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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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潮風より静かなライバル ――大学准教授が運んできた、リョウちゃん史上最大の危機

その日の朝の「しおかぜ」は、いつもより少しだけ騒がしかった。


原因は、もちろん亮介だった。


「玲奈さん、聞いてください」


「聞いています」


「昨日、パチンコで二万三千円勝ちました」


玲奈は島野菜サンド用の島オクラを刻みながら、表情ひとつ変えなかった。


「そうですか」


「いや、そうですかじゃなくてですね。最後のリーチがすごかったんですよ」


「そうですか」


「隣のおじさんが『兄ちゃん、これは来るぞ』って」


「そうですか」


「そしたら本当に来て」


「そうですか」


「玲奈さん、聞いてます?」


「聞いています。二万三千円ですね」


「金額しか聞いてない」


玲奈は包丁を置き、静かに言った。


「その運を人生の前半で使っていれば、現在の返済計画はもう少し短かったかもしれません」


亮介は胸を押さえた。


「朝から深いところを刺しますね」


「事実です」


それでも亮介の話は止まらなかった。


確変がどう、隣の台がどう、景品のお菓子がどう。

玲奈は途中から完全に無表情でコーヒー豆を量っていた。


平和ではある。


しかし、かなり低次元な平和だった。


昼下がり。


観光客が一段落し、常連のおばあが黒糖プリンを食べながら世間話をしていた頃、店のドアベルが涼やかに鳴った。


入ってきたのは、一人の男性だった。


五十代半ばほど。

白いリネンシャツに、深い紺のジャケット。

派手ではないが、仕立ての良さが分かる。

髪には少し白いものが混じり、眼鏡の奥の視線は穏やかで、立ち姿に無駄がない。


「一名ですが、よろしいですか」


声も落ち着いていた。


玲奈はいつも通り頭を下げる。


「どうぞ。お好きな席へ」


男性は窓際ではなく、カウンター近くの席を選んだ。


名は、高宮宗一郎。


東京の私立大学で日本建築史を教える准教授だった。

八重山地方の伝統家屋と集落景観の調査で島を訪れており、業界では著書もある有名人らしい。


それを聞いた瞬間、玲奈の目がわずかに変わった。


亮介には分かった。


あれは、玲奈が本気で興味を持った時の顔だった。


高宮はコーヒーと黒糖プリンを注文し、待っている間、店内に飾られたハンドメイド雑貨へ目を留めた。


貝殻を使った小さなモビール。

流木のフォトスタンド。

島木綿をあしらったコースター。

月桃の葉を乾かして作った栞。

小さな島猫の木製プレート。


高宮はそれらを、土産物を見る目ではなく、研究対象を見るように丁寧に眺めた。


「これは、店主の方が?」


「はい。私が作りました」


玲奈が答えると、高宮は静かに頷いた。


「とても良いですね」


「ありがとうございます」


「飾り過ぎていない。素材の記憶を残したまま、少しだけ人の手が添えられている」


玲奈の表情が少し動いた。


「素材の記憶、ですか」


「ええ。流木は流木のまま、貝殻は貝殻のまま残っている。でも配置に知性がある。民芸でいうところの“用の美”に近いですね」


玲奈が珍しく、自然に笑った。


「そこまで見ていただけるとは思いませんでした」


亮介はカウンターの内側で固まった。


笑った。


朝から自分が二万三千円勝った話をしても微動だにしなかった玲奈が、流木の話で笑った。


しかも少し饒舌になっている。


「以前から柳宗悦の本は少し読んでいました。詳しいわけではありませんが、生活の中にある美しさには興味があります」


「それは素晴らしい。観光地の土産物は、ともすれば“記号”になりすぎます。ですが、こちらの雑貨は土地の時間を残していますね」


「土地の時間……いい表現ですね」


亮介は心の中でつぶやいた。


明日は大嵐かもしれない。


玲奈がここまで笑顔で、しかも自分から会話を広げている。


高宮と玲奈の会話は、そこからさらに高度になった。


八重山の赤瓦。

石垣。

台風と建築。

民家の風通し。

本土の町家との違い。

神戸の近代建築。

暮らしの中に残る美意識。


亮介は途中から完全に蚊帳の外だった。


「……赤瓦は分かる」


彼は小声で呟いた。


「それ以外が分からない」


常連のおばあが、黒糖プリンを食べながらにやにやしている。


「リョウちゃん、今日は静かさぁ」


「大人の接客です」


「違うさぁ。負けてる顔さぁ」


「負けてません」


「顔が負けてる」


そこへ奈央もやって来た。


「リョウさん、今日どうしたんですか。いつもの三分の一も喋ってませんよ」


「接客中です」


「玲奈さんとあの方、すごく話が合ってますね」


「そうですね」


「嫉妬ですか?」


「違います」


奈央は少し笑った。


「分かりやすいです」


「奈央ちゃんまで」


その間にも、玲奈は高宮と静かに会話を続けていた。


「この店も、島の風を受けるように作ってありますね」


「最初は苦労しました。湿気も台風も、本土の感覚では通用しません」


「その土地に合わせて暮らす。建築も料理も、同じかもしれませんね」


玲奈は深く頷いた。


「そう思います」


亮介は皿を拭きながら、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなった。


玲奈が誰かに心を開いている。


それ自体は悪いことではない。


むしろ良いことのはずだった。


それでも、面白くない。


玲奈が楽しそうに話している相手が、自分よりずっと品があり、知的で、落ち着いていて、話題も高尚で、パチンコの話など絶対にしなさそうな男であることが、さらに面白くなかった。


