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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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帰る船のチケット ――“南ぬ島は向いてなかった”と言った青年

南ぬ島は、人を救う場所のように見える。


青い海。

白い雲。

ゆっくり流れる時間。

朝の市場に並ぶ島野菜。

夕方の港を染める金色の光。


けれど、誰にとっても楽園とは限らない。


その青年は、冬の終わり頃から「しおかぜ」に来るようになった。


名前は柏原悠斗。二十八歳。神奈川県横浜市出身。

元は本土のIT企業に勤めていた。だが、その会社はいわゆるブラック企業で、終電帰り、休日出勤、鳴り止まない通知、数字だけで人を測る上司に追い詰められ、心も体もすり減ってしまった。


「南の島で、ゆっくり暮らしたかったんです」


ある日、悠斗は黒糖プリンを前に、ぽつりとそう言った。


亮介は静かに水を置いた。


「でも、うまくいかなかった?」


悠斗は苦笑する。


「はい。思っていたより、生活でした」


玲奈は少しだけ目を細めた。


その言葉は、正直だった。


移住前に見ていた動画や雑誌では、南ぬ島の暮らしは美しかった。海のそばで働き、昼はカフェで休み、夜は星を見て眠る。そんな生活を夢見ていた。


だが、現実は違った。


仕事は不安定。

車がないと不便。

人間関係は近い。

物価は思ったより高い。

台風は怖い。

そして、何より孤独だった。


「島が悪いんじゃないんです」


悠斗は慌てるように言った。


「いい人もいます。海も綺麗です。でも……僕には向いてなかった」


玲奈は、責めなかった。


亮介も、慰めすぎなかった。


ただ、カウンターの向こうで静かに聞いていた。


「帰るんですか」


玲奈が尋ねる。


悠斗は頷いた。


「明後日の船で。那覇経由で本土へ戻ります」


亮介が少しだけ驚く。


「もうチケット取ってるんですね」


「はい。最後に、ここの黒糖プリンを食べておきたくて」


玲奈は何も言わず、プリンの皿を少しだけ彼の方へ寄せた。


悠斗は、スプーンで一口すくう。


「……やっぱり美味しいですね」


「ありがとうございます」


「この店みたいに、島に居場所を作れたらよかったんですけど」


玲奈は静かに答えた。


「向いていない場所に、無理に居続ける必要はありません」


悠斗は顔を上げた。


「引き止めないんですね」


「引き止めません」


亮介も頷く。


「帰るのも、逃げじゃないですよ。合う場所、合わない場所ってありますから」


悠斗は、少しだけ肩の力が抜けたようだった。


「そう言ってもらえると思ってませんでした。島の人にも、本土の人にも、“せっかく来たのに”って言われる気がして」


玲奈は淡々と言った。


「せっかく来たからこそ、分かったこともあります」


亮介が笑う。


「スローライフって、外から見るよりずっと生活ですしね」


「亮介さんが言うと軽いです」


「すみません」


少しだけ、悠斗が笑った。


帰る前日、玲奈は悠斗のために小さな送別会を開いた。


本人は遠慮したが、常連のおばあたちは勝手に集まった。

誰かがおにぎりを持ち、誰かが漬物を持ち、亮介はコーヒーを淹れ、玲奈は黒糖プリンを一皿、いつもより丁寧に盛りつけた。


「送別会です」


玲奈が言う。


悠斗は困ったように笑った。


「失敗して帰るだけなのに」


「失敗ではありません」


玲奈は即答した。


「合わないと分かっただけです」


亮介が横から言う。


「石垣移住卒業式ですね」


玲奈が睨む。


「表現を修正してください」


「南ぬ島短期研修修了式」


「少し改善しました」


常連のおばあが笑う。


「悠斗くん、また遊びに来ればいいさぁ」


おじいも頷く。


「住まんでも、来ればええ」


その言葉に、悠斗の目が少し潤んだ。


「また来ていいんですか」


玲奈は黒糖プリンを置きながら言った。


「もちろんです。住む場所ではなく、帰ってくる場所として」


悠斗は、しばらく何も言えなかった。


翌日、悠斗は島を離れた。


「しおかぜ」の前で、亮介が荷物をタクシーへ運んだ。

玲奈は小さな紙袋を渡す。


中には、黒糖プリンではなく、玲奈のハンドメイドの小さな貝殻のキーホルダーが入っていた。


「お守りではありません。記念品です」


「玲奈さんらしいですね」


悠斗は笑った。


「ありがとうございました。僕、帰ります」


「はい」


玲奈は少しだけ目元を緩めた。


「お元気で」


半年後。


「しおかぜ」の扉が開いた。


入ってきたのは、少し日焼けの抜けた悠斗だった。以前より顔色が良く、目元に力が戻っている。


亮介が最初に気づいた。


「あれ、悠斗くん?」


悠斗は笑った。


「ただいま。旅行です」


玲奈はカウンターの奥から静かに言う。


「お帰りなさい」


悠斗は嬉しそうに席へ座った。


「横浜に戻ってから、小さなカフェで働いています。あと、“地方移住相談コミュニティ”を始めました」


亮介が目を丸くする。


「移住に失敗したのに?」


「だからです」


悠斗は少し照れたように笑った。


「無理な移住を勧めない活動です。南の島に行けば人生が変わる、田舎に行けば癒される、そういう簡単な話じゃないって伝えています。住む前に仕事、医療、交通、人間関係、全部ちゃんと考えましょうって」


玲奈は静かに頷いた。


「良い活動です」


悠斗は黒糖プリンを見つめる。


「僕、ここで帰ることを肯定してもらったから、今それを人に言えている気がします」


亮介が柔らかく笑う。


「帰るのも、ちゃんと前進だったんですね」


「はい」


悠斗はプリンを一口食べた。


「やっぱり、美味しい」


玲奈は短く答える。


「当然です」


常連のおばあが横から言う。


「悠斗くん、今度は長居していきなさい」


「はい。でも旅行として」


「それでいいさぁ」


窓の外では、南ぬ島の海が光っていた。


この島に残る人がいる。

この島を離れる人もいる。

一度離れて、また旅人として戻ってくる人もいる。


それぞれの幸せがある。


玲奈はカップを磨きながら、少しだけ微笑んだ。


「しおかぜ」は、誰かを無理に引き止める店ではない。

帰る人に黒糖プリンを渡し、戻ってきた人に「お帰り」と言う。


それで十分だった。

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