黒糖プリンのカラメル戦争 ――しおかぜ、おしどり未満の夫婦喧嘩を島中で仲裁される
「しおかぜ」は、今日も平和だった。
玲奈は厨房で黒糖プリンを仕込み、亮介はホールで常連のおばあに水を出している。観光客に「ご夫婦ですか?」と聞かれると、玲奈は即座に「違います」と答える。亮介は隣で少し嬉しそうに笑う。
「違うんですか?」
観光客が笑う。
玲奈は淡々と黒糖プリンを皿に乗せた。
「業務上の共同運営者です」
常連のおじいが新聞を畳んだ。
「それ、島では夫婦って言うさぁ」
「言いません」
「じゃあ、おしどり未満さぁ」
亮介が笑う。
「未満なら、ちょっと近いですね」
玲奈の耳が赤くなる。
「勤務中です。私語を控えてください」
そんなやり取りが、もう「しおかぜ」の日常になっていた。
ところが、その平和な店で、実にくだらない喧嘩が起きた。
原因は、黒糖プリンのカラメルだった。
昼の客足が少し落ち着いた頃、亮介が試作品を一口食べて、何気なく言った。
「今日のカラメル、ちょっと苦めですね」
玲奈の手が止まる。
「今日の火加減が正解です」
「いや、美味しいんですよ。ただ、観光客には昨日くらいの優しい苦味の方がウケるかも」
「今日が正解です」
「でも、味の好みって人それぞれで」
「亮介さん」
玲奈は静かに振り向いた。
「黒糖プリンに関する最終判断権は私にあります」
亮介は一瞬、しまったという顔をした。
だが、そこで引けばよかったのに、少しだけ口が滑った。
「でも、ホールでお客さんの反応を見ているのは俺なので」
空気が止まった。
常連のおばあが、小さく「あら」と言った。
玲奈は無表情だった。
「では、厨房も担当されますか」
「そういう意味ではなくて」
「カラメルの火加減は、秒単位です」
「それは分かっています」
「分かっている人の発言ではありません」
亮介は黙った。
そこから、店内の空気が少しぎくしゃくした。
亮介はホールでいつもより静かだった。
玲奈は厨房で、いつもよりカップを置く音が硬かった。
黒糖プリンは変わらず美味しいのに、店全体に微妙な緊張が漂っている。
常連のおばあは、もちろん見逃さない。
「リョウちゃん、玲奈ちゃんと喧嘩したね?」
「してません」
厨房から玲奈も即答する。
「していません」
おじいが新聞を畳む。
「二人とも同じ硬さで否定したさぁ。これは喧嘩さぁ」
「原因は何ね?」
「カラメルです」
亮介が正直に答える。
店内が静まる。
そして、次の瞬間。
「カラメルね?」
「それだけね?」
「平和すぎる喧嘩さぁ!」
常連たちは大爆笑した。
しかし本人たちは真剣だった。
亮介は腕を組む。
「お客さん目線も大事だと思うんです」
玲奈も譲らない。
「職人の基準も大事です」
「少し優しい味の方が、初めての人には入りやすいです」
「苦味があるから黒糖の甘さが立ちます」
「それは分かりますけど」
「分かっていません」
おばあたちは、すぐに仲裁へ乗り出した。
「じゃあ、食べ比べればいいさぁ」
「昨日の優しい版と、今日の苦め版」
「しおかぜ黒糖プリン・カラメル住民投票さぁ!」
玲奈は眉を寄せる。
「住民投票にする規模の問題ではありません」
亮介は少し乗り気になる。
「でも、データは取れますよ」
「統計母数が不足しています」
「プリンで統計って言わないでください」
だが、もう遅かった。
常連のおばあたちは完全に盛り上がり、観光客まで巻き込まれた。
いつの間にか店内では、小さな試食会が始まっていた。
玲奈は苦め版を用意する。
亮介は昨日に近いやさしい版を用意する。
おじいは苦め版を食べて頷いた。
「こっちが大人の味さぁ」
おばあはやさしい版を食べる。
「私はこっちが好き。ほっとする味ね」
若い観光客は迷う。
「苦めも美味しいけど、やさしい方が写真撮ったあとに食べやすいかも」
別の常連が言う。
「でも、玲奈ちゃんの苦い方はクセになるさぁ」
投票は割れた。
