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天秤の仕事

「顔色は悪いですが、腫れは引いてきましたね」


 ライカの主治医であるルーウェン・ハルブスはそう言って頭から手を離した。


「おそらく頭を打った衝撃で限局的に記憶を失くされたのだと思いますが……」

「治りますでしょうか?」


 セイランは心配そうに尋ねた。

 一晩が経過したが、事件の記憶は戻らないままだ。


「記憶の分野は解明が進んでおりませんから……。

 ただ、一時的なことも多いので、あまり悲観なさらず」

「ありがとうございます、先生」


 ベッドの中で、ライカはぼんやりと天井を見上げた。

 昨晩は本当に大変だった。

 宴で調停を済ませたのは良いが、無理をしたせいか体調は芳しくなかった。


「頑張りましたね、ライカ」


 ルーウェンの帰りを見届けた後、セイランは優しい声でライカを褒めた。

 娘のことを心配するあまりか、セイランの目の下には深い隈が刻まれており、少女の胸はちくりと痛んだ。


「もう、大丈夫ですよ」

「強いのね」


 水の入ったコップを渡され、ライカは一口煽った。

 瞬く間に乾いた喉に染み込み、喋りやすくなる。


「ハルブス先生は信頼できる方です。あなたの性別もご存知ですよ」


 セイランのその言葉に、ライカは決意したように一息飲んだ。


「そのことですが……」


 セイランは静かにこちらを見ていた。

 にこにこと穏やかな表情をして。

 その顔を曇らせてしまうのは心が痛むが、意を決してライカは続きを口にする。


「どうして、お祖父様は私に男装をさせたのですか?」


 僕から私に呼び方が変わったことに気付き、セイランはちらりとライカを見た。

 けれどそのことには触れずに、ただ質問の内容について逡巡する。


「それは……」


 その顔は雨の日の空のようだった。

 クラシェイドでは話題にしてはならないことの一つだからだ。

 けれど、どうしても確認しておかなくてはならない。


 命を狙われたのだから。


 部屋に置いてある姿見に目をやる。

 鏡の中の少女が、自分を見返した。


 紫色の髪に、青白い肌。

 小さな鼻に薄い唇。

 どこかセイランに似た面影はあるが、華がなく地味な印象を受ける。

 着ている服装と相まって、中性的な顔立ちに見えた。


「『エルドガール法大全』第2編・身分篇・第2章第11条で、

 家名、氏名、称号および公的に記録された性別を偽り、他人または官に誤解を与えた者は、その情状に応じて処罰されるものとす、とあります。

 また、第4編・治安と刑律篇・第2章第5条で……」

「わかってます!」


 セイランはどこか切迫した表情でライカを止めた。


「王国の法に触れることはわかっているのです」


 遠い昔を思い出すような目をして、セイランは天井を見上げた。

 どこか悲しそうに感じるのは気のせいだろうか。


「この国は女性でも爵位を継げます。

 けれど、<王国の天秤>を含む特権を手にした女性は一人もいないのです」

「一人も……?」


 上に向けていた目を今度は下に向け、顔を俯かせながらセイランは静かに告げる。


「女性が特権を持つのは危険なのです。

 だからあなたは男装をさせられていたのです」


 だから、とセイランは悲痛な顔をして懇願した。


「どうか、わかってください」


 ライカはただ、頷くしかなかった。




 ◇




 エルドガール王国には五つの特権がある。

 王が持つ権力の一部を五人の有力な貴族に分配し、当主となった者が行使できるようになっている。

 特権は家門ごとに引き継がれ、その力をもって王国を安定させるのである。


 勝利を齎す<王国の長剣>。


 警護を預かる<王国の甲冑>。


 医療を扱う<王国の薬杯>。


 流通を回す<王国の車輪>。


 そして、調停を図る<王国の天秤>。


 この王国でその特権について知らない者はいない。

 けれど、特権の持ち主であるライカは、まだまだ知らないことだらけだった。


――まずは理解しないと。


 ライカはベッドの中で本を読んでいた。

 他にすることがないからだ。

 書斎にはたくさんの本があり、そこから何冊か選んで寝室に持ち込んだ。

 彼女が選んだのは法律に関する写本だ。

 流れるような美しい文字で綴られている。

 知らない人が見れば、文学の本だと錯覚しただろう。


「見てください、ライカ。

 この間の調停が噂となり、こんなに嘆願書が届いています」


 読書を楽しんでいたライカに声がかかる。

 楽器の演奏を聴いているような心地よい声――セイランだった。


「嘆願書ですか?」

「あなたに調停を依頼する手紙です」


 ベッドの中で療養する彼女に、セイランは束になった手紙を見せた。


