リョウちゃん、初めての大物を釣る ――しおかぜ、海の恵みで小さな宴会場になる
亮介は、島に来てから海釣りを覚えた。
生まれ育った四国の山奥では、子どもの頃から川釣りをしていた。澄んだ沢の音、石の下に潜む小魚、夕暮れの山道。釣りそのものは好きだった。
けれど、南ぬ島の海はまったく別物だった。
潮の流れ。
風向き。
餌の種類。
仕掛けの重さ。
魚の引き。
川で覚えた感覚は、海ではほとんど通用しなかった。
亮介に海釣りを教えてくれたのは、常連の師匠格のおじいだった。防波堤に毎朝のように立つ、日焼けした無口な釣り名人である。
最初の頃の亮介は、散々だった。
糸を絡ませる。
餌だけ取られる。
仕掛けを岩に引っかける。
小さな魚を釣って大騒ぎする。
波を読めず、足元を濡らす。
おじいは笑った。
「リョウちゃん、川の男は海では赤ちゃんさぁ」
「赤ちゃんですか」
「竿持った赤ちゃんさぁ」
「師匠、言い方がきついですね」
「海はもっときついさぁ」
それでも亮介は投げ出さなかった。
定休日の朝、少し早く起きて防波堤へ行く。潮を見る。仕掛けを覚える。おじいの言葉を聞く。
「魚を釣る前に、海を見るさぁ」
最初は意味が分からなかった。
けれど、少しずつ分かってきた。
風が変わる。潮が動く。水面の色が変わる。魚が寄る時間がある。
ある定休日の朝。
いつもの防波堤で、おじいが珍しく真面目な顔をした。
「今日は来るかもしれんね」
「何がですか」
「大きいのさぁ」
しばらくして、亮介の竿が大きくしなった。
今までとは違う重さだった。
「師匠!」
「慌てるな! 竿立てろ! 糸出しすぎるな!」
亮介は必死に耐えた。
魚は海の底へ潜ろうとする。腕に力が入り、足が踏ん張る。何度も持っていかれそうになる。
「無理に巻くな! 遊ばせろ!」
十数分の格闘の末、海面に銀と赤の混じった大きな魚が浮いた。
地元でアカジンと呼ばれる高級魚、スジアラだった。
しかもかなり立派なサイズで、師匠のおじいも目を丸くした。
「リョウちゃん……これは大物さぁ」
亮介は息を切らしながら笑った。
「やりました?」
「やったどころじゃないさぁ。今日はリョウちゃんの勝ちさぁ」
亮介は子どものように喜んだ。
「玲奈さんに見せます!」
昼前。
亮介は大きなアカジンを抱えて「しおかぜ」に戻った。
玲奈は厨房から出てきて、魚を見るなり少し目を見開いた。
「……これは本当にあなたが?」
「疑いから入ります?」
「確認です」
後ろから師匠のおじいが言った。
「今日は本物さぁ。リョウちゃん、よう釣った」
玲奈は魚を見つめ、珍しく素直に言った。
「すごいですね」
亮介は固まった。
「今、褒めました?」
「褒めました」
「もう一回お願いします」
「減点します」
「一回で十分です!」
お調子者の亮介は、もう完全に大満足だった。
店の前で魚を持って記念写真まで撮ろうとし、玲奈に止められる。
「飲食店の前で過剰に魚を掲げないでください」
「今日くらい良くないですか」
「三十秒以内です」
「短い!」
問題は、この大物をどうするかだった。
玲奈は料理はできるが、大きな魚を本格的にさばく経験は少ない。そこで常連のおばあが登場した。
「玲奈ちゃん、こういうのは腹から落ち着いてやるさぁ」
「腹から落ち着く、とは」
「怖がるなってことさぁ」
おばあの指導のもと、玲奈は真剣に包丁を入れた。亮介は横で得意げに見守っていたが、すぐに叱られた。
「リョウちゃん、邪魔。皿出して」
「はい」
「あと、魚釣ったくらいで大将面しない」
「師匠にもおばあにも厳しくされる……」
夕方、「しおかぜ」はちょっとした宴会場になった。
アカジンの刺身。
あら汁。
島野菜と合わせた焼き物。
少しだけ出した特別なまかない。
常連のおじい、おばあが集まり、師匠のおじいは誇らしげに亮介を紹介した。
「今日の魚は、リョウちゃんが釣ったさぁ」
「おお、リョウちゃん出世したねぇ」
「川の赤ちゃんが海の男になったさぁ」
亮介は照れながらも、顔は完全ににやけていた。
「まだ赤ちゃん卒業くらいです」
玲奈は料理を出しながら言った。
「少なくとも、今日の成果は認めます」
亮介はすぐ反応する。
「評価は?」
「九十点です」
店内がどよめいた。
「玲奈ちゃんが九十点出したさぁ!」
「これは大事件さぁ!」
玲奈は少し顔を赤くした。
「魚の評価です」
亮介は胸を張った。
「魚込みでも九十点なら十分です」
「調子に乗らないでください」
「今日は少しだけ乗らせてください」
夜が更けるまで、「しおかぜ」には笑い声が続いた。
黒糖プリンの店は、その日だけ少し魚の匂いがする島の食堂になった。
アカジンは皿の上で見事に姿を変え、常連たちの腹と笑顔を満たしていった。
閉店後。
片づけをしながら、亮介がぽつりと言った。
「今日、ちょっと島の男になれた気がします」
玲奈は静かに答える。
「まだ仮認定です」
「仮ですか」
「でも、悪くありません」
亮介は笑った。
「それ、かなり褒めてますよね」
玲奈は視線を逸らした。
「調子に乗らないでください」
「もう乗ってます」
「では減点です」
二人は少し笑った。
窓の外では、夜の海が静かに揺れている。
亮介が初めて釣った大物は、ただの魚ではなかった。
彼が島の海に少しだけ認められた証であり、師匠のおじいとの時間の実りであり、「しおかぜ」がまたひとつ島の暮らしに近づいた証でもあった。
潮風の中に、今日の宴の余韻がまだ残っている。
黒糖プリンと島野菜サンドの店「しおかぜ」は、その夜だけ、海の恵みと笑い声で満ちていた。




