恋のライバルは二十歳 ――四国八位の快速ウェイター、今日は接客しすぎました
昼下がりの「しおかぜ」は、海風まで少し眠たそうだった。
ランチの波が引き、店内には黒糖プリンを食べる常連のおばあが二人、窓際で本を読む移住者が一人。玲奈はカウンターの奥で珈琲豆を量り、亮介はテーブルを拭きながら、いつものように余計な鼻歌を歌っていた。
そこへ、ドアベルが明るく鳴った。
カラン。
入ってきたのは、本土から来た女子大生四人組だった。
日焼け止めの匂い。
明るいワンピース。
スマホ。
ガイドブック。
そして、若い旅行者特有の、何を見ても少し楽しくなるような空気。
「ここだ!」
「陽気なウェイターと、美人店主のお店!」
「本当にいる!」
四人は一斉に玲奈と亮介を見た。
「わ、本当に美人!」
「店主さん、モデルさんみたい!」
「ウェイターさんも爽やか!」
亮介の背筋が、目に見えて伸びた。
「いらっしゃいませ。四名様ですね」
声がいつもより半音明るい。
玲奈はすぐに気づいた。
調子に乗る前兆だった。
女子大生たちは黒糖プリンと島野菜サンドを注文し、店内をきょろきょろ眺めながら盛り上がっている。
「リョウさんっていうんですか?」
「はい。リョウちゃんでも可です」
「可愛い!」
「体格いいですね。スポーツやってました?」
その瞬間、亮介の中で何かのスイッチが入った。
「分かります?」
玲奈はカウンターの奥で、静かに目を閉じた。
終わった。
亮介は語り始めた。
中学時代は陸上部。
種目は中距離。
千五百メートル走で四国総体八位。
高校ではラグビー部に入り、その脚力を活かして快速フランカーとして活躍。
県大会決勝まで進み、あと一歩で花園を逃した。
「最後の試合、残り五分でね」
「えー!」
「すごーい!」
「リョウさん、カッコいい!」
「絶対モテましたよね!」
亮介は照れたような顔を作った。
「いやぁ、昔は少しだけ」
玲奈はカウンターの下で伝票を揃えながら、無表情だった。
少しだけ、ではない。
この男は、昔も今も女に妙に好かれる。
元ラガーマンらしい長身でがっしりした体格。
日に焼けた肌。
年齢より若く見える爽やかな顔。
そして、相手の懐へするりと入る話し方。
面白くない。
もちろん玲奈は女優のように美しい。
常連からも観光客からも褒められる。
だが、目の前の女子大生たちの若さは、玲奈にはない種類の眩しさだった。
屈託がなく、よく笑い、失敗してもそれすら可愛らしい。
玲奈は自分の年齢を気にする女ではない。
けれど、その日だけは少しだけ思った。
若いというのは、強いですね。
そんな玲奈の気配にも気づかず、亮介はさらに調子に乗った。
「玲奈さんも昔すごかったんですよ」
玲奈の手が止まる。
「亮介さん」
「元警察官でね」
「亮介さん」
「しかも県警のポスターに」
「亮介さん」
女子大生たちは目を輝かせる。
「え、すごい!」
「だからこんなに綺麗なんだ!」
「カッコいい!」
亮介は止まらない。
「最初は氷みたいな顔しててね」
「亮介さん」
「今でも怒ると怖いけど」
「亮介さん」
「朝なんか俺、珈琲淹れながら説教されるし」
「……」
玲奈は無言で厨房へ入った。
その動きは静かだったが、かなり速かった。
厨房の奥から、包丁がまな板を叩く音が聞こえる。
いつもより少しだけリズムが強い。
常連のおばあが黒糖プリンを食べながら笑った。
「リョウちゃん、やりすぎさぁ」
亮介はようやく気づいた。
「あれ?」
奈央もちょうど店に入ってきて、状況を見ただけで理解した。
「リョウさん、終わりましたね」
「終わった?」
「完全に厨房へ避難されてます」
「怒ってるかな」
「怒ってるというより、拗ねてます」
亮介は目を丸くした。
玲奈が拗ねる。
それは珍しい。
女子大生たちは、最後まで楽しそうだった。
「黒糖プリン最高でした!」
「リョウさん、また来ます!」
「店主さん、ほんと綺麗でした!」
「リョウさんもカッコよかったです!」
亮介は笑顔で手を振った。
玲奈は厨房から出てこなかった。
閉店後。
店内には、妙に静かな空気が残っていた。
