潮風より静かな幸せ ――元警部補は、今日も“見張り役”を続ける
南ぬ島の朝は、静かに始まる。
観光客がまだホテルのベッドの中で夢を見ている頃、玲奈はもう「しおかぜ」の裏手にある小さな家庭菜園に立っている。
島オクラの葉に朝露が残っている。
ミニトマトは赤く色づき、ハンダマの紫がかった葉が風に揺れている。
島らっきょうの細い葉先には、南ぬ島の光が薄く宿っていた。
玲奈は軍手をはめ、土を確かめる。
「今日は水を控えめですね」
誰に言うでもなく呟く。
かつて兵庫県警の警部補だった女が、今は猫の額ほどの畑で島野菜を育てている。
神戸で生まれ育った。
青春時代は丹波篠山で過ごした。
警察官として働き、交通課で評価され、気がつけば「美人すぎる警察官」として県警のポスターに起用された。
望んだわけではない。
事件を追い、現場で汗をかく警察官でいたかった。
だが容姿端麗という理由で広告塔のように扱われ、経験も興味もなかったカラーガード隊にも入れられた。
その後は戦隊ヒロインプロジェクトへ出向。
大勢の観客の前で笑い、マイクを持ち、ステージに立った。
注目されることは嫌いではなかった。
誰かに必要とされるのも、悪くはなかった。
けれど、玲奈は今、はっきりと思う。
自分に一番合っていたのは、この暮らしだ。
黒糖プリンを仕込むこと。
島野菜サンド用の野菜を育てること。
ハンドメイド雑貨を少しずつ作ること。
地元のおじい、おばあにからかわれながら、観光客に珈琲を淹れること。
そして何より。
店の奥から聞こえる声。
「玲奈さーん、コーヒー豆どこでしたっけ?」
亮介の声だった。
玲奈は振り返らないまま答える。
「昨日と同じ場所です」
「昨日の場所を忘れました」
「問題です」
「助けてください」
玲奈は小さく息を吐いた。
けれど、その口元はほんの少し緩んでいた。
今日もいる。
その事実が、玲奈にはたまらなく嬉しかった。
刑務所にいた頃。
門司港で働いていた頃。
もう二度と会えないかもしれないと思っていた。
それが今は、毎朝のように店の奥から呼ばれる。
面倒で、手がかかって、時々調子に乗る。
それでも、一番好きな人がいつも側にいる。
もちろん、玲奈はそんなことを口にはしない。
常連のおばあが聞く。
「玲奈ちゃん、リョウちゃんと毎日一緒で嬉しいんでしょう?」
玲奈は即答する。
「見張っています」
「見張り?」
「亮介さんがもう悪さをしないように」
おばあたちは大笑いする。
「それ、照れ隠しさぁ」
「違います」
「好きなんだねぇ」
「違います」
顔は赤かった。
昼の「しおかぜ」は賑やかだ。
黒糖プリンを目当てに来る観光客。
島野菜サンドを食べに来る移住者。
毎日のように顔を出すおじい、おばあ。
テラスで寝そべる地域猫。
亮介はホールを回りながら、誰にでも明るく声をかける。
「いらっしゃいませ。今日は島オクラがいいですよ」
「黒糖プリン、残り三つです」
「おばあ、さんぴん茶ですね。分かってます」
人たらし。
玲奈は心の中でそう思う。
かつてその口のうまさで人を傷つけた男が、今は同じ口で人を笑顔にしている。
罪は消えない。
騙した人たちのことも、賠償金も、慰謝料も、養育費も、全部残っている。
許されたわけではない。
それでも玲奈は、亮介に居場所が必要だと思った。
誰かに「おはよう」と言われる場所。
働く場所。
失敗しても、翌朝また皿を拭ける場所。
「ただいま」と言える場所。
だから「しおかぜ」を作った。
自分の夢でもあり、亮介の帰る場所でもある店。
閉店後。
玲奈はカウンターの奥から一冊のノートを取り出した。
黒糖プリンのレシピ。
島野菜サンドの作り方。
珈琲豆の分量。
季節ごとの仕込み表。
旅行ノートの保管方法。
畑の作付け記録。
亮介が覗き込む。
「また書いてるんですか?」
「記録です」
「百年後のしおかぜ用?」
「はい」
亮介は笑う。
「本気なんですね」
玲奈はペンを止めずに言った。
「本気です。しおかぜは百年続けます」
「俺、百年後はさすがに……」
「亮介さんは117歳まで返済予定です」
「そうでした」
「ですから、まず117歳まで生きてください」
亮介は吹き出した。
「賠償金完済のために長寿を目指す人生、なかなかないですね」
「前向きです」
「玲奈さんも一緒に長生きしてくれます?」
玲奈は少しだけ黙った。
それから、いつもの涼しい顔で答えた。
「当然です。見張り役ですから」
亮介は笑った。
「じゃあ、二人で117歳まで」
「できれば120歳まで」
「余裕を見てる」
「計画には余裕が必要です」
二人は小さく笑った。
夜の海から、やわらかな風が吹く。
風鈴が、ちりんと鳴った。
神戸で生まれた玲奈は、壮絶な人生を歩いてきた。
警察官になり、警部補になり、戦隊ヒロインになった。
多くの人に見られ、求められ、時には利用されもした。
けれど、今が一番幸せだった。
小さなカフェ。
黒糖プリン。
島野菜。
地域猫。
おじい、おばあ。
観光客の笑顔。
そして、一番好きな人が毎日隣にいる。
翌朝も、玲奈は亮介に珈琲を淹れるだろう。
「おはようございます」と言い、
「今日も見張っています」と言い、
亮介は「よろしくお願いします」と笑う。
それだけでいい。
派手な肩書きも、スポットライトも、もういらない。
潮風より静かな幸せが、ここにはある。
玲奈は窓の外の海を見た。
「しおかぜ」は今日もこの場所にある。
明日も、十年後も、できれば百年後も。
そしてそのカウンターの向こうで、玲奈はきっとまだ言っている。
「見張っています」
誰よりも愛している、という言葉の代わりに。




