潮風より少し苦い珈琲 ――元詐欺師が、本当に失いたくないもの
閉店後の「しおかぜ」は、昼間の賑わいが嘘のように静かだった。
黒糖プリンを食べに来た観光客も、島野菜サンドを目当てに来た移住者も、夕方まで粘っていた常連のおばあたちも帰っていった。テラス席には地域猫が一匹だけ残り、風鈴が潮風に揺れている。
亮介はテーブルを拭きながら、ふと海を見た。
南ぬ島の夜は、派手ではない。
ネオンもない。
高い酒もない。
誰かに見栄を張る必要もない。
あるのは、波の音と、コーヒーの残り香と、厨房で片づけをする玲奈の気配だけだった。
昔の自分なら、こんな暮らしを退屈だと思ったはずだ。
四国の山奥で育った亮介は、高校までは真面目なラガーマンだった。泥だらけになって走り、仲間と肩を組み、勝った負けたで泣いた。あの頃は、人生がそんなに複雑になるとは思っていなかった。
けれど都会の大学へ出て、遊びを覚えた。
金。
女。
酒。
見栄。
成功した男のふり。
キャバクラの黒服、風俗店の従業員、闇金、商品先物の怪しい営業。口が回る。人の懐に入るのがうまい。女にも困らない。元ラガーマンらしい体格と爽やかな笑顔は、詐欺師としては都合がよすぎる武器だった。
二度結婚し、二度離婚した。
本気で愛していたのかと問われれば、今なら首を振れる。
あの頃の自分が愛していたのは、相手ではない。
相手から得られる金、承認、逃げ場所、優越感だった。
そんな男が今、南ぬ島で皿を洗い、畑を手伝い、釣りを覚え、黒糖プリンを運んでいる。
そして、ようやく知ってしまった。
普通に生きることの価値を。
朝起きる。
玲奈がいる。
店を開ける。
客が来る。
猫が寝ている。
おじいに釣りをからかわれる。
おばあに畑仕事を笑われる。
夜、店を閉める。
また玲奈がいる。
それだけのことが、こんなにも大きい。
「亮介さん」
厨房から玲奈の声がした。
「はい」
「テラス席、まだ終わっていません」
「今やってます」
「見ていました。海を見ていました」
「監視が厳しいですね」
玲奈は表情を変えずに言う。
「悪さしないように見張っていますから」
亮介は笑った。
昔なら、見張られることなど嫌だった。
疑われることも、縛られることも、逃げ場を失うことも耐えられなかった。
けれど今は違う。
玲奈に見張られていることが、少し嬉しい。
自分をまだ見てくれている。
諦めずに、目を離さずにいてくれる。
それは亮介にとって、罰ではなく、居場所の証のようなものだった。
「一生見張るんですか」
「必要なら」
「刑期が長いですね」
「あなたの返済予定は117歳までです」
「じゃあ、そのくらいまでですか」
「その後もです」
亮介は吹き出した。
「終身刑ですね」
「再犯防止です」
「ありがたいです」
玲奈は少しだけ眉を動かした。
「普通は嫌がるところです」
「玲奈さんなら、いいです」
その言葉に、玲奈は一瞬だけ黙った。
それから何事もなかったようにカップを二つ用意した。
「コーヒーを淹れます」
「苦いやつですか」
「今日は少し苦めです」
「今の俺にはちょうどいいです」
テラス席に二人で座る。
夜の海は静かだった。遠くに漁船の灯りが見える。地域猫が亮介の足元に寄ってきて、当たり前のように丸くなった。
亮介には、巨額の債務がある。
被害者への賠償金。
慰謝料。
養育費。
返しても返しても減らない数字。
許されるとは思っていない。
過去が消えるとも思っていない。
騙した人たちの顔も、静かな怒りも、失望も、たぶん一生背負う。
けれど、今いちばん怖いのは金額ではなかった。
玲奈に捨てられることだった。
もし玲奈がある日、静かに言ったら。
「もう無理です」
その一言だけで、亮介はたぶん立っていられなくなる。
刑務所より怖い。
賠償金より怖い。
被害者の怒りより怖い。
自分のような男を、ここまで連れてきた人を失うことが、今の亮介には何より怖かった。
「玲奈さん」
「はい」
「俺、今が一番幸せです」
玲奈はカップを置く手を止めた。
「そうですか」
「昔の方が金はありました」
「知っています」
「派手でした」
「知っています」
「女にも困りませんでした」
玲奈の視線が少し冷えた。
「そこは詳細不要です」
「すみません」
亮介は苦笑した。
「でも、今の方がずっと楽しい」
玲奈は何も言わなかった。
亮介は海を見た。
「普通に店を開けて、普通に働いて、普通に怒られて、普通に明日が来る。昔は、そういうものを馬鹿にしてました」
「今は?」
「宝物みたいです」
玲奈は静かにコーヒーを飲んだ。
少し苦い香りが、潮風に混ざる。
「私は、あなたを許しているわけではありません」
「分かっています」
「過去がなくなるわけでもありません」
「はい」
「でも、今のあなたは、しおかぜの人です」
亮介は玲奈を見た。
玲奈は海を見たまま続ける。
「皿を下げる人です。猫に好かれる人です。畑では時々邪魔ですが、力仕事はできます。おじいに釣りを教わって、常連にからかわれて、観光客に笑顔で接客する人です」
「それ、褒めてます?」
「事実です」
亮介は笑った。
「ありがとうございます」
「調子に乗らないでください」
「はい」
沈黙が心地よかった。
昔の亮介は、沈黙が嫌いだった。
話していないと不安だった。
笑わせていないと、口説いていないと、相手の心を掴んでいないと怖かった。
今は違う。
玲奈と黙って海を見る時間が、何より贅沢だった。
「明日も見張りますか」
亮介が聞いた。
玲奈は当然のように答える。
「見張ります」
「明後日も?」
「見張ります」
「117歳まで?」
「最低でも」
「長いなあ」
「長生きしてください」
亮介はカップを両手で包んだ。
「します」
その声は、いつもの軽口ではなかった。
玲奈もそれを分かっていた。
「逃げないでください」
「逃げません」
「楽して儲けようとしないでください」
「しません」
「若い女性客に調子に乗らないでください」
「努力します」
玲奈が横を見る。
亮介は慌てて言い直した。
「しません」
玲奈は小さく頷いた。
夜風が吹いた。
風鈴が、ちりんと鳴る。
南ぬ島で、亮介はようやく普通に生きることの価値を知ってしまった。
派手な酒より、玲奈の淹れる少し苦い珈琲がいい。
高級時計より、明日の仕込み表がいい。
口先で奪う金より、皿を下げて得る小さな給料がいい。
嘘で作った居場所より、怒られながら座るこのテラス席がいい。
そして何より。
「見張っています」
そう言ってくれる玲奈がいる。
それだけで、亮介はまだ真人間になろうと思える。
「しおかぜ」の灯りは、夜の港へやわらかく漏れていた。
元詐欺師が本当に失いたくないものは、金でも名誉でもなかった。
明日の朝、玲奈がまたコーヒーを淹れてくれること。
ただそれだけだった。




