消えた旅行ノートと島の落とし物係 ――リョウちゃん、百人分の思い出を追いかける
「しおかぜ」のレジ横には、一冊の大学ノートが置かれている。
表紙には、玲奈の細い字でこう書かれていた。
旅の足あと帳
観光客が自由に感想を書くためのノートだった。
けれど、ただの感想帳ではない。
開店以来ずっと続いていて、今使っているものでもう十数冊目になる。
そこには、黒糖プリンの感想だけではなく、旅人たちの小さな人生が残されていた。
「彼女にプロポーズしました」
「退職記念に夫婦で来ました」
「病気が治ったら、また石垣に来ます」
「移住したいけど、まだ迷っています」
「失恋旅行でした。でも黒糖プリンで少し元気になりました」
「リョウちゃんの接客が明るすぎて笑いました」
「玲奈さん、美人すぎて緊張しました」
最後の一文を読むたび、玲奈は無言でノートを閉じる。
亮介はそれを見て笑う。
「事実ですね」
「余計な確認です」
亮介はこのノートが好きだった。
閉店後、カウンターに腰かけて読み返しては、
「この人、今どうしてるんでしょうね」
と勝手に想像する。
玲奈は表向き、
「個人情報です」
と冷静に言う。
けれど、歴代のノートをすべて丁寧に保管しているのを亮介は知っている。
ある朝。
開店準備をしていた亮介が、レジ横で固まった。
「玲奈さん」
「はい」
「ノートがありません」
玲奈の手が止まる。
「どのノートですか」
「今使ってる旅の足あと帳です」
二人はすぐ探した。
レジ周り。
カウンター下。
窓際の席。
テラス。
厨房。
倉庫。
どこにもない。
常連のおばあが言う。
「風で飛んだかねぇ」
亮介は首を振る。
「昨日の閉店まではありました」
店内に、妙な緊張が走った。
現金が盗まれたわけではない。
高価なものでもない。
けれど「しおかぜ」にとっては、一番大切なものに近かった。
亮介は完全に焦っていた。
「百人分どころじゃないですよ。何百人分の思い出ですよ」
玲奈は冷静を装う。
「まず状況を整理します」
だが、亮介には分かった。
玲奈もかなり動揺している。
久しぶりに、元警部補の目になった。
玲奈は防犯カメラを確認し、昨日の来店客を書き出す。
閉店前後にいた常連、観光客、配達業者、近所の人。
亮介は聞き込み担当になった。
「このノート、見ませんでしたか?」
朝市。
漁港。
民宿。
離島ターミナル。
常連のおじい、おばあ。
若い移住者。
みんなが協力してくれた。
「玲奈ちゃんの大事なノートだろ」
「探すさぁ」
「リョウちゃん、顔がしょぼんとしてるさぁ」
「してます。かなりしてます」
いつの間にか、島の小さな捜索隊になっていた。
亮介は歩きながら思った。
自分も、あのノートに何度か書いた。
門司港から島へ来た日。
玲奈と再会した日。
繁忙時間に皿下げを命じられた日。
「ここで働くことになりました」と、少し震える字で書いた日。
あのノートは、旅人だけのものではなかった。
自分にとっても、島に来てからの時間そのものだった。
「ただのノートじゃないんですね」
夕方、亮介がぽつりと言う。
玲奈は静かに頷いた。
「はい。旅人が置いていった時間です」
数日後。
手がかりは意外なところから来た。
近くのホテルに宿泊していた高齢の男性観光客が、ノートを持っていたのだ。
理由は、あまりにも拍子抜けするものだった。
「大事そうなものが置きっぱなしだったから、忘れ物だと思った」
男性は申し訳なさそうに言った。
「持ち主を探そうと思って、部屋で預かっていたんです。悪気はなかったんです」
完全な善意だった。
島外へ持ち出すつもりもなく、ホテルの部屋で大切に保管していたという。
亮介は大きく息を吐いた。
「よかった……本当に」
玲奈も珍しく深いため息をつく。
「事件性なし。善意による一時保管です」
「言い方が警察です」
「事実です」
ノートは無事「しおかぜ」に戻った。
その日の夕方、店では小さな返還式のような空気になった。
常連のおばあたちは拍手し、おじいは「戻ってきたさぁ」と笑う。
若い常連も、移住者も、みんなほっとしていた。
そして、ノートの最後のページには、新しい書き込みがあった。
その高齢の観光客が残したものだった。
ここは観光地ではありませんでした。
帰って来たくなる場所でした。
だから、大事にしたくなりました。
店内が静かになった。
亮介は少し目を潤ませる。
「褒められてますよ」
玲奈はノートを見つめる。
「そうでしょうか」
「そうですよ。しおかぜそのものです」
玲奈は少しだけ照れたように目を伏せた。
夜。
閉店後の店内で、玲奈はノートをいつもの場所へ戻した。
亮介が言う。
「なくなった時、正直泣きそうでした」
「知っています」
「玲奈さんもですよね」
玲奈は少し黙った。
「否定はしません」
二人は静かに笑った。
旅行ノート。
それは紙の束ではない。
旅人が残した人生の断片。
島へ来た理由。
再出発の決意。
誰かへの想い。
そして、玲奈と亮介がこの島で積み重ねてきた時間そのもの。
翌日から、ノートの表紙の裏には小さな紙が貼られた。
玲奈の字で書かれている。
ご自由にお読みください。
でも、ちゃんと帰ってきてください。
それを見た常連たちは大笑いした。
「玲奈ちゃんらしいさぁ」
亮介は満足そうに頷く。
「いい注意書きですね」
「再発防止策です」
「ほっこりしてますけど」
「再発防止策です」
軒先の風鈴が鳴る。
ちりん。
今日も「しおかぜ」に旅人が来る。
黒糖プリンを食べ、海を眺め、カウンターで少しだけ話し、最後にノートへ一行を残す。
その一行は、いつか誰かが読み返す。
そして思うのだ。
この店は、ただのカフェではない。
旅の途中で、少しだけ心を置いていける場所なのだと。
玲奈と亮介は、今日もそのノートの横で働いている。
女優のように美しい、少しクールな店主。
陽気で人懐っこいウェイター。
二人のいる「しおかぜ」は、これからも旅人たちの足あとを預かっていく。
ちゃんと帰ってくることを、少しだけ願いながら。




