忘れられたぬいぐるみの帰り道 ――リョウちゃん、空港まで走る
夏休みの午後、「しおかぜ」は家族連れで賑わっていた。
黒糖プリンを前に目を輝かせる子どもたち。
地図を広げる父親。
冷たいコーヒーで一息つく母親。
軒先の風鈴が、ちりん、と涼しい音を鳴らしている。
その中に、四歳くらいの女の子を連れた三人家族がいた。
女の子は、色あせたウミガメのぬいぐるみを大事そうに抱えていた。
甲羅の布は少し擦り切れ、片方の目の刺繍も少し緩んでいる。けれど、その子にとっては何より大切な旅の相棒だった。
「その子、名前あるの?」
亮介が水を置きながら聞いた。
女の子は真剣な顔で答えた。
「かめちゃん」
「かめちゃんもプリン食べる?」
「かめちゃんは、見るだけ」
亮介は大げさに頷いた。
「なるほど。見守り係ですね」
女の子は嬉しそうに笑った。
玲奈は厨房からその様子を見ていた。
亮介は子ども相手にも妙にうまい。少し軽いが、相手に合わせて目線を下げるのが自然だった。
やがて家族は会計を済ませた。
「空港へ向かいます。ありがとうございました」
父親が言う。
亮介は笑顔で手を振った。
「お気をつけて。飛行機、間に合いますように」
女の子も小さな手を振った。
「ばいばい、リョウちゃん」
穏やかな別れだった。
だが、数分後。
玲奈が窓際の席を片づけていて、椅子の陰に落ちているものに気づいた。
色あせたウミガメのぬいぐるみ。
亮介の顔色が変わった。
「かめちゃん……!」
玲奈の表情が一瞬で変わる。
カフェ店主ではなく、元警部補の目だった。
「亮介さん、会計時刻を確認。レシート番号。会話内容」
「はい」
「空港へ向かうと言っていましたね」
「はい。お父さんが、十六時台の便だから急がないと」
「レンタカー返却の話もしていました」
「お母さんが、返す前にガソリン入れないとって」
玲奈は素早く状況を組み立てる。
家族連れ。
レンタカー利用。
十六時台の本土方面便。
空港へ向かう途中。
まだ時間はあるが、遅れると搭乗手続きに影響する。
「宿泊先は?」
亮介が記憶を辿る。
「お父さんが、ホテルの朝食が美味しかったって話してました。名前は……たしか、海沿いのリゾート系」
玲奈は頷く。
「レンタカー会社はキーホルダーにロゴがありました。青いイルカのマーク」
「見てたんですか」
「見えていました」
「さすがです」
「感心している場合ではありません」
玲奈はすぐに電話をかけた。
レンタカー会社へ、個人情報に触れない範囲で事情を説明し、「小さなお子様連れの家族が、ウミガメのぬいぐるみを忘れている可能性がある」と伝言を依頼する。続けて空港案内所にも連絡を入れる。
「亮介さん」
「はい」
「あなたが届けてください。私は店を空けられません」
亮介はぬいぐるみを受け取った。
「了解です」
「安全運転で。急ぐことと飛ばすことは違います」
「はい、元警部補」
「元です」
亮介は車に乗り込んだ。
助手席には、かめちゃん。
南ぬ島の道を空港へ向かって走る。青い空、サトウキビ畑、遠くに見える海。いつもなら美しい景色なのに、今は女の子の泣き顔ばかりが頭に浮かんだ。
信号で止まるたび、亮介は助手席のぬいぐるみに声をかけた。
「かめちゃん、もう少しだぞ」
自分でも少しおかしいと思った。
けれど、なぜかそうせずにはいられなかった。
一方、空港では女の子が大泣きしていた。
「かめちゃんがいない!」
母親は荷物を何度も探し、父親は焦った顔でレンタカー会社と連絡を取っていた。搭乗手続きの時間は迫っている。周囲の旅行客も気にしているが、どうすることもできない。
女の子は床に座り込むようにして泣いていた。
「かめちゃん、ひとりになっちゃった……」
その言葉に、母親も目を潤ませた。
そこへ、息を切らした亮介が駆け込んできた。
「かめちゃん、お届けに来ました!」
女の子が顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
信じられない、という目。
亮介は、両手でそっとウミガメのぬいぐるみを差し出した。
「かめちゃん、ちゃんと帰ってきたよ」
次の瞬間、女の子は駆け寄った。
小さな腕で、かめちゃんをぎゅっと抱きしめる。
「かめちゃーん!」
声が空港のロビーに響いた。
その泣き声は、今度は悲しいものではなかった。
安心と喜びが一度にあふれた、子どもだけが出せる声だった。
母親は口元を押さえ、父親は何度も頭を下げた。
「本当にありがとうございます。もう無理だと思っていました」
亮介は息を整えながら笑った。
「間に合ってよかったです。うちの店主が、かなり鋭いので」
女の子は、かめちゃんを抱いたまま亮介を見上げた。
「リョウちゃん、ありがとう」
亮介は一瞬、言葉に詰まった。
「どういたしまして。かめちゃんと一緒に、気をつけて帰ってね」
女の子は何度も頷いた。
ぬいぐるみを抱く手は、もう絶対に離さないという強さだった。
周囲の空港スタッフも、旅行客も、少しだけ笑顔になっていた。
「しおかぜ」に戻ると、玲奈はいつも通りカウンターを拭いていた。
亮介は少し汗だくで報告する。
「届けました」
玲奈は小さく頷いた。
「配送業務は八十点です」
「低くないですか?」
「汗だくで戻ってきたので、身だしなみ減点です」
「厳しいなあ」
「でも」
玲奈は少しだけ目元を緩めた。
「よく間に合わせました」
亮介はその一言で、疲れが少し飛んだ。
後日、「しおかぜ」に絵葉書が届いた。
そこには、飛行機の窓際で、女の子がウミガメのぬいぐるみを抱いている写真が貼られていた。
メッセージには、こう書かれていた。
かめちゃんは、無事に一緒に帰れました。
娘は今でも、しおかぜのリョウちゃんと玲奈さんの話をしています。
ぬいぐるみの名前は、あの日から「プリンちゃん」になりました。
亮介は絵葉書を見て、少し照れたように笑った。
「プリンちゃんかぁ」
玲奈はその絵葉書を、店内の棚に飾った。
エネミヅキのノベルティグッズと、玲奈の手作り風鈴の隣に。
亮介が言う。
「そこに飾るんですね」
玲奈は静かに答えた。
「重要記録です」
「遺失物返還成功記録?」
玲奈は少し考えてから言った。
「思い出の保管です」
軒先の風鈴が、ちりんと鳴った。
「しおかぜ」は今日も、黒糖プリンを出している。
けれど時々、誰かの旅の忘れ物も預かる。
そして必要なら、陽気なウェイターが空港まで走る。
大切なものが、ちゃんと持ち主の手に戻るように。




