迷子の三線が連れてきた歌 ――しおかぜ、安里のおじいの声をもう一度聞く
昼下がりの「しおかぜ」に、一本の古い三線が置き忘れられた。
黒いケースは年季が入り、持ち手は少し擦り切れていた。けれど、中の三線は古びていながらも、丁寧に磨かれていた。長く使われた道具だけが持つ、静かな品があった。
玲奈はそれを見るなり、表情を引き締めた。
「亮介さん、遺失物記録を作ります。発見時刻、席番号、外観、特徴」
亮介は苦笑する。
「完全に元警察ですね」
「返却には記録が必要です」
そこへ、常連のおばあが覗き込んだ。
「あれ……これ、安里のおじいの三線じゃないね?」
安里のおじいは、昔、島の祭りや祝いの席で三線を弾き、島唄を歌っていた名人だったという。だが、妻を亡くしてから、ぱたりと歌わなくなった。最近は祭りにも顔を出さず、家にこもりがちだった。
調べると、三線を忘れたのは安里のおじいの親戚だった。預かっていたものを、うっかり「しおかぜ」に置いていったらしい。
数日後、安里のおじいが店にやってきた。
小柄で、日焼けした顔に深い皺が刻まれている。
目は優しいが、どこか遠くを見ているようだった。
「迷惑かけたね」
おじいは三線を受け取ると、そのまま帰ろうとした。
亮介が、やわらかく声をかける。
「せっかくですから、コーヒーだけでも」
玲奈も黒糖プリンを置いた。
「返却確認のため、少しお時間をください」
おじいは苦笑する。
「それ、ただ座らせたいだけさぁ」
常連のおばあたちが笑った。
店内には、いつの間にか昔を知る人たちが集まっていた。誰かが若い頃の祭りの話をし、誰かが安里のおじいの歌声を懐かしんだ。
「昔はこの人が歌うと、みんな踊ったさぁ」
「奥さんが一番嬉しそうに聞いてたねぇ」
おじいは黙って聞いていた。
やがて、そっと三線をケースから出した。
ぽろん。
小さな音が鳴った。
その一音だけで、店内が静かになる。
おじいは照れたように笑った。
「もう声は出んさぁ」
それでも、指は弦を覚えていた。
ゆっくり、確かめるように弾き始める。
そして、亡き妻が好きだった島唄を、かすれた声で歌い出した。
若い頃の張りはない。
音も、少し揺れていた。
けれど、その歌には長い時間があった。
失った人を思う寂しさ。
島で生きてきた誇り。
もう一度、人前で声を出す小さな勇気。
黒糖プリンの甘い香りと、三線の音と、午後の光が、静かに混ざった。
常連のおばあは涙ぐみ、亮介は黙って聞いていた。
玲奈も厨房の奥で、手を止めて目を伏せていた。
歌い終えると、誰かが拍手した。
その拍手は、すぐに店中へ広がった。
派手ではない。けれど、温かい拍手だった。
安里のおじいは困ったように笑った。
「もう下手になったさぁ」
玲奈は静かに答えた。
「十分、届きました」
その日を境に、安里のおじいは少しずつ外へ出るようになった。
最初は「しおかぜ」で一曲だけ。
次は、常連のおばあの誕生日に二曲。
やがて島の小さな集まりでも、三線を抱えて姿を見せるようになった。
「迷子の三線が、おじいの声を連れて帰ってきたさぁ」
おばあがそう言うと、亮介は嬉しそうに笑った。
「しおかぜ、今度は民謡喫茶ですね」
玲奈は即答する。
「営業形態を勝手に変更しないでください」
「でも、悪くないですよ」
「……検討対象外です」
そう言いながら、玲奈は安里のおじいのために、いつもより少し濃いめのコーヒーを淹れるようになった。
夕方。
安里のおじいが三線を抱えて帰る時、店の前で振り返った。
「また、気が向いたら弾きに来るさぁ」
亮介が手を振る。
「いつでもどうぞ」
玲奈も小さく頷いた。
「黒糖プリン、用意しておきます」
おじいは少し照れたように笑い、ゆっくり歩いていった。
南ぬ島の風が、木製看板を揺らす。
その風の中に、さっきの三線の余韻がまだ残っているようだった。
迷子の三線は、ただ持ち主の元へ戻っただけではない。
失われかけていた歌を、もう一度、島へ連れて帰ってきた。
「しおかぜ」は今日も、誰かの忘れ物を預かり、誰かの思い出をそっと温める。
黒糖プリンとコーヒーと、少しだけ懐かしい歌とともに。




