賠償金の終わらない計算 ――来世紀まで返済予定です
閉店後の「しおかぜ」は、昼間の賑わいが嘘のように静かだった。
黒糖プリンの皿は洗い終わり、島野菜サンドの仕込みも終わっている。窓の外では、南ぬ島の夜風がハイビスカスの葉を揺らしていた。
亮介が、妙に重々しく言った。
「玲奈さん」
「はい」
「そろそろ、残債を確認しませんか」
玲奈の手が止まった。
「……本気ですか」
「怖いですけど」
「私も怖いです」
二人はしばらく黙った。
亮介には、多額の債務がある。
詐欺事件の被害者へ支払う民事上の賠償金。
二度の離婚に伴う慰謝料。
前妻との間にいる子どもへの養育費。
刑務所を出たら終わり、ではなかった。
むしろ、出てからの方が長い償いの日々だった。
島へ来てから、亮介は真面目に働いている。
玲奈と一緒に家計簿をつけ、毎月決まった額を返済している。贅沢はしない。パチンコも小遣いの範囲。黒糖プリンの売上、島野菜サンドの利益、亮介の給料、少しずつ積み上げている。
けれど、減らない。
驚くほど減らない。
玲奈はノートパソコンを開いた。
「では、計算します」
「お願いします」
「逃げないでください」
「逃げません。ちょっと席を外したいだけです」
「逃げています」
亮介は観念して隣に座った。
玲奈は残債、毎月の返済額、養育費、生活費、物価上昇の見込みまで入力していく。元警部補らしく、数字の管理は妙に細かい。
亮介は横で黒糖コーヒーを飲んでいた。
「怖いですね」
「見なければ減りません」
「見ても減らない気がします」
「それは正しいです」
十数分後。
玲奈の手が止まった。
「どうです?」
玲奈は画面を見つめている。
「……」
「玲奈さん?」
「117歳です」
「はい?」
「今のペースですと、完済時の亮介さんの年齢は117歳です」
沈黙。
亮介は画面を覗き込んだ。
確かに、そこには無慈悲な数字が表示されていた。
117歳。
亮介はゆっくり椅子にもたれた。
「島の長寿記録狙えますね」
「狙うしかありません」
「人類最高齢レベルですよ」
「健康管理を徹底しましょう」
「そこから?」
玲奈は真顔だった。
亮介は少し考え、恐る恐る言った。
「一発逆転しかないですね」
玲奈の目が一瞬で冷たくなる。
「何を考えていますか」
「商品先物とか」
「絶対ダメです」
「FXとか」
「絶対ダメです」
「仮想通貨とか」
「絶対ダメです」
「全部ダメですか」
「全部ダメです」
玲奈はノートパソコンを閉じた。
「楽して儲けようとしてこうなったんでしょ」
亮介は両手を上げた。
「ごもっともです」
「二度とその発想に戻らないでください」
「はい」
「一発逆転は禁止です」
「地道に117歳まで働きます」
玲奈は少し考えた。
「いえ」
「いえ?」
「二人で長生きしましょう」
亮介は顔を上げた。
玲奈は真面目な顔で続ける。
「117歳で完済なら、120歳まで働けば少し余裕があります」
「余裕の作り方が雑ですね」
「前向きです」
亮介は吹き出した。
翌日、この話はなぜか常連たちに広まっていた。
「リョウちゃん、117歳まで返すんだって?」
「島の最高齢狙えるさぁ!」
「黒糖プリン長寿法でいけるさぁ」
「玲奈ちゃんも一緒に長生きしなさいねぇ」
亮介は苦笑した。
「皆さん、笑い事じゃないんですよ」
おばあが黒糖プリンを食べながら言う。
「笑わないと重すぎるさぁ」
おじいも頷く。
「昨日より今日。今日より明日。少しずつ返せばいいさぁ」
玲奈は静かに頷いた。
「良い言葉です」
亮介は少しだけ肩の力が抜けた。
厳しい現実は変わらない。
数字は残酷だ。
罪は消えない。
返済も終わらない。
けれど、南ぬ島の空気は不思議だった。
潮風が吹く。
おばあが笑う。
おじいが茶化す。
地域猫がテラスで寝ている。
誰かが黒糖プリンを食べて「おいしい」と言う。
その中にいると、117歳という絶望的な数字さえ、少しだけ笑える距離に置ける気がした。
閉店後。
玲奈と亮介はテラス席に座っていた。
夜の海は静かで、遠くに漁船の灯りが見えた。
亮介が言う。
「正直、全部返せないかもしれないって思います」
玲奈は海を見たまま答えた。
「返せないかもしれません」
「そこは励ましてください」
「でも、返し続けることはできます」
亮介は黙った。
玲奈は続ける。
「全部終わるかどうかではなく、逃げずに返し続けることに意味があると思います」
「はい」
「だから長生きしましょう」
亮介は少し笑った。
「玲奈さんも一緒に?」
「当然です」
「120歳まで?」
「目標です」
「じゃあ、俺は毎日皿下げですね」
「はい」
「黒糖プリンも運びます」
「はい」
「畑も手伝います」
「苗と雑草を間違えなければ」
「それは一生言われるやつですね」
玲奈は少しだけ笑った。
風鈴が鳴る。
ちりん。
来世紀まで続きそうな返済計画。
笑えない現実。
終わらない贖罪。
それでも、明日は来る。
朝になれば、玲奈は黒糖プリンを仕込み、亮介はテーブルを拭く。
常連が来て、観光客が来て、島野菜サンドが売れて、少しだけ返す。
それを繰り返していく。
南国ののんきな空気と潮風は、罪を消してはくれない。
けれど、押しつぶされそうな夜に、ほんの少しだけ息をさせてくれる。
亮介は海を見ながら言った。
「117歳までよろしくお願いします」
玲奈は静かに答えた。
「こちらこそ」
二人は笑った。
「しおかぜ」の灯りは、その夜もやさしく港の方へ漏れていた。
終わらない計算を抱えたまま、二人はまた明日も店を開ける。
来世紀まで続きそうな返済予定を、黒糖プリンと潮風で少しずつ薄めながら。




