三人目の観客と、沈まない夜 ――しおかぜ名画座、恋はスクリーンの外でも少し揺れる
翌日が定休日の夜だけ、「しおかぜ」には少し不思議な映画館が現れる。
名前は、しおかぜ名画座。
正式な看板はない。
チケット売り場もない。
座席指定もない。
あるのは、店の奥の小さなリビングと、よく冷えた白ワイン。
チーズを少し。
黒糖プリンを少し。
そして、古い映画を観るにはちょうどいい、夜の静けさ。
観客はいつも二人だった。
玲奈と亮介。
閉店作業を終えたあと、灯りを落とし、映画を一本観る。
玲奈が作品を選び、亮介がグラスを並べる。
時々、亮介が途中で余計な感想を言い、玲奈が真面目に解説する。
それが二人の、ささやかな楽しみだった。
その夜、奈央は閉店時間まで「しおかぜ」に残っていた。
保育園の仕事帰りに立ち寄り、島野菜サンドを食べ、黒糖プリンをゆっくり味わい、少しだけ手芸部の話をしていたら、いつの間にか外は暗くなっていた。
「すみません、長居しちゃって」
奈央が慌てて立ち上がろうとすると、玲奈がグラスを拭きながら言った。
「今日は定休日前なので、急がなくても大丈夫です」
「そうなんですか?」
「はい」
亮介が横から笑う。
「このあと名画座しおかぜが開館します」
奈央は首を傾げた。
「名画座?」
玲奈は少しだけ照れたように視線を落とした。
「閉店後に映画を観るだけです」
「玲奈さんとリョウさんで?」
「はい」
奈央は少し羨ましそうに笑った。
「素敵ですね」
玲奈は一瞬黙った。
それから、自然に言った。
「もし時間があるなら、一緒に観ていきますか」
奈央は驚いた。
「私もいいんですか?」
「はい。今日は三人でも悪くありません」
亮介が嬉しそうに言う。
「名画座しおかぜ、初の一般客だね」
「奈央さんは一般客ではありません」
玲奈はすぐ訂正した。
「常連待遇です」
奈央は少し照れた。
上映作品は、不朽の名作『タイタニック』だった。
豪華客船を舞台に、身分も境遇も違う若い男女が出会い、短い時間の中で強く惹かれ合っていく物語。
恋愛映画であり、時代の映画であり、人が極限の中で何を選ぶのかを描いた大きな物語でもある。
映画が始まると、奈央はすぐに画面へ引き込まれた。
「これ、昔テレビで少し見たことあります」
「名作ですからね」
玲奈が静かに言う。
「ただ、恋愛映画としてだけ見ると少しもったいないです」
亮介がワインを注ぎながら笑った。
「玲奈先生の映画講座、始まりました」
「静かに観てください」
「はい」
物語が進む。
華やかな船内。
階級の違い。
自由を求める若い女性。
何も持たないが、自分の人生を自分で楽しむ若い男性。
奈央はぽつりと言った。
「あの男の人、すごく自由ですね」
亮介がすぐ反応する。
「分かる。ああいう男はモテる」
玲奈が横目で見る。
「経験者の意見ですか」
「昔の話です」
「聞いていません」
奈央は笑った。
「でも、ちょっと分かります。ああいう人に出会ったら、自分も変われそうって思うかも」
玲奈は頷いた。
「彼は恋愛対象というより、彼女にとって“別の人生の扉”だったのだと思います」
「扉……」
「はい。自分で選ぶ人生への」
奈央は少し黙った。
東京の保育園で疲れ果て、南ぬ島へ来た自分のことを少し思い出していた。
自分も、別の人生の扉を探して島へ来たのかもしれない。
中盤、二人の距離が近づいていく場面で、奈央はすっかり夢中になっていた。
「レオ様、若いですね……」
玲奈も珍しく素直に頷く。
「非常に魅力的ですね」
亮介がぴくりと反応した。
「玲奈さんまで?」
「事実です」
「そんなに?」
奈央が力を込める。
「リョウさん、これは仕方ないです」
「奈央ちゃんまで」
玲奈はワインを口元へ運びながら言った。
「表情が良いですね。無邪気さと危うさが同居しています」
奈央も頷く。
「あと目が綺麗です」
「分かります」
亮介は少し不服そうだった。
「俺も若い頃は爽やか系ラガーマンだったんですけど」
玲奈は即答した。
「今は皿下げ担当です」
「格差がすごい」
