶対捕まえる!」
玲奈は「しおかぜ」の前まで出て、その様子を遠くから見ていた。
奈央もいつの間にか隣に立っている。
「リョウさん、本当に速いですね」
「ええ」
「でも、ヤギの方が速いですね」
「ええ」
玲奈は珍しく、口元を少し緩めた。
「今日は良い勝負です」
「良い勝負なんですか?」
「今のところ、ヤギの優勢です」
亮介は島を半周する勢いで走った。
港の手前。
畑の角。
防風林。
小さな坂道。
集落の細い路地。
追いつきそうで追いつかない。
ヤギは時々止まる。
亮介が近づくと、また逃げる。
完全に弄ばれていた。
「こいつ……!」
亮介は汗だくになりながら息を切らせる。
「四本足、ずるいだろ……!」
最後にヤギが逃げ込んだのは、集落の外れにある小さな草地だった。
亮介が膝に手をつき、肩で息をしていると、後ろからおばあがゆっくり歩いてきた。
手には青々とした草が一束。
「ほら、おいで」
ヤギはぴたりと止まった。
そして、何事もなかったようにおばあの方へ歩いていく。
もしゃもしゃ。
草を食べ始める。
首輪をつかまれる。
確保完了。
亮介は呆然とした。
「……え?」
おばあは笑った。
「走らなくても、草で来るさぁ」
小学生たちは大爆笑だった。
「リョウちゃん負けたー!」
「ヤギ優勝!」
「四国八位、準優勝!」
おじい達も腹を抱えて笑った。
「リョウちゃん、いい走りだったさぁ」
「でもヤギには勝てんねぇ」
「相手が悪かったさぁ」
夕方。
亮介はようやく「しおかぜ」に戻ってきた。
全身汗だく。
髪は乱れ、シャツは背中まで濡れている。
顔には敗者の疲労と、どこか満足そうな照れ笑いが同居していた。
玲奈は何も言わず、冷たい麦茶とタオルを差し出した。
「お疲れ様です」
「ありがとう……」
亮介は麦茶を一気に飲む。
玲奈は静かに言った。
「四国八位も、ヤギには敵いませんね」
亮介はすぐ反論した。
「だって向こうは四本足だもん」
「なるほど」
玲奈は真顔で頷く。
「では次回は、亮介さんも四本足で挑戦しますか」
「俺、人間だから」
「残念です」
奈央が吹き出した。
玲奈はさらに続ける。
「それに、ヤギは草で捕まりました」
「うん」
「つまり、俊足より草です」
「まとめ方がひどい」
「今日の教訓です」
亮介はタオルで顔を拭きながら笑った。
「玲奈さん、今日はやけに楽しそうですね」
玲奈は少しだけ目を逸らした。
「そうでしょうか」
「絶対楽しんでる」
「珍しいものが見られましたから」
「何を?」
「ヤギに翻弄される四国八位です」
「肩書きに傷がつく」
「むしろ親しみやすくなりました」
亮介は苦笑した。
「これ、しばらく言われるやつだ」
「はい」
「否定しないんだ」
「島の皆さんの記憶に残ると思います」
「最悪だ」
玲奈は珈琲を淹れながら、小さく笑った。
その笑顔は、いつもの冷静な美人店主のものではなかった。少しお茶目で、少し楽しそうで、亮介だけが知っている柔らかさがあった。
「でも」
玲奈はカップを置きながら言った。
「今日は一番速く走ったのはヤギでしたが」
「うん」
「一番たくさん笑わせたのは、亮介さんでした」
亮介は顔を上げた。
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「本当に?」
「はい。しおかぜのウェイターとしては、十分な成績です」
「四国八位より?」
「島内一位です」
亮介は少し照れたように笑った。
外では夕暮れの潮風が、店先の風鈴をやさしく鳴らしている。
小学生たちは帰り道でまだ言っていた。
「リョウちゃん、ヤギに負けたねー!」
「でも速かったねー!」
「また走ってほしいねー!」
亮介は窓の外を見ながら苦笑する。
「完全に島の見世物だ」
玲奈は隣で静かに珈琲を飲む。
「人気者ですね」
「褒めてないでしょう」
「褒めています」
「今日、何回からかうんですか」
「四国八位なので、八回まで」
「多いなぁ」
二人は顔を見合わせて笑った。
その日、「しおかぜ」には新しい伝説が生まれた。
四国八位の快速ウェイター、ヤギには勝てず。
けれど島の人たちは、その負けっぷりまで含めて亮介を好きになった。
そして玲奈は、そんな亮介を少しだけ誇らしく思いながら、また一口、珈琲を飲んだ。
「リョウさん」
「はい」
「次はニワトリなら勝てるかもしれません」
「やめてください」
「練習しておきますか」
「しません」
「残念です」
玲奈の声は、ほんの少しだけ弾んでいた。
潮風に溶けるその笑い声は、黒糖プリンより少し甘く、「しおかぜ」の夕暮れをやさしく照らしていた。




