潮風のカウンターで、もう一度後輩になる ――先輩が運んできた、少し昔の潮風
午後の「しおかぜ」は、ほどよく賑わっていた。
窓際では常連のおばあたちが黒糖プリンを食べ、奥の席では観光客が地図を広げている。亮介はホールを軽やかに回り、玲奈は厨房でコーヒーを淹れていた。
その時、店の前にレンタカーが止まった。
ドアが開き、明るい声がした。
「玲奈ちゃん、久しぶりやねぇ!」
玲奈の手が止まった。
「……先輩?」
そこに立っていたのは、兵庫県警カラーガード隊時代の先輩だった。玲奈より少し年上で、当時リーダー格だった女性。隣には無口そうな夫、そして元気いっぱいの幼い姉弟がいる。
玲奈の表情が、いつもより少し柔らかくなった。
「南ぬ島まで……来てくださったんですか」
「そら来るよ。玲奈ちゃんの店やもん。霧笛で修業してた時も見に行ったやろ?」
玲奈は静かに頭を下げた。
「本当に、嬉しいです」
警察官時代、玲奈は容姿端麗という理由だけでカラーガード隊へ入れられた。経験も興味もなかった。それなのに「美人すぎる警察官」としてポスターに起用され、周囲から疎まれた。些細なことで叱られることも多かった。
そんな中、この先輩だけは違った。
失敗しても庇ってくれた。
ひとりで浮いていた玲奈を、普通の後輩として扱ってくれた。
玲奈は、その人を心底から慕っていた。
「先輩には、当時、本当に助けられました」
玲奈が真面目に言うと、先輩はあっけらかんと笑った。
「何言うてんの。後輩が困っとったら助けるやろ。普通やん」
「その普通が、嬉しかったんです」
先輩は照れたように手を振った。
「もう、玲奈ちゃんは相変わらず真面目やねぇ」
そして先輩は、常連のおじいおばあに向かって喋り始めた。
「この子な、昔からめっちゃ綺麗やったんよ。県警のポスターに出た時なんか、署内ざわざわしてなぁ」
おばあたちが身を乗り出す。
「玲奈ちゃん、ポスターになってたの?」
「きりっと立ってな。そらもう女優さんみたいやったわ」
玲奈の耳が赤くなる。
「先輩、その話は……」
「まだまだあるで。最初の演技練習の時な、玲奈ちゃん、顔は完璧にクールやのに、旗の回し方だけぎこちなくてな。ほんで終わった後に小声で“これは業務上必要なんでしょうか”って言うてたんよ」
店内が大笑いになる。
「玲奈ちゃんらしいさぁ!」
玲奈は耐えきれず、カップを持って厨房へ逃げた。
「コーヒーを淹れてきます」
おばあが笑う。
「照れとるさぁ」
厨房の奥から声が返る。
「聞こえています」
一方、亮介は子どもたちに捕まっていた。
「リョウちゃん、警察ごっこしよ!」
「うちのお父ちゃん、警察官なんやで!」
姉弟はおもちゃの手錠を取り出す。
「リョウちゃん逮捕!」
亮介は固まった。
「その遊びは、個人的に少し複雑ですね」
玲奈が厨房から顔を出す。
「実体験がありますからね」
「玲奈さん、子どもの前でやめてください」
それでも亮介はすぐに膝をつき、犯人役を引き受けた。
子どもたちは大喜びで、亮介の腕を捕まえる。
「抵抗したらあかんで!」
「はい。更生中なので抵抗しません」
先輩の夫は無口だった。
ただ窓際に座り、玲奈の淹れたコーヒーをゆっくり飲んでいる。やがて一言だけ言った。
「いい店ですね」
玲奈は少し嬉しそうに答えた。
「ありがとうございます」
帰り際、先輩は店内を見回した。
「ほんま素敵なお店やね。また来るわ」
「ぜひ」
子どもたちは亮介に大きく手を振った。
「リョウちゃん、ばいばーい!」
「また逮捕してな!」
亮介も笑って手を振る。
「次は任意同行でお願いします」
家族が去ったあと、「しおかぜ」は少し静かになった。
閉店作業の途中、玲奈がぽつりと言った。
「子供って、可愛いね」
亮介は少し驚いたように見る。
「好きなんですか?」
「うん。見てると……幸せになる」
亮介は静かに頷いた。
「俺も子供、好きですよ」
その言葉の後、少しだけ沈黙が流れた。
玲奈は知っている。
亮介には前妻との間に、重度障害のある子どもがいることを。今も養育費を払い続けていることを。そして、その存在が、彼が人生を踏み外した理由の一つだったことを。
玲奈は何も問い詰めなかった。
ただ、コーヒーを一杯淹れて、亮介の前に置いた。
「お疲れさま」
亮介はカップを受け取る。
「ありがとうございます」
窓の外では、夕暮れの海が静かに光っていた。
子どもたちの笑い声はもうない。
けれど、その余韻だけが店に残っている。
玲奈は思った。
昔、あの先輩が自分に居場所をくれた。
今、自分はこの島で、誰かが少し休める場所を作っている。
潮風が、軒先の風鈴を小さく鳴らした。
「しおかぜ」は今日も、過去の記憶と、今の黒糖プリンの香りを、静かに同じカウンターへ並べている。




