挿話 とある女の一生 【1】
カルラ・アンドローシェは世が世ならば王女様のはずだった。
祖母は辺境の小さな国の王女だったが、祖母が七歳の折に当時の宰相に誑かされた国民たちの手によってその地位を奪われた。
親兄弟はすべて殺され、愛してやまなかった国を追われても、その身に流れる尊い血を仰ぐ人々が祖母nに貴族並みの生活を保障していた。
そして年頃になると支援者の一人との愛のない結婚をしてカルラの父を産み落とした。
ところが祖母の一人息子である父は己の存在意義を正しく理解しようとしなかった。
祖国に帰れば王であるはずの父は、祖母と祖父の教えを嫌い、十五の若さで出奔した。
偽名を使ったのだろうか、祖父の力を持ってしても消息は追えなかったが、ある時ふらっと明らかに異国の血の混じった女を連れて戻ってきた。
自分と異国人である女の庇護を願ったのだ。
異国人と結婚した息子を祖父母は容赦なく非難し、妻である女の存在を無視しようとしたが、女の腹が膨らんでいることに気が付き、悪魔の提案をする。
庇護が欲しいのなら腹の子を我らに差し出せ、と。
流浪の旅に疲れ果てていた息子とその妻は、その提案を飲んだ。
その時の子がカルラだ。
祖母は父親の二の舞をさせはしまいとカルラを親から引き離し、英才教育を施した。
王族、貴族であれば必要不可欠な教養、マナー、数種類の言語。音楽、美術には造詣深く、自分を美しく磨かせることも忘れない。
なにより王族であることの誇りをその身と心に刻み続けた。
カルラのそばにはいつも祖母が付き添い、少しでも間違えれば手の甲をぴしゃりと細い鞭で叩く。
カルラは朝起きて夜寝るまで気の休まる暇もなかった。
唯一の喜びは、普段やさしさの欠片も見せない祖母が満足したときに見せる微笑だった。
それはカルラが教師によくできましたと褒められる時にしか見せない、一瞬のことだ。
その一瞬がカルラを天上へと舞い上がらせる。
そのために努力を惜しむことはなかった。
祖母はカルラにとって絶対の人だった。
祖母であり父であり母であり教師であり導く人だった。
その祖母が亡くなった。
カルラが十一の年の夏に胸をわし掴むように押えて苦しそうに顔を歪め、そのままばたんと前に倒れ込んで動かなくなったのだ。
カルラがあわてて駆け寄ったときにはもう遅く、祖母はこの世を去っていた。
尊厳なる祖母にふさわしい葬儀が終わると、今までカルラに傅いていた支援者たちは手のひらを返すどころかカルラを見捨てた。
祖母の支援者たちはみな年を取り、代替わりをしているものがほとんどで、若い世代たちは誰もが滅亡した王家の末裔などに、純血であるならまだしも異国の血を濃く受け継いだカルラになど、王女であった祖母の後ろ盾がないのなら仰ぐ必要など皆無だと判断したためだ。
なにより、祖母の他にも動乱を避け生き残った王族がいたらしく、カルラのまたいとこにあたるその人のほうが異国の血が混じったカルラよりよほど尊い血を保持していると、自分たちの親に隠れて支援していたのだ。
カルラはそれまで与えられていた宝石やドレスの数々、調度品や小さな小物に至るまですべてを取り上げられ、祖母に預けられて以来ほとんど面識のない家族の元に返された。
一度も会ったこともない弟や妹たち。
それまでとは天と地ほどの差がある貧しい暮らし。
初めの頃はカルラの貴族然とした姿に「お姫様が家に来た!」とはしゃいでいた妹たちは、日がたつにつれ何もしない、何もできない、それどころか何かあるごとに誰かを呼びつけ命令する姉にうんざりとした様子を見せ、次第にカルラの傍に寄ってこないようになった。
母も年長であるカルラをあてにして家の手伝いをしてもらおうとするが、そんなことは下女のすることだと言い切り、手伝いをしようとするそぶりさえ見せないカルラに頭を抱える。
