島に現れた元婚約者 ――あの頃の嘘は、まだ終わっていなかった
ランチタイムの「しおかぜ」は、今日も戦場だった。
島野菜サンドは昼前に完売し、黒糖プリンも残りわずか。観光客の注文、常連のおばあたちの世間話、地域猫の鳴き声まで混ざって、店内は南ぬ島らしい明るい混沌に包まれていた。
ようやく客足が落ち着いたのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
亮介はカウンターに肘をつき、大きく息を吐く。
「今日も生き残りましたね」
玲奈は伝票を揃えながら答える。
「戦場ではありません」
「でも島野菜サンド完売、黒糖プリン残り二つ。これは勝利ですよ」
「在庫管理上は、やや危険です」
「喜び方が硬いなあ」
亮介が笑うと、玲奈もほんの少しだけ口元を緩めた。
「明日は島オクラを多めに収穫します」
「畑から始まるカフェ経営ですね」
「あなたは釣りより畑を手伝ってください」
「俺、最近は苗と雑草を見分けられます」
「まだ信用していません」
二人の会話は、柔らかかった。
長年連れ添った夫婦のようで、けれど本人たちは相変わらずその言葉を認めない。昼の忙しさの後に訪れる、短い休息。コーヒーの香りと潮風が、店の中をゆっくり流れていた。
その時、ドアベルが鳴った。
カラン。
入ってきたのは、一人の女性だった。
四十代半ばくらい。亮介より少し年上に見える。地味な色のワンピースに、控えめな化粧。物静かで、目立つタイプではない。観光客らしい小さなバッグを持っていたが、どこか旅を楽しんでいるようには見えなかった。
偶然入ってきたのか。
それとも、狙って来たのか。
玲奈には分からなかった。
ただ、亮介の顔色が変わったことで、それが普通の客ではないことだけはすぐに分かった。
亮介の手から、布巾が落ちた。
「……」
腰を抜かす、とまではいかない。
だが、その表情は玲奈が見たことのないものだった。青ざめ、呼吸が浅くなり、いつもの陽気さが一瞬で消えた。
女性は亮介を見た。
長い沈黙のあと、静かに言った。
「幸せそうですね」
それだけだった。
怒鳴らない。
泣かない。
責めない。
だが、その一言は刃物のように亮介へ突き刺さった。
玲奈は異変を察知していた。
元警部補としての勘が、目の前の空気を読み取る。亮介の沈黙。女性の視線。わずかに震える指先。偶然を装いながらも、偶然だけでは説明できない重さ。
「お席へどうぞ」
玲奈はいつも通りに接客した。
女性は窓際の席に座った。
「コーヒーと黒糖プリンを」
「かしこまりました」
玲奈は丁寧にコーヒーを淹れた。
その間も、女性の視線は時折、亮介に向いた。亮介は一度も目を合わせない。まるで、視線を合わせた瞬間に過去が一気に崩れ落ちてくるのを恐れているようだった。
コーヒーを運んだのは玲奈だった。
女性は一口飲み、静かに言った。
「美味しいですね」
黒糖プリンも、ゆっくり食べた。
「これも、美味しいです」
「ありがとうございます」
玲奈は短く答えた。
女性は玲奈を見る。
女優のような整った顔立ち。凛とした姿勢。黒髪に南ぬ島の光が薄く差している。派手ではないが、どこか人目を引いてしまう美しさ。
女性の目に、わずかな陰が差した。
嫉妬だ。
玲奈はそれを見逃さなかった。
「綺麗な方ですね」
女性は言った。
褒め言葉の形をしていた。
けれど、その奥にある感情は少し濁っていた。
「ありがとうございます」
玲奈は表情を変えずに受けた。
しばらくして、女性は会計を済ませた。
帰り際、もう一度だけ亮介を見た。
「元気そうで、良かったです」
亮介は何も言えなかった。
女性は店を出ていった。
潮風の中に、静かな足音だけを残して。
その後の亮介は、明らかにおかしかった。
皿を下げる手が遅い。
客への声が小さい。
いつもの軽口が消えている。
玲奈は何も聞かなかった。
営業時間中に問い詰めるほど、彼女は雑ではない。
夕方、最後の客が帰り、店内に静けさが戻った。
玲奈はカウンターを拭きながら言った。
「午後の女性」
亮介の手が止まる。
「知り合いですか」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて亮介は、椅子に腰を下ろした。
「知り合いです」
玲奈は手を止めた。
「説明してください」
その声は冷たかった。
亮介は俯いたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
婚活パーティーで出会ったこと。
相手は当時、結婚に焦っていたこと。
地味で物静かで、人を疑うのが苦手だったこと。
亮介は優しく近づき、結婚を匂わせたこと。
「一緒に暮らすなら、将来の資金を作ろう」
「二人のための投資だから」
「絶対に損はさせない」
そんな言葉で、彼女から金を出させた。
最初は数十万円。
次に百万円。
さらに親の遺産の一部。
老後のために取っておいた定期預金。
合計すれば、彼女にとって人生を大きく狂わせる額だった。
亮介は言った。
「結婚詐欺で起訴されたわけじゃありません。でも、やったことは……それに近いです」
玲奈は黙って聞いていた。
亮介の声は震えていた。
「彼女は、本気で俺を信じてくれていました。俺はそれを分かっていて、利用しました」
「結婚する気は?」
玲奈が聞く。
亮介は首を振った。
「ありませんでした」
「最低ですね」
玲奈は冷たく言った。
その言葉は短く、重かった。
亮介は俯いた。
「はい」
「最低です」
「はい」
「最低な男です」
「はい」
否定しなかった。
できるはずがなかった。
沈黙が落ちる。
玲奈と亮介の出会いも、婚活パーティーだった。
それを思えば、玲奈にとっても無関係ではない話だった。もし何かが違っていれば、自分もまた、あの女性と同じ場所に立っていたかもしれない。
玲奈はカップを片づけながら言った。
「許されることではありません」
「分かっています」
「たぶん、一生」
「はい」
「でも、逃げずに話したことだけは、今日のところは認めます」
亮介は何も言えなかった。
その夜、亮介はほとんど眠れなかった。
幸せそうですね。
その一言が、ずっと頭の中で響いていた。
怒鳴られた方がよかった。
泣かれた方がよかった。
罵られた方がよかった。
けれど彼女は、ただ静かに事実を言った。
自分は今、島の人たちに受け入れられ、玲奈の店で働き、笑って暮らしている。
その一方で、彼女の中では、あの頃の嘘がまだ終わっていない。
翌朝。
亮介がいつもより早く「しおかぜ」に来ると、カウンターにコーヒーが置かれていた。
玲奈が淹れたものだった。
「おはようございます」
「……おはようございます」
玲奈はいつも通りだった。
「今日は少し苦めです」
亮介はカップを見た。
「今の私には、ちょうどいいです」
玲奈は何も言わなかった。
ただ、いつものように厨房へ戻り、黒糖プリンの仕込みを始めた。
過去は消えない。
騙した金も、傷つけた心も、なかったことにはならない。
それでも朝は来る。
コーヒーを淹れる人がいて、皿を洗う人がいて、店を開ける時間が来る。
亮介は苦いコーヒーを飲み干した。
許されないまま、生きる。
許されないまま、働く。
許されないまま、返していく。
それが、自分に残された償いなのだと思った。
外では、南ぬ島の風が看板を揺らしている。
「しおかぜ」は今日も開く。
黒糖プリンの甘い香りの奥に、少しだけ苦い過去を抱えながら。




