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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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忘れられたぬいぐるみの帰り道 ――リョウちゃん、空港まで走る

夏休みの午後、「しおかぜ」は家族連れで賑わっていた。


黒糖プリンを前に目を輝かせる子どもたち。

地図を広げる父親。

冷たいコーヒーで一息つく母親。

軒先の風鈴が、ちりん、と涼しい音を鳴らしている。


その中に、四歳くらいの女の子を連れた三人家族がいた。


女の子は、色あせたウミガメのぬいぐるみを大事そうに抱えていた。

甲羅の布は少し擦り切れ、片方の目の刺繍も少し緩んでいる。けれど、その子にとっては何より大切な旅の相棒だった。


「その子、名前あるの?」


亮介が水を置きながら聞いた。


女の子は真剣な顔で答えた。


「かめちゃん」


「かめちゃんもプリン食べる?」


「かめちゃんは、見るだけ」


亮介は大げさに頷いた。


「なるほど。見守り係ですね」


女の子は嬉しそうに笑った。


玲奈は厨房からその様子を見ていた。

亮介は子ども相手にも妙にうまい。少し軽いが、相手に合わせて目線を下げるのが自然だった。


やがて家族は会計を済ませた。


「空港へ向かいます。ありがとうございました」


父親が言う。


亮介は笑顔で手を振った。


「お気をつけて。飛行機、間に合いますように」


女の子も小さな手を振った。


「ばいばい、リョウちゃん」


穏やかな別れだった。


だが、数分後。


玲奈が窓際の席を片づけていて、椅子の陰に落ちているものに気づいた。


色あせたウミガメのぬいぐるみ。


亮介の顔色が変わった。


「かめちゃん……!」


玲奈の表情が一瞬で変わる。

カフェ店主ではなく、元警部補の目だった。


「亮介さん、会計時刻を確認。レシート番号。会話内容」


「はい」


「空港へ向かうと言っていましたね」


「はい。お父さんが、十六時台の便だから急がないと」


「レンタカー返却の話もしていました」


「お母さんが、返す前にガソリン入れないとって」


玲奈は素早く状況を組み立てる。


家族連れ。

レンタカー利用。

十六時台の本土方面便。

空港へ向かう途中。

まだ時間はあるが、遅れると搭乗手続きに影響する。


「宿泊先は?」


亮介が記憶を辿る。


「お父さんが、ホテルの朝食が美味しかったって話してました。名前は……たしか、海沿いのリゾート系」


玲奈は頷く。


「レンタカー会社はキーホルダーにロゴがありました。青いイルカのマーク」


「見てたんですか」


「見えていました」


「さすがです」


「感心している場合ではありません」


玲奈はすぐに電話をかけた。

レンタカー会社へ、個人情報に触れない範囲で事情を説明し、「小さなお子様連れの家族が、ウミガメのぬいぐるみを忘れている可能性がある」と伝言を依頼する。続けて空港案内所にも連絡を入れる。


「亮介さん」


「はい」


「あなたが届けてください。私は店を空けられません」


亮介はぬいぐるみを受け取った。


「了解です」


「安全運転で。急ぐことと飛ばすことは違います」


「はい、元警部補」


「元です」


亮介は車に乗り込んだ。

助手席には、かめちゃん。


南ぬ島の道を空港へ向かって走る。青い空、サトウキビ畑、遠くに見える海。いつもなら美しい景色なのに、今は女の子の泣き顔ばかりが頭に浮かんだ。


信号で止まるたび、亮介は助手席のぬいぐるみに声をかけた。


「かめちゃん、もう少しだぞ」


自分でも少しおかしいと思った。

けれど、なぜかそうせずにはいられなかった。


一方、空港では女の子が大泣きしていた。


「かめちゃんがいない!」


母親は荷物を何度も探し、父親は焦った顔でレンタカー会社と連絡を取っていた。搭乗手続きの時間は迫っている。周囲の旅行客も気にしているが、どうすることもできない。


女の子は床に座り込むようにして泣いていた。


「かめちゃん、ひとりになっちゃった……」


その言葉に、母親も目を潤ませた。


そこへ、息を切らした亮介が駆け込んできた。


「かめちゃん、お届けに来ました!」


女の子が顔を上げた。


涙でぐしゃぐしゃになった顔。

信じられない、という目。


亮介は、両手でそっとウミガメのぬいぐるみを差し出した。


「かめちゃん、ちゃんと帰ってきたよ」


次の瞬間、女の子は駆け寄った。


小さな腕で、かめちゃんをぎゅっと抱きしめる。


「かめちゃーん!」


声が空港のロビーに響いた。


その泣き声は、今度は悲しいものではなかった。

安心と喜びが一度にあふれた、子どもだけが出せる声だった。


母親は口元を押さえ、父親は何度も頭を下げた。


「本当にありがとうございます。もう無理だと思っていました」


亮介は息を整えながら笑った。


「間に合ってよかったです。うちの店主が、かなり鋭いので」


女の子は、かめちゃんを抱いたまま亮介を見上げた。


「リョウちゃん、ありがとう」


亮介は一瞬、言葉に詰まった。


「どういたしまして。かめちゃんと一緒に、気をつけて帰ってね」


女の子は何度も頷いた。

ぬいぐるみを抱く手は、もう絶対に離さないという強さだった。


周囲の空港スタッフも、旅行客も、少しだけ笑顔になっていた。


「しおかぜ」に戻ると、玲奈はいつも通りカウンターを拭いていた。


亮介は少し汗だくで報告する。


「届けました」


玲奈は小さく頷いた。


「配送業務は八十点です」


「低くないですか?」


「汗だくで戻ってきたので、身だしなみ減点です」


「厳しいなあ」


「でも」


玲奈は少しだけ目元を緩めた。


「よく間に合わせました」


亮介はその一言で、疲れが少し飛んだ。


後日、「しおかぜ」に絵葉書が届いた。


そこには、飛行機の窓際で、女の子がウミガメのぬいぐるみを抱いている写真が貼られていた。


メッセージには、こう書かれていた。


かめちゃんは、無事に一緒に帰れました。

娘は今でも、しおかぜのリョウちゃんと玲奈さんの話をしています。

ぬいぐるみの名前は、あの日から「プリンちゃん」になりました。


亮介は絵葉書を見て、少し照れたように笑った。


「プリンちゃんかぁ」


玲奈はその絵葉書を、店内の棚に飾った。

エネミヅキのノベルティグッズと、玲奈の手作り風鈴の隣に。


亮介が言う。


「そこに飾るんですね」


玲奈は静かに答えた。


「重要記録です」


「遺失物返還成功記録?」


玲奈は少し考えてから言った。


「思い出の保管です」


軒先の風鈴が、ちりんと鳴った。


「しおかぜ」は今日も、黒糖プリンを出している。

けれど時々、誰かの旅の忘れ物も預かる。


そして必要なら、陽気なウェイターが空港まで走る。


大切なものが、ちゃんと持ち主の手に戻るように。

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