帰る船のチケット ――“南ぬ島は向いてなかった”と言った青年
南ぬ島は、人を救う場所のように見える。
青い海。
白い雲。
ゆっくり流れる時間。
朝の市場に並ぶ島野菜。
夕方の港を染める金色の光。
けれど、誰にとっても楽園とは限らない。
その青年は、冬の終わり頃から「しおかぜ」に来るようになった。
名前は柏原悠斗。二十八歳。神奈川県横浜市出身。
元は本土のIT企業に勤めていた。だが、その会社はいわゆるブラック企業で、終電帰り、休日出勤、鳴り止まない通知、数字だけで人を測る上司に追い詰められ、心も体もすり減ってしまった。
「南の島で、ゆっくり暮らしたかったんです」
ある日、悠斗は黒糖プリンを前に、ぽつりとそう言った。
亮介は静かに水を置いた。
「でも、うまくいかなかった?」
悠斗は苦笑する。
「はい。思っていたより、生活でした」
玲奈は少しだけ目を細めた。
その言葉は、正直だった。
移住前に見ていた動画や雑誌では、南ぬ島の暮らしは美しかった。海のそばで働き、昼はカフェで休み、夜は星を見て眠る。そんな生活を夢見ていた。
だが、現実は違った。
仕事は不安定。
車がないと不便。
人間関係は近い。
物価は思ったより高い。
台風は怖い。
そして、何より孤独だった。
「島が悪いんじゃないんです」
悠斗は慌てるように言った。
「いい人もいます。海も綺麗です。でも……僕には向いてなかった」
玲奈は、責めなかった。
亮介も、慰めすぎなかった。
ただ、カウンターの向こうで静かに聞いていた。
「帰るんですか」
玲奈が尋ねる。
悠斗は頷いた。
「明後日の船で。那覇経由で本土へ戻ります」
亮介が少しだけ驚く。
「もうチケット取ってるんですね」
「はい。最後に、ここの黒糖プリンを食べておきたくて」
玲奈は何も言わず、プリンの皿を少しだけ彼の方へ寄せた。
悠斗は、スプーンで一口すくう。
「……やっぱり美味しいですね」
「ありがとうございます」
「この店みたいに、島に居場所を作れたらよかったんですけど」
玲奈は静かに答えた。
「向いていない場所に、無理に居続ける必要はありません」
悠斗は顔を上げた。
「引き止めないんですね」
「引き止めません」
亮介も頷く。
「帰るのも、逃げじゃないですよ。合う場所、合わない場所ってありますから」
悠斗は、少しだけ肩の力が抜けたようだった。
「そう言ってもらえると思ってませんでした。島の人にも、本土の人にも、“せっかく来たのに”って言われる気がして」
玲奈は淡々と言った。
「せっかく来たからこそ、分かったこともあります」
亮介が笑う。
「スローライフって、外から見るよりずっと生活ですしね」
「亮介さんが言うと軽いです」
「すみません」
少しだけ、悠斗が笑った。
帰る前日、玲奈は悠斗のために小さな送別会を開いた。
本人は遠慮したが、常連のおばあたちは勝手に集まった。
誰かがおにぎりを持ち、誰かが漬物を持ち、亮介はコーヒーを淹れ、玲奈は黒糖プリンを一皿、いつもより丁寧に盛りつけた。
「送別会です」
玲奈が言う。
悠斗は困ったように笑った。
「失敗して帰るだけなのに」
「失敗ではありません」
玲奈は即答した。
「合わないと分かっただけです」
亮介が横から言う。
「石垣移住卒業式ですね」
玲奈が睨む。
「表現を修正してください」
「南ぬ島短期研修修了式」
「少し改善しました」
常連のおばあが笑う。
「悠斗くん、また遊びに来ればいいさぁ」
おじいも頷く。
「住まんでも、来ればええ」
その言葉に、悠斗の目が少し潤んだ。
「また来ていいんですか」
玲奈は黒糖プリンを置きながら言った。
「もちろんです。住む場所ではなく、帰ってくる場所として」
悠斗は、しばらく何も言えなかった。
翌日、悠斗は島を離れた。
「しおかぜ」の前で、亮介が荷物をタクシーへ運んだ。
玲奈は小さな紙袋を渡す。
中には、黒糖プリンではなく、玲奈のハンドメイドの小さな貝殻のキーホルダーが入っていた。
「お守りではありません。記念品です」
「玲奈さんらしいですね」
悠斗は笑った。
「ありがとうございました。僕、帰ります」
「はい」
玲奈は少しだけ目元を緩めた。
「お元気で」
半年後。
「しおかぜ」の扉が開いた。
入ってきたのは、少し日焼けの抜けた悠斗だった。以前より顔色が良く、目元に力が戻っている。
亮介が最初に気づいた。
「あれ、悠斗くん?」
悠斗は笑った。
「ただいま。旅行です」
玲奈はカウンターの奥から静かに言う。
「お帰りなさい」
悠斗は嬉しそうに席へ座った。
「横浜に戻ってから、小さなカフェで働いています。あと、“地方移住相談コミュニティ”を始めました」
亮介が目を丸くする。
「移住に失敗したのに?」
「だからです」
悠斗は少し照れたように笑った。
「無理な移住を勧めない活動です。南の島に行けば人生が変わる、田舎に行けば癒される、そういう簡単な話じゃないって伝えています。住む前に仕事、医療、交通、人間関係、全部ちゃんと考えましょうって」
玲奈は静かに頷いた。
「良い活動です」
悠斗は黒糖プリンを見つめる。
「僕、ここで帰ることを肯定してもらったから、今それを人に言えている気がします」
亮介が柔らかく笑う。
「帰るのも、ちゃんと前進だったんですね」
「はい」
悠斗はプリンを一口食べた。
「やっぱり、美味しい」
玲奈は短く答える。
「当然です」
常連のおばあが横から言う。
「悠斗くん、今度は長居していきなさい」
「はい。でも旅行として」
「それでいいさぁ」
窓の外では、南ぬ島の海が光っていた。
この島に残る人がいる。
この島を離れる人もいる。
一度離れて、また旅人として戻ってくる人もいる。
それぞれの幸せがある。
玲奈はカップを磨きながら、少しだけ微笑んだ。
「しおかぜ」は、誰かを無理に引き止める店ではない。
帰る人に黒糖プリンを渡し、戻ってきた人に「お帰り」と言う。
それで十分だった。