仕事帰りの父を捕まえて、あれが欲しいこれが足りないと詰め寄る姿は日常となった。
「なぜそれがいるんだい」
ある日、家に戻ってきたばかりの父親に爪やすりとコーティング液が必要だと訴えたカルラは、今までになく声を押し殺し冷めた眼で見下ろす父親に戸惑いを感じた。
「な、なぜって。必要だからに決まっていますわ」
「そうかい? 昨日は化粧ブラシ、一昨日は髪飾り、その前はたしかペンダントだったかな。 君が必要だと訴えるものはどれも着飾るためには必要だが、生活をするためには絶対必要なものでもないと私は思うね」
「なにをおっしゃいますの。王族たるもの、最低限の身だしなみは必要ではありませんか」
「……王族? 誰が王族なんだね」
「可笑しなことを。お父様や私以外に誰が王族だと」
「カルラ。 君は長い間夢を見ていたんだよ。今の自分の姿を鏡で見たことがあるかい? 家族の姿をその曇った目を開いて見たことがある? この住まいは、出される食事は、付き従う者は。……君がこの家に戻ってきてすでに一年経ったけれど、君はその間に何か一つでも学べたのかい」
何を学ぶ?
カルラはこのつましい家に学ぶべきものなどないと切り捨ててきた。
王族のカルラの生活を支えるべき家は、カルラに最低限の暮らしを約束することもできず、いつもひもじい思いをさせ、あわよくば王族であるカルラに下女の様な下働きをさせようとする。
カルラと同じ血が流れているはずの小さな弟や妹たちは祖母の傍に上がることを許されなかった。
きっと異国人の母親の性が強く出過ぎて王族としては相応しくなかったからだろう。
真の王族は父と自分のみ。
だというのに傅かれもせず労働に準じよとはあまりではないか。
そういったことは下級貴族や平民に任せておけばよい。
この家には仕えるものがいないのだから、それは王族ではない母や弟、妹たちがすべきことのはず。
カルラは如何に自分の置かれた境遇が不適切であり不愉快であることを父親にこんこんと説明するが、カルラが口を開くたびに父の眉間に深いしわが刻まれ、こめかみがひくついていることにカルラは気付くことはなかった。
「言うことはそれだけかい」
普段は優しい父親の怒気を含んだ声に、カルラは初めてたじろいだ。
「ひとつ訂正しておこうか。私も君も王族であったことは一度としてない。母は確かに辺境の小さな王国の姫だったがそれも七歳まで。その後は身分をはく奪され、平民となってこの国まで逃げてきただけのこと。君は自分を王族だというが、どの国の王族なのか。守るべき民は、土地はどこにある。王族王族というのであればその義務をなぜ把握していない。矜持だけ高くても務めは果たすことができないのであれば、それは王族ではない。君は母とその支持者たちから間違った知識を植えつけられた、ただの平民だよ」
「……なにを、」
声を荒げているわけではない、けれど恐ろしいまでの怒りを孕んだ目がまっすぐにカルラを射抜く。
「まだわからないのかい? 今ある姿が君の本来の姿なんだよ。いつまでも母が存命だったころの待遇を
受けられるなどと夢を見てはいけない」
「……ち、違うわ。私は、」
「何一つ違わない。君は、カルラは私たちと同じ平民だよ」
「違う、違うわっ!」
カルラは父親の言葉をどうしても受け付けることができなかった。
恐ろしくも敬愛した祖母は目を細めて、カルラを最後の王女と言っていた。
祖母の前で跪く支援者たちもカルラのことを尊いお方と言い、敬っていたではないか。
それを「違う」という簡単な言葉で切り捨てる父親に、皆が敬うカルラを平民とのたまう父親に、強い寒気を覚え体を震わせた。
「ゆっくりとでもいい、現実を受け入れなければこの先幸せはないよ」
