みうちゃん、ただいましおかぜへ ――霧笛のカウンターが、遅すぎた男の背中を押した日
久しぶりに、みうちゃんが島へ帰ってきた。
「しおかぜ」の扉が開いた瞬間、亮介が最初に気づいた。
「いらっしゃいませ――あれ、みうちゃん?」
少し大人びていた。
髪はきれいに整えられ、服装も神戸の街を知った女性らしく垢抜けている。けれど、笑った時の無邪気な目元は、繁忙日に「相違ありませんか」と明るく注文を取っていた頃のままだった。
「ただいまです、玲奈さん、亮介さん」
玲奈は厨房から出てきて、ほんの少し目を細めた。
「お帰りなさい」
それだけだった。
だが、みうちゃんには分かった。
玲奈はかなり喜んでいる。
みうちゃんは神戸の美容学校を卒業し、今は尼崎の美容室で働いているという。忙しいが、先輩に叱られ、客に緊張し、シャンプーで腕を磨きながら、少しずつ美容師としての一歩を進めていた。
「いつか、島に戻って美容室を開きたいんです」
みうちゃんは黒糖プリンを前に言った。
「しおかぜみたいに、帰ってきた人がほっとできる店にしたくて」
玲奈は静かに頷いた。
「良い目標です」
亮介も笑う。
「みうちゃんならできますよ」
「亮介さんに言われると、なんか信じられます」
「俺、信用回復中なんだけどなあ」
店内に柔らかい笑いが広がった。
その流れで、亮介はぽつりと話し出した。
「実は、俺がここに来る前に、みうちゃんには会ってるんです」
玲奈が顔を上げる。
「聞いていません」
「今、話します」
仮釈放後、亮介はすぐ石垣へ来なかった。
門司港で港湾労働者として働き、汗を流し、少しずつ自分を立て直していた。けれど、玲奈の前に立つ勇気はなかなか出なかった。
ある日、どうしても神戸へ行きたくなった。
港町。
玲奈の故郷。
そして、純喫茶「霧笛」。
亮介はそこを訪ねた。
かつて玲奈と何度か訪れた、神戸港近くの静かな店。カウンターの向こうには、変わらない女主人がいた。
「まあ……よう来たね」
女主人は驚いた顔をしながらも、彼を追い返さなかった。
そして、その日、偶然みうちゃんも霧笛でアルバイトをしていた。
「最初は分からなかったんです」
みうちゃんは少し照れたように言う。
「でも女主人さんの反応で、あ、この人が玲奈さんがずっと待ってた人なんだって」
霧笛のカウンターで、亮介は自分の迷いを話した。
まだ玲奈に会う資格がない気がすること。
門司で働いていること。
でも、本当は会いたいこと。
女主人は、深くため息をついて言ったという。
「玲奈ちゃん、待っとるよ。あの子は口では強がるけど、ずっと席を空けてる。もう十分逃げたんちゃう?」
みうちゃんも言った。
「玲奈さん、ずっと待ってました。島で、お店を守って。だから、行ってあげてください」
亮介は、その言葉でようやく腹を決めた。
「だから、俺がここに来られたのは、霧笛の女主人と、みうちゃんのおかげなんです」
亮介は苦笑する。
「まあ、感動の再会を想像して来たら、いきなり皿下げでしたけど」
みうちゃんは吹き出した。
「玲奈さんらしいです」
玲奈は平然とコーヒーを置く。
「繁忙時間帯に来る方が悪いです」
「いや、俺としては劇的な登場を」
「業務妨害です」
亮介は肩をすくめた。
「でも、あの日からずーっとここで働いてます」
玲奈は少し神戸弁を混ぜて言った。
「いくら騙し取られたか分からんしね。働いて返すのは当然です」
言葉は厳しい。
けれど、その横顔はどこか嬉しそうだった。
みうちゃんは、そんな二人を見て胸が温かくなった。
神戸で泣いていた自分を、玲奈は支えてくれた。
亮介が島へ来る背中を、自分も少し押した。
今、その二人が「しおかぜ」で並んでいる。
遠い場所が、ひとつにつながっているようだった。
「私も頑張ります」
みうちゃんはまっすぐ言った。
「尼崎でちゃんと腕を磨いて、いつか島に戻って、美容室を開きます。しおかぜみたいに、あったかい場所にします」
玲奈は柔らかく答える。
「楽しみにしています」
みうちゃんは少し笑って、亮介を見る。
「あと、亮介さんみたいなパートナーも探さないと」
亮介が照れる。
「俺みたいなのは、かなり手がかかりますよ」
玲奈が即座に言う。
「おすすめはしません」
「玲奈さん、そこは少しフォローを」
「事実です」
みうちゃんはくすくす笑う。
「でも、楽しそうです」
玲奈の耳が少し赤くなった。
「みうちゃん、パートナー選びは慎重に。契約書は読みなさい」
「はい。相違ありませんか?」
玲奈は小さく笑った。
「相違ありません」
窓の外では、南ぬ島の風が木々を揺らしていた。
神戸の霧笛。
門司港の汗。
尼崎で働くみうちゃん。
石垣で待ち続けた玲奈。
そして、遅すぎた男がようやく座った「しおかぜ」のカウンター。
遠く離れた場所で起きた小さな出来事が、今この店で静かに結び目になっている。
みうちゃんは黒糖プリンを一口食べ、目を細めた。
「やっぱり、ここに帰ってくると落ち着きます」
玲奈は短く答えた。
「いつでもどうぞ」
亮介も笑う。
「お帰り、みうちゃん」
その言葉に、みうちゃんは少しだけ涙ぐんだ。
「はい。ただいまです」
「しおかぜ」は、その日も穏やかだった。
帰ってきた人に「お帰り」と言い、旅立つ人に「行ってらっしゃい」と言える店。
そして玲奈と亮介は、黒糖プリンより手のかかる恋を抱えながら、今日もそのカウンターに並んで立っていた。




