しおかぜ前、元警部補の血が騒ぐ ――玲奈、交通事故を見たら放っておけない
昼下がりの「しおかぜ」は、いつものように穏やかだった。
黒糖プリンは残り三つ。
亮介は観光客に川平湾への行き方を説明し、玲奈は厨房でコーヒーを淹れていた。
その時、店の外で鈍い音がした。
どん、と重い音。
続いて、誰かの短い悲鳴。
玲奈の手が止まった。
「亮介さん、店をお願いします」
「え、今の音……」
「事故です」
玲奈はエプロンを外し、迷いなく外へ出た。
店の少し先の交差点で、地元の軽トラックが道路脇に寄っていた。バンパーが歪み、運転していたおじいが驚いた顔で降りている。幸い大けがはなさそうだった。
だが、もう一台の車がいない。
玲奈の目が変わった。
元兵庫県警交通課。
若くして警部補まで上り詰めた優秀な警察官。
その血が、完全に騒いでいた。
「当て逃げですね」
玲奈は冷静に言い、破片の位置、タイヤ痕、接触角度を見た。
落ちていたプラスチック片を確認し、近くの観光客に目撃情報を聞く。
「白いレンタカー、右側に傷。外国人っぽい男性。北へ向かった」
玲奈はすぐに店へ戻り、亮介に言った。
「レンタカー会社に連絡。白いコンパクトカー、右前破損。近隣の防犯カメラも確認します」
「警察より早いですね」
「初動が命です」
数分後、玲奈はレンタカー会社と近くの土産物店から情報をつなぎ、車両を割り出した。
地元警察が到着する前に、彼女はすでに問題のレンタカーが近くの駐車場にいることを掴んでいた。
そこには、動揺した外国人観光客が立っていた。
玲奈は英語を交え、静かに、しかし逃げ場のない声で言った。
「You were involved in an accident. Do not leave. Police are coming. Stay here.」
相手は青ざめ、言い訳を始める。
玲奈は遮らない。
ただ、必要なことだけ確認する。
「運転者。時間。接触場所。移動理由。免許証。レンタカー契約書」
まるで現役だった。
やがて駐在所の警官と本署の交通担当が到着した。
現場には、すでに玲奈作成の簡易メモ。
目撃者名。車両情報。破損箇所。事故直後の写真。外国人運転者の確認事項。
地元警官はそれを見て、感心半分、苦笑半分で言った。
「岡本さん……助かるけど、ちょっと勘弁してよ~。こっち到着する前にほぼ終わってるさぁ」
本署の交通担当も苦笑する。
「元警部補って聞いてましたけど、早すぎます」
玲奈は平然としていた。
「最低限の初動確認です」
「最低限じゃないです」
結局、事故は大事にはならなかった。
軽トラックのおじいに大きなけがはなく、外国人観光客も逃げる意思というより、動揺してその場を離れてしまったようだった。とはいえ当て逃げは当て逃げである。警察が正式に処理し、レンタカー会社も対応に入った。
「しおかぜ」に戻ると、亮介がひとりで店を回していた。
「おかえりなさい、岡本警部補」
「元、です」
「お客さんには、店主が事故処理中ですと説明しました」
「余計な説明です」
「でも皆さん納得してました」
常連のおばあが笑う。
「玲奈ちゃん、警察辞めても警察さぁ」
玲奈は少しだけ困った顔をした。
閉店後。
「しおかぜ」は静かだった。
昼の騒ぎが嘘のように、外では南ぬ島の夕暮れがゆっくり沈んでいる。
亮介がコーヒーを二つ置いた。
「今日は、お疲れさまでした」
玲奈はカップを見つめ、珍しく肩の力を抜いた。
「警察やめてもな、やっぱ放っとかれへんねん」
神戸訛りの混じった、少し砕けた声だった。
亮介は笑った。
「玲奈さんらしいです」
「今はカフェ店主なんですけどね」
「でも、事故を見たら動く人でもある」
玲奈は窓の外を見た。
「昔の癖って、抜けないものですね」
「抜けなくていい癖もありますよ」
亮介は少しだけ真面目な顔で言った。
「今日のおじい、助かりました。外国人の人も、逃げ続ける前に止まれた。玲奈さんが動いたからです」
玲奈はしばらく黙っていた。
「そう言われると、少し救われます」
「褒めています」
「では、受け取ります」
亮介は笑う。
「しおかぜの肩書き、また増えましたね。黒糖プリン職人、元戦隊ヒロイン、元警部補、事故現場初動対応担当」
「あなたも、元詐欺師、元港湾労働者、現ウェイター、広報担当、皿下げ主任です」
「皿下げ主任、地味だなあ」
「重要職です」
二人は静かに笑った。
玲奈はもう警察官ではない。
けれど、困っている人を見れば動いてしまう。
正義感というほど大げさではない。体が勝手に動くのだ。
亮介はそんな玲奈を見て、少し眩しそうに言った。
「俺、やっぱり玲奈さんには敵いません」
「勝とうとしていたんですか」
「少しだけ」
「無謀です」
「ですよね」
南ぬ島の夜風が、木製看板を揺らした。
「しおかぜ」は、明日も開く。
黒糖プリンを出す小さなカフェとして。
そして、何かあれば元警部補の血が騒ぐ、美人店主の店として。




