映画が終わっても、まだ隣にいる ――定休日の前夜、潮風はスクリーンの外で吹いている
定休日の前の夜だけ、「しおかぜ」には少し違う空気が流れる。
翌朝の仕込みに追われなくていい。
早起きして畑に出る必要もない。
観光客の予約表を確認しなくてもいい。
常連のおばあたちの「玲奈ちゃん、今日プリンある?」という声も、明日だけは聞こえない。
その日の「しおかぜ」は、台風接近の知らせもあって、少し早めに灯りを落とした。
外では風が強くなっていた。
軒先の風鈴は外して、店内の棚に避難させてある。
テラス席の椅子も、植木鉢も、看板も、すべて片づけた。
玲奈は最後に冷蔵庫を確認し、亮介は床を拭いた。
「終わりましたね」
亮介が言う。
玲奈はレジを締めながら頷いた。
「終わりました」
「明日は休みですね」
「はい」
亮介は少しだけ嬉しそうに笑った。
「この響き、いいですね」
「休みは休みです」
「玲奈さん、もう少し浮かれてもいいんですよ」
「浮かれています」
「どこがですか」
玲奈は冷蔵庫を開け、昨夜から冷やしておいた白ワインを取り出した。
「これです」
亮介は目を丸くした。
「かなり浮かれてますね」
「定休日の前夜ですから」
二人は店を出て、奥の自宅へ入った。
リビングは小さかったが、居心地はよかった。
木のテーブル、少し年季の入ったソファ、棚に並ぶ映画のディスクと配信サービスのリモコン。窓の外では、台風前の風が木々を揺らしている。
亮介がグラスを出す。
玲奈がワインを注ぐ。
小さな音を立てて、淡い金色がグラスに満ちた。
「映画は何にします?」
亮介が聞いた。
「お任せします」
「外したら?」
「少し怒ります」
「責任重大ですね」
亮介は悩んだ末に、少し古い海外映画を選んだ。
有名すぎる名作ではない。けれど、静かに胸へ染み込むような物語だった。
部屋の灯りを落とす。
画面に知らない街が映る。
知らない人が歩き、知らない雨が降り、知らない恋が始まる。
玲奈はソファに腰を下ろした。
すぐ隣に亮介が座る。
その距離が、何より落ち着いた。
警察官だった頃、玲奈は一人で映画を観るのが好きだった。
休日の昼下がり、神戸の映画館にひとりで入り、誰にも話しかけられず、誰の視線も気にせず、別の世界へ行く。
戦隊ヒロインだった頃もそうだった。
人に囲まれる仕事だったからこそ、暗い映画館の座席は逃げ場だった。
けれど今は、違う。
隣に亮介がいる。
玲奈はふと思った。
どんな高級な映画館のプレミアムシートより、ここがいい。
この小さなリビングのソファ。
台風前の風が窓を揺らす夜。
グラスに入った冷えたワイン。
そして隣にいる、少し手のかかる男。
ここが、自分にとって一番の特等席だった。
映画の中盤、物語は少し悲しくなった。
大切な人とすれ違い、言えなかった言葉が積み重なり、画面の中の二人は別々の道を歩き始める。
玲奈は黙って観ていた。
悲しい場面は、苦手ではない。
むしろ好きだった。
人が何を失い、何を抱えて生きていくのかを見るのは、どこか救いでもある。
けれど今夜は、隣に亮介がいた。
だから大丈夫だった。
亮介は真剣な顔で映画を観ていた。
普段は軽口が多い男なのに、こういう場面では意外なほど黙る。
玲奈は横顔を少しだけ見た。
この人は、今どんな気持ちで観ているのだろう。
誰を思い出しているのだろう。
何に胸を痛めているのだろう。
同じ映画を観ても、感じる場所はきっと違う。
泣きたくなる場面も、笑いたくなる台詞も、人によって違う。
それがいい。
亮介の心を、もっと見たいと思った。
やがてクライマックスが近づく。
主人公が走る。
追いかける。
間に合うかどうか分からない。
言葉が届くかどうか分からない。
二人は自然に黙り込んだ。
ワインのグラスにも手が伸びない。
外では風が強くなり、窓が小さく鳴った。
それでも気にならなかった。
二人は今、スクリーンの向こう側へ旅をしていた。
南ぬ島の小さなリビングから、別の街へ。
別の人生へ。
別の恋へ。
映画が終わった。
エンドロールが流れる。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
先に口を開いたのは亮介だった。
「……良かったですね」
玲奈は小さく頷く。
「良かったです」
「最後、泣きそうになりました」
「泣いてもよかったですよ」
「見ますよね」
「見ます」
亮介は苦笑した。
「じゃあ我慢して正解でした」
玲奈は少しだけ笑った。
「残念です」
その言葉は、からかいのようで、少し本音でもあった。
亮介が泣くところを見てみたかった。
弱さを隠さず、自分の隣で感動する姿を、そっと見てみたかった。
玲奈は立ち上がる。
「チーズを切ってきます」
「まだ飲むんですか?」
「明日は定休日です」
「それ、万能の理由ですね」
「もう一本、映画を観ましょう」
亮介は嬉しそうに目を細めた。
「いいですね」
玲奈は冷蔵庫の前でチーズを取り出しながら、ふと笑った。
名画でなくてもいい。
誰もが褒める作品でなくてもいい。
亮介と観れば、きっと少し特別になる。
感じ方が違えば、それも楽しい。
同じ場面で笑えたら嬉しい。
違う場面で黙り込んだら、その理由を知りたい。
胸に染み込むような物語を、これからも一緒に観たい。
悲しい場面も、隣に亮介がいれば、きっと大丈夫だ。
リビングへ戻ると、亮介が次の映画を探していた。
「感動系にします?」
「任せます」
「また責任重大ですね」
「外したら、少し怒ります」
「さっきと同じだ」
玲奈はチーズの皿を置き、グラスへ少しだけワインを足した。
外では台風の風が強くなっていた。
けれど、部屋の中は暖かかった。
映画。
ワイン。
チーズ。
定休日の前夜。
そして、隣にいる人。
世界で一番小さく、世界で一番贅沢な映画館が、その夜の南ぬ島にだけ開いていた。
映画が終わっても、まだ隣にいる。
玲奈にとって、それが何より嬉しかった。