奈央は声を出して笑った。
映画は後半へ進む。
楽しかった空気が少しずつ変わる。
人々の表情から余裕が消え、巨大な船の中に、不安と混乱が広がっていく。
玲奈の目が変わった。
元警察官の目だった。
「初動が遅いですね」
亮介が苦笑する。
「また職業病だ」
「避難誘導、情報共有、優先順位。すべて混乱しています」
奈央は涙を拭きながら言う。
「でも、あの状況で冷静に動けますかね」
玲奈は少し考えた。
「難しいです。だからこそ、平時の備えが重要なんです」
亮介も静かに言った。
「人間って、追い込まれた時に本性が出るんだろうね」
玲奈は亮介を見た。
その言葉には、彼自身の過去も滲んでいた。
映画の終盤、三人はほとんど喋らなくなった。
奈央は涙をこぼした。
玲奈は背筋を伸ばしたまま画面を見つめた。
亮介はグラスを持ったまま、ずっと動かなかった。
エンドロールが流れる。
誰もすぐには口を開かなかった。
潮風が窓を揺らし、遠くで波の音がした。
最初に話したのは奈央だった。
「恋愛映画だと思ってたけど……違いました」
玲奈が頷く。
「恋愛映画でもあります。でも、それだけではありません」
「生きる映画ですね」
「はい」
奈央は少し涙声で言った。
「私は、最後まで生きて、自分の人生を続けたところが好きです。恋で終わらないのが、すごく良かった」
玲奈は静かに微笑んだ。
「私もそこが好きです。誰かに出会って変わったあと、その人がいない人生をどう生きるか。そこに本当の強さがあると思います」
亮介はグラスを置いた。
「俺は……あの男みたいにはできないな」
「何がですか」
玲奈が聞く。
「好きな人を前に押し出すこと」
亮介は少し笑った。
「俺だったら、たぶん一緒に助かろうとして、最後までじたばたする」
玲奈は言った。
「亮介さんらしいですね」
「格好悪い?」
「いいえ」
少し間を置いて、玲奈は続けた。
「私は、そういう人の方が嫌いではありません」
亮介は一瞬黙った。
奈央は、その沈黙を見て少しだけ笑った。
玲奈と亮介は、夫婦ではないと言う。
恋人でもないと言う。
共同経営者だと言う。
けれど、今の短いやり取りだけで十分だった。
この二人は、スクリーンの外でちゃんと恋をしている。
派手な言葉はない。
抱き合う場面もない。
ただ、相手の弱さを知って、それでも隣に座っている。
それが奈央には、とても大人の恋に見えた。
「玲奈さんは、もしあの場面にいたらどうします?」
奈央が聞く。
玲奈は少し考えた。
「まず状況を確認します」
亮介が笑う。
「元警察官だ」
「次に避難経路を確保します」
「やっぱり元警察官だ」
「その後、亮介さんが余計なことをしないように見張ります」
「俺、そこでも見張られるんですか」
「当然です」
奈央は涙の残った顔で笑った。
笑いながら、少し楽になった。
恋愛映画を観たはずなのに、奈央が一番胸に残ったのは、恋そのものではなかった。
誰かと同じ物語を観て、違う感想を持ち寄ること。
泣く場所が違っても、笑う場所が違っても、同じ部屋にいられること。
それが少し羨ましかった。
帰り際、奈央は言った。
「また来てもいいですか、名画座しおかぜ」
玲奈は少し照れた。
「上映作品によります」
亮介が言う。
「つまり歓迎です」
「勝手に翻訳しないでください」
「でも合ってますよね」
玲奈は答えなかった。
それが答えだった。
奈央が帰ったあと、玲奈と亮介は残ったグラスを片づけた。
亮介がぽつりと言う。
「三人で観るのも悪くないですね」
玲奈は頷いた。
「そうですね」
「でも、レオ様談義はほどほどでお願いします」
「嫉妬ですか」
「少しだけ」
玲奈は珍しく小さく笑った。
「では次回は、亮介さんが格好よく見える映画を選びます」
「そんな映画あります?」
「探します」
「探すんだ」
外では夜の潮風が吹いていた。
世界で一番小さく、世界で一番贅沢な映画館。
しおかぜ名画座。
その夜、観客は三人だった。
スクリーンの中では大きな恋が終わり、スクリーンの外では、小さな優しさが静かに続いていた。