亮介は椅子を上げ、玲奈は食器を洗っている。
亮介が恐る恐る言った。
「玲奈さん」
「はい」
声は普通だった。
普通すぎて怖かった。
「怒ってます?」
「怒っていません」
「その言い方は怒ってます」
玲奈は手を止めずに言った。
「四国八位の快速の持ち主だったんですね」
「はい」
「花園まであと一歩だったんですね」
「はい」
「若い女性には、そういう話をするんですね」
亮介は黙った。
「私は今日、初めて聞きました」
「すみません」
「それから」
「はい」
「私の話も、余計でした」
「すみません」
「朝の説教の話も不要です」
「すみません」
玲奈は食器を拭きながら、少しだけ横を向いた。
「皆さん、可愛らしかったですね」
「え?」
「若くて、明るくて、よく笑って」
亮介はようやく気づいた。
これは怒っているだけではない。
玲奈が、珍しく嫉妬している。
「玲奈さん」
「何ですか」
「もしかして、ヤキモチですか」
玲奈は即答した。
「違います」
一秒。
二秒。
三秒。
「……少しだけです」
亮介は笑いそうになったが、必死でこらえた。
こらえないと危険だった。
「嬉しいです」
「調子に乗らないでください」
「はい」
「若い女性に褒められて、かなり嬉しそうでした」
「接客です」
「四国総体八位は接客ですか」
「昔話です」
「玲奈さんは怖かった、も接客ですか」
「失言です」
「そうですね」
亮介は椅子を置き、少し真面目な顔をした。
「でも、俺が見てたのは玲奈さんですよ」
玲奈は動きを止める。
「嘘です」
「本当です」
「女子大生の皆さんに囲まれて、非常に楽しそうでした」
「楽しかったです」
玲奈の視線が冷たくなる。
亮介は慌てて続けた。
「でも、嬉しかったのは玲奈さんが厨房で拗ねてたことです」
「拗ねていません」
「拗ねてました」
「違います」
「包丁の音、いつもより強かった」
玲奈は少し赤くなった。
「気のせいです」
「可愛かったです」
「……亮介さん」
「はい」
「今日は口が過ぎます」
亮介は少し笑った。
「じゃあ、黙ります」
「三分だけなら話してもいいです」
「短い」
「四国八位なので、四分にします」
亮介は吹き出した。
玲奈も、つられて少しだけ笑った。
その笑顔は昼間の女子大生たちとは違う。
若さの眩しさではない。
静かで、少し照れくさくて、長い時間をかけてようやく見せるようになった笑顔だった。
亮介にとっては、それが一番だった。
「玲奈さん」
「はい」
「今度、ちゃんと話します」
「何をですか」
「中学の陸上のこと。高校のラグビーのこと。花園に行けなかった試合のこと」
玲奈は少しだけ間を置いて頷いた。
「聞きます」
「パチンコの話より?」
「比べるまでもありません」
「じゃあ、明日からパチンコ禁止?」
「禁止ではありません」
「よかった」
「ただし五分までです」
「また五分」
「延長はありません」
亮介は笑った。
玲奈は二人分の珈琲を淹れた。
一杯を亮介の前に置く。
「四国八位のお祝いです」
「ありがとうございます」
「それと」
「はい」
「次に若い女性のお客様へ私の話を勝手にしたら、黒糖プリンは一週間抜きです」
「重い罰ですね」
「当然です」
二人はカウンターに並んで珈琲を飲んだ。
外では夜の潮風が、看板をそっと揺らしている。
その日の「しおかぜ」には、若い観光客の笑い声と、少し拗ねた玲奈の可愛らしい嫉妬が残っていた。
恋のライバルは二十歳。
けれど、亮介が本当に機嫌を取りたかった相手は、厨房の奥に引っ込んでしまう、少し不器用で、少し意地っ張りな、世界で一番好きな人だった。
そして玲奈もまた、口には出さないが少しだけ思っていた。
若さには勝てないかもしれない。
でも、この人の昔話をこれから聞けるのは、たぶん自分だけだ。
それなら。
少しだけ、勝った気がしなくもない。
「リョウさん」
「はい」
「今度から、その話は私に先にしてください」
「はい」
亮介は嬉しそうに頷いた。
玲奈は何でもない顔をして珈琲を飲んだ。
けれど耳だけは、ほんの少し赤かった。




