映画が終わっても、まだ隣にいる ――定休日の前夜、潮風はスクリーンの外で吹いている
エンドロールが流れていた。
白黒の画面に並ぶ英語の文字を眺めながら、玲奈はワイングラスを指先でゆっくり回した。
部屋の照明は落としてある。
リビングにはテレビの淡い光だけが残り、窓の外では台風の風が木々を揺らしていた。
けれど、その音は不思議と遠い。
二人はまだ映画の中にいた。
『カサブランカ』。
1942年公開。
ハンフリー・ボガート演じるリック・ブレインと、イングリッド・バーグマン演じるイルザ・ラントの物語。
戦争に翻弄される人々が集まる北アフリカの街カサブランカ。
亡命者たちが自由を求め、希望を求め、明日の保証もないまま生きる場所。
そこで再会する、かつて愛し合った男女。
恋愛映画として語られることが多い作品だが、玲奈はずっと違う見方をしていた。
この映画は、
愛する人をどう手放すかの物語だと。
画面が暗くなる。
それでも二人は動かない。
しばらくして亮介が息を吐いた。
「いやぁ……」
玲奈が微笑む。
「どうでしたか」
「面白かったです」
「それは良かったです」
「でも」
亮介は首を傾げる。
「古い映画なのに全然古く感じませんね」
玲奈は少し嬉しくなった。
こういう感想が好きだった。
知識ではなく、素直な驚き。
「それは凄いことなんです」
「そうなんですか」
「八十年以上前の映画ですよ」
亮介は少し驚いた顔をする。
「八十年?」
「1942年です」
「戦争中じゃないですか」
「戦争中です」
玲奈は少し身を乗り出した。
好きな話題だった。
「この作品が撮影された頃は第二次世界大戦の真っ最中です」
「へぇ」
「ヨーロッパ中で人々が故郷を失っていました」
「なるほど」
「だから映画の中に出てくる亡命者たちも、ただの設定ではありません」
「本当にいたんですね」
「そうです」
亮介はワインを飲む。
興味があるのかないのか分からない顔をしている。
だがちゃんと聞いている。
玲奈はそれを知っていた。
「カサブランカという街も実在します」
「モロッコでしたっけ」
「正解です」
「褒められた」
「珍しいので」
「失礼だなぁ」
玲奈は少し笑った。
こんな会話が好きだった。
映画館では味わえない時間。
映画を観るだけなら一人でもできる。
でも。
映画について誰かと話す時間は、一人では作れない。
「しかし」
亮介がグラスを置いた。
「ボガート格好いいですね」
結局そこだった。
玲奈は吹き出しそうになる。
「リックですね」
「そう、その人」
「ハンフリー・ボガートは俳優です」
「玲奈先生、細かい」
「大事です」
「でも本当に格好いい」
亮介は真面目な顔になる。
「俺なら無理です」
「何がですか」
「最後」
玲奈は頷く。
分かっていた。
「イルザを送り出すところですか」
「そう」
亮介は少し考える。
「好きな人を手放すって難しくないですか」
玲奈はグラスを傾ける。
白ワインの香りが立つ。
「難しいと思います」
「俺なら飛行機に乗ります」
「知っています」
「絶対乗ります」
「知っています」
「しつこいくらい乗ります」
「最低ですね」
「ですよね」
二人は笑った。
玲奈は思う。
亮介は映画の知識がない。
俳優も知らない。
映画史も知らない。
だが人の感情には敏感だ。
だから彼は、
作品の構造ではなく、
登場人物の心を見ている。
「玲奈さんは何が好きなんですか」
「この作品ですか」
「はい」
玲奈は少し考えた。
「品格です」
「品格?」
「ええ」
「難しいなぁ」
「リックは最後までイルザを愛しています」
「はい」
「それでも別れる」
「うん」
「好きだから手放す」
亮介は腕を組む。
「やっぱり俺には分からないなぁ」
玲奈は少し笑う。
「そういうところです」
「何がですか」
「亮介さんらしいところです」
亮介はきょとんとする。
玲奈は続きを言わない。
好きなら一緒にいたい。
離れたくない。
理屈より先に感情が来る。
そういうところが少し可愛らしいと思う。
昔なら認めなかった。
今は認められる。
むしろ好きだった。
窓の外では風が強くなっている。
台風が近づいている。
けれど部屋の中は暖かい。
映画の中には戦争があった。
別れがあった。
二度と会えないかもしれない不安があった。
玲奈はふと思う。
リックもイルザも。
あの時代を生きた人たちも。
本当に欲しかったものは案外単純だったのではないか。
好きな人が隣にいること。
安心して映画を観られる夜があること。
明日もまた会えること。
それだけだったのかもしれない。
「チーズ切ってきます」
玲奈が立ち上がる。
「まだ飲むんですか」
「定休日ですから」
「便利な言葉ですね」
「便利です」
冷蔵庫を開けながら、玲奈は少しだけ振り返る。
亮介はまだ余韻の中にいた。
きっとリックのことを考えている。
あるいはイルザのことかもしれない。
そういう顔を見るのも好きだった。
「もう一本観ますか」
亮介の顔が明るくなる。
「いいんですか」
「定休日ですから」
「最高ですね」
玲奈は微笑んだ。
世界で一番小さくて。
世界で一番贅沢な映画館。
今夜の上映作品は『カサブランカ』だった。
そしてその映画館は、静かに閉館する。
次回の開館は、おそらくまた「しおかぜ」の定休日前夜。
ワインを冷やし。
チーズを用意し。
好きな人の隣に座る夜。
玲奈にとって、それはどんなプレミアムシートより価値のある特等席だった。