両手で体を抱きしめて震えているカルラを憐れんだのか、父親は少し声を和らげてカルラの細い肩に手を掛けた。
「嫌っ!」
ぱしんと小気味よい音が部屋に響く。
カルラは無意識に自分の肩におかれた父親の手を払いのけたのだ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ
誰かが叫んでいる言葉がカルラを支配する。
じりじりと後退るカルラに父親が戸惑いながら手を伸ばすと、カルラは身を翻してあてがわれた部屋に逃げ込んだ。
触れられた肩がじんじんと熱を持ち、ゆっくりとカルラの体を蝕んでいく。
このままではいけない。
蔑ろにされて、貶められてはいけない。
気が付いたらカルラは月だけが輝く夜の街に立っていた。
あたりを見回しても誰もいない。
それどころか家々からはすでに灯は消え失せ、夜の深さを物語っていた。
恐ろしい。
カルラは一人で過ごしたことがない。
祖母が生きていた頃は誰かが必ず傍に控えていたし、子沢山の家庭では家のどこかに必ず誰かがいた。
全くの一人きりになったことなどないカルラにとって、暗闇の中で一人という状況は、たったそれだけのことでも十分に恐怖の対象となった。
カタン、とどこかで何かの音がする。
ビュオオオオと風が建物の間をすり抜けていく。
昼であればなんのことはない自然の音も、今のカルラには何か不気味なものが自分を襲おうとしていると勘違いさせるに十分なものだった。
カルラは逃げた。
暗闇をかき分けるようにもたつく足に鞭打ちながら逃げた。
普段から家事ひとつ満足にこなすことのできないひ弱な体は直ぐに悲鳴を上げる。
けれども迫ってくる闇が、恐怖がカルラを突き動かして一歩また一歩とこの場所ではないどこか遠くへと逃げようとした。
どのくらい彷徨ったのか見当もつかないほど逃げ迷っていたカルラだったが、前方から何やら楽しげに人々が笑う声と何色もの灯りが目に飛び込んできた。
助かったのね。
カルラは息も絶え絶えだったが、目の前の藁をつかみ損ねるわけにはいかないと、必死に足を動かした。
赤い大きな門がカルラを迎え入れる。
門をくぐればそこはまるでお祭り騒ぎか、それとも祖母や皆が夢見るように話してくれた舞踏会の会場か。
きらきらと輝く街頭は美しく着飾った女たちに色を与えている。
男たちはゆっくりとした足取りで女たちを眺めているが、一人、また一人と不思議な形をした建物の中に吸い込まれていく。
小さな子供たちは皆おそろいの髪型と服装で誂えていてなんともかわいらしい。
ゆったりとして流れる音楽はあちこちの建物から流れてきているが奇妙にも調和がとれている。
ああ、なんて素晴らしい。
カルラは道の真ん中で夢のような夜を眺めていた。
「さて、君はどこの子だい。その簡素な衣服を見ればお披露目どころか童女にも届かない子供のようだが。どれ、青田買いと洒落込んでわたし好みの女に仕立て上げてもよいがな」
急に目の前に現れた男はカルラの全身をねっとりと見まわすと、満足そうに何度も頷いた。
自分の父親ほどの年齢の、随分と腹に肉を付けた男はにやつきながらカルラの腕をとる。
人に掴まれたことなどないカルラは、驚きと恐怖で身動きが取れずに男のなすがまま、腕の中へと連れ込まれた。
ひ、と喉から声にならない声が上がる。
父親にすら抱いてもらったことなどないカルラは、こと男性に免疫がない。
恐ろしさにがくがくと足が鳴り、身体から力が抜ける。
男は凭れ掛かってきたカルラに脈ありと思ったのか、憚ることなくカルラを抱き上げすたすたと大通りを歩き始めた。
だがその歩みもすぐに止まる。
男の前に忽然と女が現れ、立ちはだかったのだ。
「なんだ、女か」
男が邪魔だが争う気などないとばかりに女を避けて通おうとしたが、なぜかその場から動くことが叶わない。
