風より速く走った日、筋肉痛は二日後に来た ――島の運動会と、元戦隊ヒロイン店主
秋が近づき始めた南ぬ島の朝。
空は高く、潮風は少しだけやわらかくなっていた。
その日は集落の運動会だった。
小学校のグラウンドには色とりどりのテントが並び、おじい、おばあ、子どもたち、若い移住者、漁師、商店の人たちが朝から集まっている。
島に来て数年。
玲奈と亮介も、すっかり顔なじみだった。
とはいえ、二人はあくまで見学のつもりだった。
「今日は休みですから」
玲奈はクーラーボックスに冷えたさんぴん茶を入れながら言う。
「しおかぜ特製応援隊ですね」
亮介も頷く。
「黒糖プリンの差し入れもありますし」
完全に観客モードだった。
少なくとも、この時までは。
午前中。
玉入れ。
綱引き。
パン食い競争。
おじいたちのゲートボールリレー。
島らしいのんびりした競技が続く。
亮介は大笑いしていた。
「おじい、ガチですね」
「負けず嫌いですから」
玲奈も少しだけ笑う。
こういう時間が好きだった。
誰かと競うためではなく、みんなで笑うための運動会。
都会ではなかなか見なくなった風景だ。
ところが午後になって事件が起きる。
地区対抗リレー。
出場予定だった若者が仕事で来られなくなったのだ。
困った役員たちの視線が、一斉にこちらへ向く。
玲奈は嫌な予感がした。
おばあが笑顔で言う。
「玲奈ちゃん」
「はい」
「走れるでしょう?」
「見学です」
即答だった。
しかしおじいが追撃する。
「リョウちゃん、高校ラグビーやっとったんだろ?」
亮介が固まる。
「……なぜ知ってるんですか」
「飲み会で聞いたさぁ」
「情報管理が甘かった」
「若いんだから走りなさい」
「若くないです」
「若い若い」
「四十代です」
「島じゃ若手さぁ」
結局。
二人は強制的にリレーメンバーになった。
スタート前。
亮介は少し緊張していた。
玲奈を見る。
「玲奈さん」
「なんですか」
「本気出します?」
玲奈は帽子を被り直す。
「運動会です」
「つまり?」
「怪我しない程度にです」
その顔を見た亮介は思った。
ああ、この人。
たぶん本気だ。
レースが始まった。
前半。
二人のチームは少し遅れていた。
観客席から声が飛ぶ。
「玲奈ちゃん頼むさぁ!」
「元ヒーロー頑張れ!」
「リョウちゃん転ぶなよー!」
失礼な応援も混ざっていた。
そして。
玲奈にバトンが渡った。
次の瞬間だった。
空気が変わる。
速い。
とにかく速い。
元兵庫県警交通課。
元警部補。
さらに戦隊ヒロイン。
逃走犯を追いかけた経験まである。
普段の落ち着いた姿からは想像できない加速だった。
ぐんぐん差が縮まる。
一人抜く。
また一人抜く。
おじいが立ち上がる。
「玲奈ちゃん速いさぁ!」
おばあも大興奮。
「あれ完全に犯人追いかけとるさぁ!」
亮介は吹き出した。
「間違ってない」
玲奈は無表情のまま走る。
だが明らかに本気だった。
そしてトップ集団まで追いついてバトンを渡す。
歓声が上がる。
次は亮介だった。
元ラグビー部。
高校時代は快速フランカー。
普段はお調子者だが、走る姿は意外なほど綺麗だった。
大股で地面を蹴る。
腕を振る。
まっすぐ前を見る。
「リョウちゃん速い!」
「皿下げる時より速い!」
「それ比較対象がおかしいです!」
走りながら亮介が叫ぶ。
会場は大爆笑だった。
結果。
チームは見事な上位入賞。
島中が拍手に包まれた。
おばあたちは嬉しそうだった。
「玲奈ちゃんすごかったさぁ」
「リョウちゃんも速かった」
「若いっていいねぇ」
玲奈は首を振る。
「本気ではありません」
亮介が即座に言う。
「嘘です」
「違います」
「完全に本気でした」
「業務外の緊急対応です」
「運動会です」
周囲が笑った。
その夜。
しおかぜでは運動会の話で持ち切りだった。
「玲奈ちゃん速かったねぇ」
「リョウちゃんも見直したさぁ」
「来年も出るさぁ」
玲奈は困った顔をする。
亮介は調子に乗る。
「いやぁ、まだまだ若いですね」
「そうですね」
玲奈も珍しく同意した。
翌日。
何ともなかった。
二人とも元気だった。
「まだいけますね」
亮介は得意げだった。
玲奈も頷く。
「日頃の成果です」
しかし。
本当の敵は遅れてやって来た。
二日後の朝。
「……」
厨房で玲奈が固まる。
「……」
ホールで亮介も固まる。
動けない。
足が痛い。
腰も痛い。
しゃがめない。
立ち上がれない。
完全な筋肉痛だった。
おばあはすぐ見抜いた。
「来たねぇ」
「来ました」
亮介は正直だった。
玲奈は最後まで抵抗する。
「軽微な筋繊維の違和感です」
「筋肉痛さぁ」
「違います」
「筋肉痛さぁ」
「……」
否定できなかった。
結局。
その日は早仕舞いになった。
張り紙には、
『本日は都合により少し早めに閉店します』
と書かれている。
亮介が聞く。
「筋肉痛って書かないんですか」
「書きません」
「正直に生きましょう」
「却下です」
夕暮れ。
閉店後。
二人は店先の椅子に座っていた。
風鈴が揺れる。
遠くで波の音が聞こえる。
亮介が笑った。
「無理のできない歳になりましたね」
玲奈も笑う。
「そうですね」
「気持ちは二十代なんですけど」
「身体は正直です」
二人はしばらく笑った。
そして亮介が言う。
「でも、楽しかったですね」
玲奈は頷く。
「はい」
集落の人たちの笑顔。
歓声。
拍手。
一緒に走った時間。
それらを思い出していた。
「来年も出ます?」
亮介が聞く。
玲奈は少し考えた。
そして小さく笑う。
「その時に考えます」
「出る顔ですね」
「知りません」
南ぬ島の夕風が吹いた。
黒糖プリンの店「しおかぜ」。
その店主と店員は、もうすっかり島の人だった。
走って。
笑って。
筋肉痛になって。
それでもまた来年も同じ場所で笑うのだろう。
そんな未来が、ごく自然に思える夕暮れだった。




