春の引っ越し便はまだ来ない ――しおかぜ、帰りたい夜の話を聞く
小川奈央が「しおかぜ」に来たのは、夕暮れが少し早くなった春の終わりだった。
千葉県松戸市出身。
都内の保育園で働き、心身ともに疲れ果て、南ぬ島の自然に惹かれて石垣へ移住してきた保育士。
青い海。
白い雲。
ゆっくり流れる時間。
最初は、その全部に救われた気がした。
けれど、暮らすことは旅とは違った。
島の人は優しい。
でも距離が近い。
噂も早い。
職場の人間関係も、内地とは違う難しさがある。
方言が分からず、空気が読めず、気を遣いすぎて疲れる夜もある。
以前、奈央は一度「本土へ帰るかもしれません」と玲奈と亮介に相談したことがある。
その時、二人は引き留めなかった。
「向いてないなら帰ればいいです」
玲奈はそう言った。
冷たい言葉のようで、奈央には救いだった。
無理に頑張れと言われなかったから、もう少しだけ頑張れた。
でも、また限界が来た。
閉店間際の「しおかぜ」。
奈央は島野菜サンドを半分残したまま、ぽつりと言った。
「やっぱり、帰ろうかなって思ってます」
亮介は何も言わなかった。
玲奈もすぐには答えなかった。
外では潮風が看板を揺らしている。
店内には黒糖プリンの甘い香りが残っていた。
「帰りたいんですか」
玲奈が静かに聞く。
奈央は少し迷ってから答えた。
「帰りたいのか、逃げたいのか、分からないです」
その言葉に、亮介が少しだけ笑った。
「分かります」
奈央は驚いた。
「リョウさんもですか?」
「毎日逃げたかったですよ。門司港からこっちに来たばかりの頃は」
亮介はコーヒーを淹れながら言った。
「俺の場合、帰る場所もそんなになかったですけどね」
普段は陽気な亮介が、少しだけ静かな顔をしていた。
「四国の山奥で育って、高校まではラグビーばっかり。真面目だったんです。でも都会に出て、遊びを覚えて、金に目がくらんで、いろんな人を騙した。刑務所にも入りました」
奈央は黙って聞いていた。
亮介は続ける。
「出てから門司港で働いて、ここに来ました。でも最初は、自分がここにいていいのか分からなかった。玲奈さんの店に立つ資格なんてないと思ってた」
玲奈はカウンターを拭きながら、何も否定しなかった。
今度は玲奈が口を開いた。
「私は神戸で生まれて、兵庫県警の警部補でした。仕事は嫌いではありませんでした。でも、容姿のことで広告塔のように扱われたり、戦隊ヒロインプロジェクトに出向したり、望まない形で人前に立つことも多かった」
奈央は玲奈を見る。
女優のように綺麗で、いつも冷静な店主。
そんな人にも、居場所に迷う時間があったのだ。
「この島に来た時も、すぐに馴染めたわけではありません」
玲奈は言った。
「今でも、自分は完全な島の人だとは思っていません」
「玲奈さんでも?」
「はい」
奈央は少し驚いた。
集落清掃にも出る。
旧盆にも参加する。
家庭菜園をおばあたちに教わり、常連客から愛され、観光客にも人気の店を切り盛りしている。
そんな玲奈でも、そう思っている。
「でも、それでいいと思っています」
玲奈は続けた。
「無理に島の人になろうとすると苦しくなります。毎日できることをする。挨拶する。働く。困ったら助けてもらう。助けられる時は助ける。それだけで、少しずつ居場所になります」
奈央の目に涙が浮かぶ。
「私、向いてないのかなって」
亮介が言った。
「向いてないなら帰ってもいいと思います」
奈央は顔を上げた。
玲奈も頷く。
「帰ることは負けではありません」
「でも、残ることも偉いわけじゃないです」
亮介が続けた。
「どっちを選んでも、奈央さんの人生です」
奈央は涙を拭いた。
「引き留めないんですね」
玲奈は静かに答える。
「引き留めてほしいんですか」
奈央は少し考えた。
そして首を振った。
「分からないです」
「なら、まだ決めなくていいです」
玲奈は黒糖プリンを一つ出した。
「食べてください」
「え?」
「判断力が落ちています」
亮介が笑う。
「しおかぜ式の人生相談です。まず糖分」
奈央は泣き笑いしながらスプーンを持った。
黒糖プリンは、いつも通り優しい味だった。
甘すぎず、少し苦く、ゆっくり胸に落ちていく。
数日後。
奈央はまた「しおかぜ」に来た。
今度は少しだけ表情が明るかった。
「引っ越し便、まだ呼ばないことにしました」
亮介が笑う。
「ということは?」
奈央は窓の外の海を見た。
「この島、やっぱり好きなんです」
玲奈は静かに頷いた。
「それなら、もう少しいればいいと思います」
「はい。もう少し頑張ってみます」
亮介が黒糖プリンを置く。
「頑張る人用です」
奈央は笑った。
「毎回プリンですね」
「しおかぜですから」
春の引っ越し便は、まだ来ない。
奈央の悩みが消えたわけではない。
島暮らしの厳しさも、職場の難しさも、寂しい夜も、これからまた来る。
それでも、帰るか残るかを急がなくていい場所がある。
泣きたい夜に話を聞いてくれる店がある。
玲奈と亮介がいる。
南ぬ島の夕暮れの中、「しおかぜ」の灯りが静かについた。
奈央はもう一度、自分の足でこの島に立ってみることにした。
帰るためではなく、もう少しだけ、好きな場所で暮らしてみるために。