女は何をしているわけでもない、ただ男の前にすっと立っているだけだというのに、男は蛇に睨まれた蛙のように体が竦んで動けないのだ。
カルラは急に動かなくなった男を訝しみながらも好機を逃すつもりもなく、女に助けを求めようと視線を上げた途端、カルラも男のように身動きがとれないほどの衝撃を受けた。
女は、カルラが知りえる誰よりも美しい存在だった。
一歩間違えれば下品ととられかねないほど胸を大きく開けた翡翠色のドレスに、さらに胸を強調させるための大ぶりの血よりも赤い宝石が谷間の際で燦然と輝き、彼女から放たれる他者を圧倒させる強烈な色気を増幅させている。
「クロンキストの娘をどこに連れて行こうとしているのか」
その立ち姿とは真逆の端的な物言いに呆気にとられたカルラだったが、男はびくんと大きく体を震わせると不安げにあちこち視線を彷徨わせた。
先ほどまでの享楽的で賑やかしかった大通りは奇妙なざわめきに包まれていた。
誰もが目の前の女に注意を払い、女は敬意と憧れを、男は興奮を隠そうともせず女を眺めている。
「アルベルティーナだ」
「クロンキストの女神がこんな時間になぜここに」
「見て、あの胸に輝く宝石の大きさを」
「私も早くクロンキストで部屋を持ちたいわ」
ああはやりと、男は絶望に染まる。
目の前の女はやはり、噂に聞くクロンキストのアルベルティーナだ。
ダリーンでその名を知らないものはいないと言われるほどの女だ、敵に回すに恐ろしい。
男は助力を求めようと顔見知りを探そうとしたが叶わず、それどころか誰もが男に突き刺すような視線を向けている。
だがなぜ子供一人を持ち帰ろうとしただけでアルベルティーナに迫られなければならない?
大通りの真ん中でさらし者にならなければならない。
ここは花の街。あちこちで嬌声が上がる街だ。
誰もが同じようなことをしているではないか。
男は自分の正当性を捻り出し、果敢にもアルベルティーナに挑んだ。
返ってきたのは見物客の嘲笑と、アルベルティーナの薄く落とされた瞼から覗く下種を見るような眼差しだった。
男は自分の不利を知った。
「どこに連れて行こうと?」
言い聞かせるようなゆっくりとした低い声が大通りに響き渡る。
その声に面白いほど反応した男は、まるで熱い鉄の棒を握らされそうになったかの様にカルラの細い腕を慌てて突き放すと、他人の眼などお構いなしに裏通りへと駆けていく。
二度と男はこの通りに足を踏み入れることは叶わないに違いない。
クロンキストのアルベルティーナに睨まれたとあってはダリーンにあるどの娼館も男を門前払いすることだろう。
カルラは痛む腕をさすりながら、自分の置かれた状況を冷静に判断しようとして大きく息を吸い込んだ。
助けてほしいと心で願ったカルラだったが、まさかたった一声、女が声をかけるだけで男が逃げ去っていこうとは思ってもみなかった。
目の前にいる女は素晴らしいプロポーションと美貌を持っているが、男を撃退するほどの腕力があるわけでも誰かの手を借りたわけでもないというのに、非力なカルラを簡単に捕えた男をあっさりと追い出したのだ。
なんて、力。
カルラは救ってくれた女を羨んだ。
「さて、迷子の娘。ここがどこかわかっているか?」
ため息交じりの声にカルラは目を見開いた。
「迷子ではありません」
「そうか?どこをどうみても迷子にしか見えないが」
「逃れてきたのです。私を不当に扱う不毛の地から」
「ほう?それはなんともいえんな」
ふ、と女が見せた笑みがカルラに奇妙な闘争心を沸かせた。
―――――淑女たるもの、いついかなるときでも背筋を伸ばし、悠然と構えていなければなりません。
今ほど祖母の教えを有難いと思ったことなどない。
カルラは背筋をぴんと伸ばし、肩の力を抜いて女の前に立つ。
女はカルラの淑女そのものといった姿に片眉をあげた。
