表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
131/148

潮風より少し苦い珈琲 ――元詐欺師が、本当に失いたくないもの

閉店後の「しおかぜ」は、昼間の賑わいが嘘のように静かだった。


黒糖プリンを食べに来た観光客も、島野菜サンドを目当てに来た移住者も、夕方まで粘っていた常連のおばあたちも帰っていった。テラス席には地域猫が一匹だけ残り、風鈴が潮風に揺れている。


亮介はテーブルを拭きながら、ふと海を見た。


南ぬ島の夜は、派手ではない。

ネオンもない。

高い酒もない。

誰かに見栄を張る必要もない。


あるのは、波の音と、コーヒーの残り香と、厨房で片づけをする玲奈の気配だけだった。


昔の自分なら、こんな暮らしを退屈だと思ったはずだ。


四国の山奥で育った亮介は、高校までは真面目なラガーマンだった。泥だらけになって走り、仲間と肩を組み、勝った負けたで泣いた。あの頃は、人生がそんなに複雑になるとは思っていなかった。


けれど都会の大学へ出て、遊びを覚えた。


金。

女。

酒。

見栄。

成功した男のふり。


キャバクラの黒服、風俗店の従業員、闇金、商品先物の怪しい営業。口が回る。人の懐に入るのがうまい。女にも困らない。元ラガーマンらしい体格と爽やかな笑顔は、詐欺師としては都合がよすぎる武器だった。


二度結婚し、二度離婚した。

本気で愛していたのかと問われれば、今なら首を振れる。


あの頃の自分が愛していたのは、相手ではない。

相手から得られる金、承認、逃げ場所、優越感だった。


そんな男が今、南ぬ島で皿を洗い、畑を手伝い、釣りを覚え、黒糖プリンを運んでいる。


そして、ようやく知ってしまった。


普通に生きることの価値を。


朝起きる。

玲奈がいる。

店を開ける。

客が来る。

猫が寝ている。

おじいに釣りをからかわれる。

おばあに畑仕事を笑われる。

夜、店を閉める。

また玲奈がいる。


それだけのことが、こんなにも大きい。


「亮介さん」


厨房から玲奈の声がした。


「はい」


「テラス席、まだ終わっていません」


「今やってます」


「見ていました。海を見ていました」


「監視が厳しいですね」


玲奈は表情を変えずに言う。


「悪さしないように見張っていますから」


亮介は笑った。


昔なら、見張られることなど嫌だった。

疑われることも、縛られることも、逃げ場を失うことも耐えられなかった。


けれど今は違う。


玲奈に見張られていることが、少し嬉しい。


自分をまだ見てくれている。

諦めずに、目を離さずにいてくれる。

それは亮介にとって、罰ではなく、居場所の証のようなものだった。


「一生見張るんですか」


「必要なら」


「刑期が長いですね」


「あなたの返済予定は117歳までです」


「じゃあ、そのくらいまでですか」


「その後もです」


亮介は吹き出した。


「終身刑ですね」


「再犯防止です」


「ありがたいです」


玲奈は少しだけ眉を動かした。


「普通は嫌がるところです」


「玲奈さんなら、いいです」


その言葉に、玲奈は一瞬だけ黙った。

それから何事もなかったようにカップを二つ用意した。


「コーヒーを淹れます」


「苦いやつですか」


「今日は少し苦めです」


「今の俺にはちょうどいいです」


テラス席に二人で座る。


夜の海は静かだった。遠くに漁船の灯りが見える。地域猫が亮介の足元に寄ってきて、当たり前のように丸くなった。


亮介には、巨額の債務がある。


被害者への賠償金。

慰謝料。

養育費。

返しても返しても減らない数字。


許されるとは思っていない。

過去が消えるとも思っていない。

騙した人たちの顔も、静かな怒りも、失望も、たぶん一生背負う。


けれど、今いちばん怖いのは金額ではなかった。


玲奈に捨てられることだった。


もし玲奈がある日、静かに言ったら。


「もう無理です」


その一言だけで、亮介はたぶん立っていられなくなる。


刑務所より怖い。

賠償金より怖い。

被害者の怒りより怖い。


自分のような男を、ここまで連れてきた人を失うことが、今の亮介には何より怖かった。


「玲奈さん」


「はい」


「俺、今が一番幸せです」


玲奈はカップを置く手を止めた。


「そうですか」


「昔の方が金はありました」


「知っています」


「派手でした」


「知っています」


「女にも困りませんでした」


玲奈の視線が少し冷えた。


「そこは詳細不要です」


「すみません」


亮介は苦笑した。


「でも、今の方がずっと楽しい」


玲奈は何も言わなかった。


亮介は海を見た。


「普通に店を開けて、普通に働いて、普通に怒られて、普通に明日が来る。昔は、そういうものを馬鹿にしてました」


「今は?」


「宝物みたいです」


玲奈は静かにコーヒーを飲んだ。


少し苦い香りが、潮風に混ざる。


「私は、あなたを許しているわけではありません」


「分かっています」


「過去がなくなるわけでもありません」


「はい」


「でも、今のあなたは、しおかぜの人です」


亮介は玲奈を見た。


玲奈は海を見たまま続ける。


「皿を下げる人です。猫に好かれる人です。畑では時々邪魔ですが、力仕事はできます。おじいに釣りを教わって、常連にからかわれて、観光客に笑顔で接客する人です」


「それ、褒めてます?」


「事実です」


亮介は笑った。


「ありがとうございます」


「調子に乗らないでください」


「はい」


沈黙が心地よかった。


昔の亮介は、沈黙が嫌いだった。

話していないと不安だった。

笑わせていないと、口説いていないと、相手の心を掴んでいないと怖かった。


今は違う。


玲奈と黙って海を見る時間が、何より贅沢だった。


「明日も見張りますか」


亮介が聞いた。


玲奈は当然のように答える。


「見張ります」


「明後日も?」


「見張ります」


「117歳まで?」


「最低でも」


「長いなあ」


「長生きしてください」


亮介はカップを両手で包んだ。


「します」


その声は、いつもの軽口ではなかった。


玲奈もそれを分かっていた。


「逃げないでください」


「逃げません」


「楽して儲けようとしないでください」


「しません」


「若い女性客に調子に乗らないでください」


「努力します」


玲奈が横を見る。


亮介は慌てて言い直した。


「しません」


玲奈は小さく頷いた。


夜風が吹いた。


風鈴が、ちりんと鳴る。


南ぬ島で、亮介はようやく普通に生きることの価値を知ってしまった。


派手な酒より、玲奈の淹れる少し苦い珈琲がいい。

高級時計より、明日の仕込み表がいい。

口先で奪う金より、皿を下げて得る小さな給料がいい。

嘘で作った居場所より、怒られながら座るこのテラス席がいい。


そして何より。


「見張っています」


そう言ってくれる玲奈がいる。


それだけで、亮介はまだ真人間になろうと思える。


「しおかぜ」の灯りは、夜の港へやわらかく漏れていた。


元詐欺師が本当に失いたくないものは、金でも名誉でもなかった。


明日の朝、玲奈がまたコーヒーを淹れてくれること。


ただそれだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