亮介は少し得意げになる。
「ほら、やさしい味派も多いです」
玲奈は無表情。
「票差は僅差です。結論を急ぐべきではありません」
「負けず嫌いですね」
「品質管理です」
すると、最年長のおばあがぽんと手を打った。
「じゃあ、二つ作ればいいさぁ」
店内が静かになった。
「玲奈ちゃんの苦めも美味しい。リョウちゃんの言うやさしいのも美味しい。なら、日によって選べるようにしたらいいさぁ」
おじいも頷く。
「夫婦喧嘩から新商品さぁ」
玲奈は即座に言う。
「夫婦ではありません」
亮介も笑う。
「でも、新商品は良さそうですね」
玲奈は少し考えた。
確かに、悪くない。
通常版はこれまで通り、黒糖の甘みを引き立てる少し苦めのカラメル。
そして数量限定で、初めての客にも食べやすい、やさしいカラメル版。
「……採用します」
亮介の顔が明るくなる。
「本当ですか」
「ただし、名称は慎重に決めます」
おばあが言う。
「夫婦喧嘩プリンは?」
「却下です」
「仲直りプリンは?」
亮介が笑う。
「それ、いいですね」
玲奈は少し頬を赤くした。
「検討対象外です」
結局、名前は無難に決まった。
やさしいカラメル黒糖プリン
翌日から数量限定で出すと、これが思いのほか評判になった。
通常版の苦めの余韻を好む常連もいれば、やさしい版を気に入る観光客もいる。
常連たちは、もちろん毎回からかった。
「今日は喧嘩プリンあるね?」
「その名称ではありません」
「仲直りプリンちょうだい」
「正式名称でお願いします」
亮介は横で笑う。
「やさしいカラメル黒糖プリン、一点ですね」
「リョウちゃん、分かってるさぁ」
玲奈は厨房で少しだけ不満そうにしていたが、売れ行きが良いので文句は言えなかった。
閉店後。
店内には、二種類の黒糖プリンの試作品が並んでいた。
玲奈と亮介はカウンターに座り、静かに食べ比べる。
亮介が言う。
「喧嘩したおかげで新商品ができましたね」
玲奈はコーヒーを飲む。
「喧嘩ではありません。商品開発上の意見交換です」
「かなり感情的でしたよ」
「亮介さんが余計なことを言ったからです」
「すみません」
亮介は素直に頭を下げた。
「言い方が悪かったです。玲奈さんのカラメル、俺、本当に好きなんです。ただ、お客さんによっては別の入口もあっていいかなって」
玲奈は少しだけ黙った。
「私も、少し強く言いました」
「珍しいですね。玲奈さんが謝るの」
「謝ってはいません。事実確認です」
「はい」
亮介は笑った。
玲奈は、やさしいカラメル版をひと口食べた。
「でも、今日のあなたの意見は……悪くありませんでした」
亮介の顔が明るくなる。
「評価は?」
「八十二点です」
「細かい」
「ただし、ホールの意見としては有用でした」
「ありがとうございます」
少し沈黙。
亮介は通常版の黒糖プリンを食べて、柔らかく言った。
「でも、俺はやっぱり玲奈さんの苦めのカラメルが好きです」
玲奈の手が止まる。
「それは、プリンの話ですか?」
亮介は少し笑った。
「プリンの話です。今は」
玲奈は視線を逸らす。
「……減点します」
「なんでですか」
「言い方がずるいです」
「褒めたのに」
「ずるい褒め方です」
亮介は嬉しそうに笑った。
玲奈も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
黒糖プリンのカラメルひとつで喧嘩して、島のおじいおばあに仲直りさせられる。
そんな、何でもない一日。
けれど、玲奈にとってそれは、少し不思議な幸せだった。
誰かと意見がぶつかる。
少し拗ねる。
周りに笑われる。
仲直りして、明日のメニューが増える。
それは、ひとりで待っていた頃にはなかった時間だった。
南ぬ島の夜風が、窓をやさしく揺らす。
「しおかぜ」は、明日も開く。
苦めの黒糖プリンと、やさしいカラメル黒糖プリン。
そして、おしどり未満の二人の、少し甘くて少し苦い日常とともに。