「もちろん、あなたは病人なので、これは私が対処します」


 セイランはライカの評判が上がったことが嬉しいようだ。

 そのことを知らせたくて、手紙を持ってきたのだろう。


――私の<王国の天秤>としての評価は低かったからなぁ。


 思えばろくに調停できた試しはない。

 それなのに、口ばかり回り、いつも刺々しい口調で相手を責め、そしてそれが通じないとなると、暗い表情で俯いた。


――これでは、だれも信頼しないよね。


 過去の自分を省みて、ライカはため息を吐く。

 そんな自分ができるのは、これから<王国の天秤>として行動することだけだった。

 ライカはセイランに向かって手を伸ばす。


「一応、内容を読ませていただけませんか?」

「構いませんが、無理はしないでくださいね」


 手紙の束を受け取ると、ライカは差出人の名前を確認した。

 どの人物にも覚えはなく、交流がない者たちだった。


「下位貴族同士の諍いが多いようですね」


 基本的に貴族間で問題が起こると、それより上の身分の貴族に仲裁を頼むことが多い。

 その対象として<王国の天秤>はうってつけなのだろう。


「社交界での立場が弱かったヴィンス伯爵を助ける形になりましたから、期待されているのかもしれません」


 セイランが誇らしそうに微笑んだ。

 手紙に目を通したのは良いが、ベッドから出られないライカでは解決しようがない問題が多かった。

 代役と称してセイランに対応してもらうしかなさそうだ。


「河川の蛇行に伴う土地の境界問題……?」


 ふと目についた手紙をライカは手に取った。

 手紙というより資料の入った封筒だ。他の手紙よりも大きくて分厚い。


 ノルヴァン領領主、ヴィクトル・マルステラという男からのものだった。


「川を隣の領地との境界にしていのに、洪水で移動してしまったのですね」


 ノルヴァン領の領地に川が流れ込み、土地が減ってしまった。

 その分、増えたのが隣のトリスタン領である。


「トリスタン領は増えた土地ですでに耕作を行っており、困ったノルヴァン領領主が嘆願書を出した、ということですね」

「これは白黒つけられない問題ですよ、ライカ」


 資料に目を通しながらセイランは難しそうな顔をする。


「そうですね。『エルドガール法大全』第3編・家と財の篇・第3章第45条、

 隣接する土地の争いは、両家の登記書および旧来の村証言に基づき審理されるものとす、とありますが……」

「境界はあくまで川としか記述されていないようです。

 その点が詳しく明文化されていない以上、トリスタン領の耕作を止めることはできないかもしれません」


 ライカもその意見に同意する。

 けれど、ここで諦めてしまっては嘆願書を送ったヴィクトルに下げる頭がない。

 添付された資料を頼りにライカは考える。


「どうしますか?」


 そう尋ねるセイランは落ち着いたものだ。

 彼女にはもう、どう対処すべきか算段がついているようだった。


――<王国の天秤>の目指すところは〝均衡〟。


 そう思い出し、ライカははっとした顔でセイランを見た。

 彼女は静かに頷く。


「記録を付けた当時の、変化する前の川の位置を境界とします」

「トリスタン領が納得しないでしょうね」


 ライカは古い地図と新しい地図をベッドに並べ、同じ箇所をそれぞれ指で示した。


「この辺りを見てください。

 こちら側は逆にトリスタン領に向かって川が流れ込んでいます。

 今はまだ緩やかな曲線を描いていますが、いつかノルヴァン領と同じことになるかもしれません」


 その言葉にセイランは正解と言わんばかりに手を叩く。

 その様子にライカはほっと息を吐いた。


「これを説得の材料にして、トリスタン領領主に手紙を送ります」

「それが良いと思います」


 ライカは立ち上がると、部屋にある机まで移動した。

 引き出しから便箋を取り出すと、羽ペンに墨を浸し、文字を認めた。


 その文字は先ほどまで読んでいた本と同じ筆跡だ。

 それも当然だった。なぜならあの写本の多くは、ライカが書いたものなのだから。


「何度見ても素晴らしいこと」


 ベッドに投げ出された本を開くと、セイランはうっとりとした表情でそれを眺める。

 娘が書き写した紙を製本し、表紙をつけたそれは専門家が作った本と遜色なかった。


――今までやってきたことは無駄じゃなかった。


 ライカは自分の書く文字を目で追いながら考える。

 その流れるような字は、気が遠くなるほど書き続けた結果、たどり着いた美しさだ。


――でも、その中で変わっていくこともあるということかもしれない。


 自分が変わったように。

 いつか、どこかで決断しなくてはならない日が来るように。


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