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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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潮風より静かな幸せ ――元警部補は、今日も“見張り役”を続ける

南ぬ島の朝は、静かに始まる。


観光客がまだホテルのベッドの中で夢を見ている頃、玲奈はもう「しおかぜ」の裏手にある小さな家庭菜園に立っている。


島オクラの葉に朝露が残っている。

ミニトマトは赤く色づき、ハンダマの紫がかった葉が風に揺れている。

島らっきょうの細い葉先には、南ぬ島の光が薄く宿っていた。


玲奈は軍手をはめ、土を確かめる。


「今日は水を控えめですね」


誰に言うでもなく呟く。


かつて兵庫県警の警部補だった女が、今は猫の額ほどの畑で島野菜を育てている。


神戸で生まれ育った。

青春時代は丹波篠山で過ごした。

警察官として働き、交通課で評価され、気がつけば「美人すぎる警察官」として県警のポスターに起用された。


望んだわけではない。


事件を追い、現場で汗をかく警察官でいたかった。

だが容姿端麗という理由で広告塔のように扱われ、経験も興味もなかったカラーガード隊にも入れられた。


その後は戦隊ヒロインプロジェクトへ出向。


大勢の観客の前で笑い、マイクを持ち、ステージに立った。


注目されることは嫌いではなかった。

誰かに必要とされるのも、悪くはなかった。


けれど、玲奈は今、はっきりと思う。


自分に一番合っていたのは、この暮らしだ。


黒糖プリンを仕込むこと。

島野菜サンド用の野菜を育てること。

ハンドメイド雑貨を少しずつ作ること。

地元のおじい、おばあにからかわれながら、観光客に珈琲を淹れること。


そして何より。


店の奥から聞こえる声。


「玲奈さーん、コーヒー豆どこでしたっけ?」


亮介の声だった。


玲奈は振り返らないまま答える。


「昨日と同じ場所です」


「昨日の場所を忘れました」


「問題です」


「助けてください」


玲奈は小さく息を吐いた。


けれど、その口元はほんの少し緩んでいた。


今日もいる。


その事実が、玲奈にはたまらなく嬉しかった。


刑務所にいた頃。

門司港で働いていた頃。

もう二度と会えないかもしれないと思っていた。


それが今は、毎朝のように店の奥から呼ばれる。


面倒で、手がかかって、時々調子に乗る。

それでも、一番好きな人がいつも側にいる。


もちろん、玲奈はそんなことを口にはしない。


常連のおばあが聞く。


「玲奈ちゃん、リョウちゃんと毎日一緒で嬉しいんでしょう?」


玲奈は即答する。


「見張っています」


「見張り?」


「亮介さんがもう悪さをしないように」


おばあたちは大笑いする。


「それ、照れ隠しさぁ」


「違います」


「好きなんだねぇ」


「違います」


顔は赤かった。


昼の「しおかぜ」は賑やかだ。


黒糖プリンを目当てに来る観光客。

島野菜サンドを食べに来る移住者。

毎日のように顔を出すおじい、おばあ。

テラスで寝そべる地域猫。


亮介はホールを回りながら、誰にでも明るく声をかける。


「いらっしゃいませ。今日は島オクラがいいですよ」


「黒糖プリン、残り三つです」


「おばあ、さんぴん茶ですね。分かってます」


人たらし。


玲奈は心の中でそう思う。


かつてその口のうまさで人を傷つけた男が、今は同じ口で人を笑顔にしている。


罪は消えない。

騙した人たちのことも、賠償金も、慰謝料も、養育費も、全部残っている。


許されたわけではない。


それでも玲奈は、亮介に居場所が必要だと思った。


誰かに「おはよう」と言われる場所。

働く場所。

失敗しても、翌朝また皿を拭ける場所。

「ただいま」と言える場所。


だから「しおかぜ」を作った。


自分の夢でもあり、亮介の帰る場所でもある店。


閉店後。


玲奈はカウンターの奥から一冊のノートを取り出した。


黒糖プリンのレシピ。

島野菜サンドの作り方。

珈琲豆の分量。

季節ごとの仕込み表。

旅行ノートの保管方法。

畑の作付け記録。


亮介が覗き込む。


「また書いてるんですか?」


「記録です」


「百年後のしおかぜ用?」


「はい」


亮介は笑う。


「本気なんですね」


玲奈はペンを止めずに言った。


「本気です。しおかぜは百年続けます」


「俺、百年後はさすがに……」


「亮介さんは117歳まで返済予定です」


「そうでした」


「ですから、まず117歳まで生きてください」


亮介は吹き出した。


「賠償金完済のために長寿を目指す人生、なかなかないですね」


「前向きです」


「玲奈さんも一緒に長生きしてくれます?」


玲奈は少しだけ黙った。


それから、いつもの涼しい顔で答えた。


「当然です。見張り役ですから」


亮介は笑った。


「じゃあ、二人で117歳まで」


「できれば120歳まで」


「余裕を見てる」


「計画には余裕が必要です」


二人は小さく笑った。


夜の海から、やわらかな風が吹く。

風鈴が、ちりんと鳴った。


神戸で生まれた玲奈は、壮絶な人生を歩いてきた。


警察官になり、警部補になり、戦隊ヒロインになった。

多くの人に見られ、求められ、時には利用されもした。


けれど、今が一番幸せだった。


小さなカフェ。

黒糖プリン。

島野菜。

地域猫。

おじい、おばあ。

観光客の笑顔。

そして、一番好きな人が毎日隣にいる。


翌朝も、玲奈は亮介に珈琲を淹れるだろう。


「おはようございます」と言い、

「今日も見張っています」と言い、

亮介は「よろしくお願いします」と笑う。


それだけでいい。


派手な肩書きも、スポットライトも、もういらない。


潮風より静かな幸せが、ここにはある。


玲奈は窓の外の海を見た。


「しおかぜ」は今日もこの場所にある。

明日も、十年後も、できれば百年後も。


そしてそのカウンターの向こうで、玲奈はきっとまだ言っている。


「見張っています」


誰よりも愛している、という言葉の代わりに。

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