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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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島になじめなかった保育士さん ――しおかぜ、移住一年目の涙を預かる

小川奈央は、千葉県松戸市の出身だった。


都内の保育園で働いていた頃、彼女の毎日は分刻みだった。朝の満員電車、終わらない連絡帳、保護者対応、行事準備、持ち帰り仕事。子どもは好きだった。けれど、好きだけでは体がもたなかった。


自然の中で、もっと穏やかに子どもと関わりたい。


そう思って、三十二歳の春、奈央は石垣へ移住した。


青い海。広い空。風に揺れる緑。

最初は、何もかもが救いのように見えた。


けれど、暮らしは観光写真のようにはいかない。


島の保育園の仕事は、思っていたより忙しかった。車がなければ生活は不便で、台風前の準備にも慣れない。何より、地域の人間関係の近さに戸惑った。


誰かが誰かを知っている。

誰かの話が、翌日には別の場所へ届いている。

親切は温かい。けれど、時々、距離が近すぎて息が詰まる。


奈央は少しずつ笑えなくなった。


そんな彼女が、仕事帰りに立ち寄るようになったのが「しおかぜ」だった。


玲奈は何も聞かず、黒糖プリンとコーヒーを出した。

亮介はいつもの明るさで声をかけたが、踏み込みすぎはしなかった。


「奈央さん、今日はコーヒー濃いめにします?」


「……お願いします」


「了解です」


玲奈は静かに言う。


「糖分補給も必要です」


奈央は少しだけ笑う。


「それ、毎回言いますね」


「必要だからです」


二人は、奈央に親身だった。

けれど、無理に励まさなかった。

それがありがたかった。


ある夕方、奈央は閉店間際の「しおかぜ」でぽつりと言った。


「私、本土へ帰ろうと思います」


亮介の手が止まる。

玲奈は静かにカップを置いた。


「そうですか」


奈央は涙をこらえる。


「島が嫌いなわけじゃないんです。でも、馴染めなくて。仕事も、人間関係も、全部うまくできなくて。私、向いてないんだと思います」


玲奈はしばらく黙っていた。


そして、珍しく自分の話を始めた。


神戸で生まれ育ったこと。

中学生で両親を失い、丹波篠山の山深い祖父母の家で暮らしたこと。

警察官になったこと。

戦隊ヒロインとして表舞台に立ったこと。

任務で傷つき、恋にも失敗し、詐欺にも遭ったこと。

そして、石垣へ来たこと。


「私も、どこにいても完全には馴染めませんでした」


奈央は驚いたように玲奈を見る。


「玲奈さんでも、ですか」


「私でも、です」


玲奈は淡々と言った。


「向いてないなら帰ればいいです」


奈央は目を見開いた。


励まされると思っていた。

もう少し頑張れと言われると思っていた。


でも、玲奈はそう言わなかった。


「帰るのは失敗ではありません。合わない場所に無理に居続けることの方が、壊れます」


奈央の目から涙が落ちた。


「でも……」


玲奈は続ける。


「ただ、帰ると決める前に、もう少しだけ試してもいい。帰る場所があるなら、急がなくてもいいです」


亮介が横から優しく言った。


「奈央さん、島に馴染むって、島に全部合わせることじゃないと思いますよ。少しずつ、ここに自分の居場所を作ることかもしれません」


奈央は黙って泣いた。


その日から、少しずつ変わった。


亮介は奈央を常連のおばあたちに自然に紹介した。

玲奈は保育園帰りの奈央に、島野菜サンドの試食を頼んだ。

常連のおじいは、台風前の雨戸の止め方を教えた。

おばあは「困ったら言いなさい」と野菜を渡した。


奈央は最初、戸惑った。

けれど、少しずつ受け取れるようになった。


保育園でも、子どもたちが奈央を頼るようになった。

島の言葉が分からず困っていた彼女に、園児が笑って教えてくれる。


「先生、そこはこう言うさぁ」


奈央は笑った。


春の終わり頃。


奈央は「しおかぜ」に来て、黒糖プリンを前に言った。


「私、あと少しこっちに居ようと思います」


玲奈はカップを置く。


「そうですか」


亮介も笑う。


「それが良いかもね」


二人とも、言葉はそれだけだった。


でも、顔は少し嬉しそうだった。


奈央はそれを見て、泣き笑いになった。


「もっと喜んでくれてもいいんですよ」


玲奈は真顔で答える。


「過度な感情表現は苦手です」


亮介が笑う。


「でも、玲奈さん、かなり喜んでます」


「亮介さん、余計な説明です」


窓の外では、南ぬ島の春の風が吹いていた。


島に残ることも、帰ることも、どちらも間違いではない。

大切なのは、自分で選ぶこと。


奈央は、もう少しだけ、この島で暮らしてみることにした。


「しおかぜ」はその日も、誰かの涙を少しだけ預かり、黒糖プリンの甘さで静かに送り返していた。

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