園児の一言が、いちばん難しい ――ないちー保育士、島ことばに完全敗北する
南ぬ島に移住して、もうすぐ二年。
小川奈央は、少しずつ島の暮らしに慣れてきた。
車の運転は、玲奈教官の厳しい特訓でどうにか形になった。
保育園の壁面飾りも、閉店後の「しおかぜ放課後クラフト部」で少しずつ上達した。
台風の準備も、最初の頃ほど慌てなくなった。
けれど、まだどうしても勝てない相手がいた。
島ことばである。
奈央は千葉県松戸市出身。話す言葉はほぼ標準語、少し東京寄りの関東弁だった。
都内の保育園では、それで困ることはなかった。
だが南ぬ島では違う。
ある日の保育園。
園児の男の子が、砂場から走ってきた。
「せんせー、あきさみよー、たーがくぬくぬしたばー?」
奈央は固まった。
「……え?」
男の子はさらに早口になる。
「だからさー、まぎーやつが、あっちでどぅまんぎてるわけさー」
「……え?」
「せんせー、わからんばー?」
「ごめん、もう一回ゆっくり言ってくれる?」
男の子は真顔で言った。
「ゆっくり言っても同じさー」
奈央は、その日も島ことばに敗北した。
仕事帰り、奈央は「しおかぜ」に駆け込んだ。
「玲奈さん、園児の言葉が分かりません」
玲奈はコーヒーを淹れながら静かに頷いた。
「私も最初は分かりませんでした」
「玲奈さんでも?」
「はい。神戸弁とも違いますし、文脈で補うしかありませんでした」
そこへ亮介が現れる。
「どうしたの?」
奈央が説明すると、亮介は明るく笑った。
「ああ、島ことばね。俺も半分以上分かってないよ」
奈央は目を丸くした。
「リョウさんもですか?」
「うん。おじい達が釣り場で盛り上がってる時、大体分かってない」
玲奈が呆れる。
「それでよく会話が成立していますね」
「雰囲気で頷いてます」
「成立していません」
奈央は少しだけ安心した。
亮介は島の人たちに溶け込んでいるように見える。釣り仲間もいるし、常連のおじい達ともよく笑っている。
それでも分かっていない。
自分だけではないのだと思えた。
玲奈は言った。
「講座を開きましょう」
「講座?」
「島ことば講座です」
数日後。
閉店後の「しおかぜ」に、なぜか常連が集まっていた。
講師は、おじいとおばあ達。
生徒は、奈央、玲奈、亮介。
看板には亮介の字でこう書かれていた。
第一回・しおかぜ島ことば講座
ないちー向け初級編
玲奈は看板を見て眉を寄せた。
「初級編で収まりますか」
「収まらない気がします」
亮介は笑った。
まずは基本から始まった。
おばあが言う。
「まーさん」
奈央が答える。
「おいしい」
「正解さー」
拍手。
次。
「でーじ」
玲奈が即答する。
「とても、非常に」
「正解さー」
次。
「なんくるないさー」
亮介が得意げに言う。
「なんとかなる!」
「まあ正解さー」
亮介は胸を張った。
「俺、いけるかも」
玲奈は冷静に言う。
「まだ観光パンフレット級です」
「厳しい」
講座は少しずつ難しくなる。
おじいが言う。
「ありんくりん」
奈央、玲奈、亮介が同時に黙る。
「……」
おばあが笑った。
「何でもかんでも、って意味さー」
奈央はメモを取る。
「ありんくりん……何でもかんでも……」
次。
「ちむどんどん」
奈央が言う。
「胸がどきどきする?」
「正解さー」
亮介が横から言う。
「玲奈さんを見る時の俺ですね」
玲奈は即答した。
「不要な例文です」
店内が笑いに包まれる。
しかし、問題はここからだった。
おじい達が実演会話を始めたのだ。
島ことばが一気に濃くなる。
奈央は真剣に聞く。
玲奈も聞く。
亮介も一応聞く。
三十秒後。
三人とも顔が同じになった。
完全に分かっていない顔だった。
玲奈が代表して聞く。
「今の会話の内容は?」
おじいが笑う。
「明日の天気の話さぁ」
亮介が驚く。
「え、魚の話じゃなかったんですか?」
奈央も呟く。
「私は誰かが怒られているのかと……」
おばあ達は大爆笑した。
「まだまださぁ!」
島ことば講座を開いてもらっても、分からない言葉は山ほどあった。
むしろ、分からない世界の広さを思い知っただけかもしれない。
奈央は少し肩を落とす。
「やっぱり難しいですね」
すると、おばあが黒糖プリンを食べながら言った。
「分からんかったら聞けばいいさぁ」
奈央は顔を上げる。
「聞いてもいいんですか」
「当たり前さぁ」
別のおじいも頷く。
「分かったふりが一番困るさぁ」
亮介は小さく咳払いした。
玲奈が見る。
「亮介さん」
「はい」
「身に覚えがありますね」
「大いにあります」
また笑いが起きた。
おばあは続ける。
「奈央ちゃんは、ちゃんと聞くからいいさぁ。園児もそのうち教えてくれるさぁ」
「子供に教わるんですか」
「それが一番早いさぁ」
奈央は少し笑った。
保育士なのに、園児に通訳してもらう。
少し情けない。けれど、少し楽しいかもしれない。
講座の最後、玲奈は真面目にノートを閉じた。
「勉強になります」
本気だった。
神戸で生まれ、兵庫県警で働き、戦隊ヒロインとして全国を回った玲奈でも、まだ知らない言葉がある。
知らない文化がある。
それを学ぶ姿勢を崩さない玲奈を、奈央は少し尊敬した。
そこへ亮介が余計なことを言う。
「次は玲奈さんの神戸訛りの関西弁講座もやりますか?」
玲奈は即答した。
「不要です」
「需要あるかもしれませんよ」
「ありません」
「元警部補が教える、怖く聞こえない神戸弁講座」
「不要です」
「戦隊ヒロイン式・上品な関西弁」
「不要です」
「玲奈さん取扱説明書」
玲奈は静かに亮介を見る。
「帰りますか」
亮介はすぐ頭を下げた。
「すみませんでした」
奈央は声を出して笑った。
帰り道。
南ぬ島の夜風はやわらかかった。
奈央は、今日覚えた言葉を小さく口に出してみる。
「まーさん、でーじ、ありんくりん……」
まだまだ分からない。
明日も園児に「せんせー、わからんばー?」と言われるかもしれない。
おじい達の会話は、たぶん半分も聞き取れない。
保護者との立ち話で、また愛想笑いをするかもしれない。
それでも、少しだけ気持ちは軽かった。
分からないことは、恥ではない。
分からないまま島にいてもいい。
聞けば、誰かが笑いながら教えてくれる。
それがこの島なのだと、奈央は少し分かった気がした。
背中の向こうで、「しおかぜ」の灯りがまだ揺れている。
黒糖プリンの店。
玲奈と亮介の店。
ないちーの自分が、ないちーのまま息をつける場所。
奈央は夜道を歩きながら、ふと思った。
もう少しだけ、この島の言葉を覚えてみよう。
全部分からなくてもいい。
分かろうとする自分を、もう少しだけ続けてみよう。
翌朝。
保育園で園児が言った。
「奈央せんせー、今日でーじ暑いさー」
奈央は胸を張って答えた。
「でーじ、分かるよ。すごく、でしょ」
園児はにこっと笑った。
「せんせー、ちょっと島の人みたいさー」
奈央は少しだけ照れた。
その一言だけで、昨日の講座は十分に成功だった。