高宮は黒糖プリンを口にして、また静かに褒めた。


「これは美味しい。黒糖を甘さではなく、香りとして使っている」


玲奈が嬉しそうに答える。


「ありがとうございます。少し苦味を残すようにしています」


「だから余韻があるのですね。良い店です」


その言葉に、玲奈はまた微笑んだ。


亮介は皿を一枚、いつもより念入りに拭いた。


夕方、高宮は会計を済ませ、名刺を玲奈へ差し出した。


「また島へ来る時は寄らせてください。次は、この店の雑貨をもう少し詳しく拝見したい」


「ぜひ」


玲奈は丁寧に受け取った。


「今度は、八重山建築の資料も少し持ってきます」


「楽しみにしています」


亮介は無言で見送った。


高宮が去ったあと、店内にはしばらく妙な余韻が残った。


常連のおばあがぽつりと言う。


「リョウちゃん、大人の男に負けたさぁ」


亮介は反論しようとして、やめた。


奈央も笑いながら言う。


「でもリョウさんにはリョウさんの良さがありますよ」


「それ、慰め?」


「はい」


「正直だなぁ」


閉店後。


店内に二人だけが残った。


玲奈はカウンターを拭き、亮介は椅子を上げていた。


珍しく、亮介は静かだった。


玲奈が先に口を開く。


「今日は静かですね」


「いつも静かですよ」


「嘘ですね」


「嘘です」


玲奈は少しだけ笑った。


亮介は椅子を持ったまま、ぽつりと言う。


「高宮さん、格好良かったですね」


「ええ。知的で、品のある方でした」


亮介は小さく息を吐いた。


「俺、途中から何話してるか全然分からなかった」


「そうですか」


「玲奈さん、楽しそうでした」


玲奈の手が止まる。


「そう見えましたか」


「見えました」


少し沈黙があった。


外では潮風が看板を揺らしている。


亮介は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「俺、パチンコで二万三千円勝った話しかしてないですからね」


「それは低次元でした」


「ひどい」


「事実です」


玲奈は布巾を置いた。


それから、少しだけ柔らかい声で言う。


「高宮さんは素敵な方でした」


「はい」


「話していて楽しかったです」


「はい」


「少し心を奪われたのも事実です」


亮介は黙った。


胸の奥が、少し痛んだ。


玲奈は続ける。


「でも、高宮さんは私の朝の仕込みを知りません」


「……」


「亮介さんが島オクラと雑草を間違えたことも知りません」


「それは忘れてください」


「忘れません」


玲奈は少し笑った。


「パチンコで勝った話を朝から聞かされて、少し辟易したことも、高宮さんは知りません」


「それは知らなくていいです」


「でも、私は知っています」


亮介が顔を上げる。


玲奈はカウンターの向こうから静かに言った。


「私は、亮介さんのくだらない話に少し疲れます」


「はい」


「でも、まったく聞きたくないわけではありません」


「……それ、褒めてます?」


「かなり」


亮介は少し笑った。


玲奈は続ける。


「高宮さんと話す時間は楽しかったです。でも、閉店後に一緒に椅子を上げる相手は、亮介さんがいいです」


その言葉は、とても静かだった。


派手な告白ではない。


甘い台詞でもない。


それでも亮介には十分だった。


「玲奈さん」


「はい」


「俺、少し嫉妬しました」


「知っています」


「顔に出てました?」


「かなり」


「恥ずかしいなぁ」


玲奈は少し意地悪く言った。


「珍しいものを見ました」


「たまにはありますよ」


「そうですか」


「あります」


玲奈はコーヒーを二杯淹れた。


一杯を亮介の前に置く。


「今日は少し濃いめです」


「高宮さんの余韻を消すため?」


「違います」


「じゃあ?」


玲奈は少し考えた。


「亮介さんが拗ねているので」


亮介は吹き出した。


「完全に子供扱い」


「違います」


「違います?」


「手のかかる大人扱いです」


二人は笑った。


その夜の「しおかぜ」は、いつもより少しだけ大人びていた。


知的な紳士が運んできた小さな波は、亮介の胸を少し揺らした。

玲奈の心も、少しだけいつもと違う方へ向いた。


けれど最後に戻ってくる場所は、やはり同じだった。


カウンターの向こう。

洗い終えたグラス。

少し苦いコーヒー。

そして、くだらない話をしながら隣にいる人。


亮介がぽつりと言う。


「明日はパチンコの話、控えます」


玲奈は即答した。


「それが良いです」


「少しは聞いてくれます?」


「五分までなら」


「短い」


「三分にしますか」


「五分でお願いします」


玲奈は小さく笑った。


外では潮風が静かに吹いていた。


大学准教授が運んできた、リョウちゃん史上最大の危機。


それは結局、二人が互いの距離を少しだけ確かめ直す、穏やかな夜になった。

そして亮介は、しみじみと思った。


高宮宗一郎は確かに格好いい。


だが、玲奈に「五分だけなら聞きます」と言ってもらえる男は、自分だけである。


たぶん。


今のところは。

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