島になじめなかった保育士さん ――しおかぜ、移住一年目の涙を預かる
小川奈央は、千葉県松戸市の出身だった。
都内の保育園で働いていた頃、彼女の毎日は分刻みだった。朝の満員電車、終わらない連絡帳、保護者対応、行事準備、持ち帰り仕事。子どもは好きだった。けれど、好きだけでは体がもたなかった。
自然の中で、もっと穏やかに子どもと関わりたい。
そう思って、三十二歳の春、奈央は石垣へ移住した。
青い海。広い空。風に揺れる緑。
最初は、何もかもが救いのように見えた。
けれど、暮らしは観光写真のようにはいかない。
島の保育園の仕事は、思っていたより忙しかった。車がなければ生活は不便で、台風前の準備にも慣れない。何より、地域の人間関係の近さに戸惑った。
誰かが誰かを知っている。
誰かの話が、翌日には別の場所へ届いている。
親切は温かい。けれど、時々、距離が近すぎて息が詰まる。
奈央は少しずつ笑えなくなった。
そんな彼女が、仕事帰りに立ち寄るようになったのが「しおかぜ」だった。
玲奈は何も聞かず、黒糖プリンとコーヒーを出した。
亮介はいつもの明るさで声をかけたが、踏み込みすぎはしなかった。
「奈央さん、今日はコーヒー濃いめにします?」
「……お願いします」
「了解です」
玲奈は静かに言う。
「糖分補給も必要です」
奈央は少しだけ笑う。
「それ、毎回言いますね」
「必要だからです」
二人は、奈央に親身だった。
けれど、無理に励まさなかった。
それがありがたかった。
ある夕方、奈央は閉店間際の「しおかぜ」でぽつりと言った。
「私、本土へ帰ろうと思います」
亮介の手が止まる。
玲奈は静かにカップを置いた。
「そうですか」
奈央は涙をこらえる。
「島が嫌いなわけじゃないんです。でも、馴染めなくて。仕事も、人間関係も、全部うまくできなくて。私、向いてないんだと思います」
玲奈はしばらく黙っていた。
そして、珍しく自分の話を始めた。
神戸で生まれ育ったこと。
中学生で両親を失い、丹波篠山の山深い祖父母の家で暮らしたこと。
警察官になったこと。
戦隊ヒロインとして表舞台に立ったこと。
任務で傷つき、恋にも失敗し、詐欺にも遭ったこと。
そして、石垣へ来たこと。
「私も、どこにいても完全には馴染めませんでした」
奈央は驚いたように玲奈を見る。
「玲奈さんでも、ですか」
「私でも、です」
玲奈は淡々と言った。
「向いてないなら帰ればいいです」
奈央は目を見開いた。
励まされると思っていた。
もう少し頑張れと言われると思っていた。
でも、玲奈はそう言わなかった。
「帰るのは失敗ではありません。合わない場所に無理に居続けることの方が、壊れます」
奈央の目から涙が落ちた。
「でも……」
玲奈は続ける。
「ただ、帰ると決める前に、もう少しだけ試してもいい。帰る場所があるなら、急がなくてもいいです」
亮介が横から優しく言った。
「奈央さん、島に馴染むって、島に全部合わせることじゃないと思いますよ。少しずつ、ここに自分の居場所を作ることかもしれません」
奈央は黙って泣いた。
その日から、少しずつ変わった。
亮介は奈央を常連のおばあたちに自然に紹介した。
玲奈は保育園帰りの奈央に、島野菜サンドの試食を頼んだ。
常連のおじいは、台風前の雨戸の止め方を教えた。
おばあは「困ったら言いなさい」と野菜を渡した。
奈央は最初、戸惑った。
けれど、少しずつ受け取れるようになった。
保育園でも、子どもたちが奈央を頼るようになった。
島の言葉が分からず困っていた彼女に、園児が笑って教えてくれる。
「先生、そこはこう言うさぁ」
奈央は笑った。
春の終わり頃。
奈央は「しおかぜ」に来て、黒糖プリンを前に言った。
「私、あと少しこっちに居ようと思います」
玲奈はカップを置く。
「そうですか」
亮介も笑う。
「それが良いかもね」
二人とも、言葉はそれだけだった。
でも、顔は少し嬉しそうだった。
奈央はそれを見て、泣き笑いになった。
「もっと喜んでくれてもいいんですよ」
玲奈は真顔で答える。
「過度な感情表現は苦手です」
亮介が笑う。
「でも、玲奈さん、かなり喜んでます」
「亮介さん、余計な説明です」
窓の外では、南ぬ島の春の風が吹いていた。
島に残ることも、帰ることも、どちらも間違いではない。
大切なのは、自分で選ぶこと。
奈央は、もう少しだけ、この島で暮らしてみることにした。
「しおかぜ」はその日も、誰かの涙を少しだけ預かり、黒糖プリンの甘さで静かに送り返していた。