『では家出娘か』
『家出とはなんでしょうか』
『家出を知らんとはどこの箱入り娘だ』
『箱入り……?貴女は先ほどからわからない言葉を使い、私を愚弄しているのですか』
「まさか、そんなわけなどない。だがあなたが今の言葉を知る機会を持たないほど大切に育てられた娘であることには違いない。どうしてそのような娘がその場所から逃げる必要がある?」
「私は私の育った環境とは違う場所に閉じ込められただけです。私は私に見合った生活をしたい。そう、この場所にいる女性たちの様に美しく、あなたの様に気高く、強くありたい。だから逃げたのです」
「気高い?私が?」
女は手入れをされてつるんとした手で口元を隠しながら、何が面白いのか声を殺して笑っている。
カルラも野次馬たちもいきなり笑い始めた女を呆然と見ているだけだったが、女がひとしきり笑い終わった後に手を振り払うと周りにいた者たちはまるで今まで何もなかったような元のざわめきを生み出してどこかへ向かい、大通りには女とカルラだけが残った。
「あなたは変わった人だ。このダリーンに住まう私を気高いだなどと誰が言うものか。だが、その言葉に免じてあなたをこの場所から帰らせてあげよう。さあ、あなたの住まいはどちらだ」
「私に住まいなどありません」
「そうか?それはあなたがそう感じているだけで、本当のところはきちんとした住まいがあると思うが」
「いいえ、あの場所に帰ることなど私は望みません。私は……私はできればここに留まり、あなたのように気高く誇り高くありたいのです」
カルラは真っ直ぐに女の瞳を見た。
女もカルラをじっと見る。
しばらく二人はびくとも動かずお互いを見つめあっていたが、先に折れたのは意外にも女のほうだった。
「手を」
女の言葉にカルラはすっと手を差し出す。
そうすることでこの世界へ入ることができるなら簡単なことだと薄く笑った。
上に、下に、斜めにと女はカルラの手を丹念に調べると、今度は女の指先がゆっくりとカルラの指先を舐めるようになぞる。
次は髪を一房掴み上げて指で梳く。
時間をかけて梳く髪は光沢を放ち、さらさらと女の指の間をすり抜けていく。
『美しい』
女はカルラのぷっくりとした唇にも指を這わす。
ぞくっと背筋に何かが走ったが、カルラは女に気取られないように我慢した。
『さてあなたはどうしたい?この街で暮らしたいとはいっても生活の仕方はそれぞれ違う。誇り高くありたいと願うのであればこの街で暮らすには辛すぎる試練が伴うが』
『私は……私はあなたのような女性になりたいと願います』
『そうか。ではあなたを私の付き人として雇ってあげよう。そして私が何をしているか、その目をしっかりと見開いてみているがいい』
もう少し何か言われるのではないかと身構えていたカルラは呆気ないほど簡単に決まった身の振りに拍子抜けした。
『私はクロンキストのアルベルティーナという。あなたは?』
『私はカルラ。氏は捨てました』
そう答えながら、カルラは自分の言葉に驚きを隠せないでいた。
アンドローシェという氏は祖母の夫である祖父のものだ。
祖父から受け継ぐ氏を、祖母とその支援者たちの元で暮らしていたカルラは一度として使ったことがない。
いや、正確に言えば氏を名乗る必要などなかったのだ。
周りにいる者たちはみな祖母を慕い、敬っていた。
その横に存在するカルラのことも、当時はたいそう可愛がってくれていたがカルラの名を呼ぶのは祖母のみで、他の誰もは氏どころか名すら呼ぼうともしなかった。
けれども祖母が亡くなり、父の元に帰された時に同じくして返ってきたアンドローシェという氏はカルラを苦しめた。
祖母が持つ氏とはかけ離れた、王族にはない平平凡凡な貴族の持つ氏が。
私も君も王族であったことは一度としてない。
父親が諭すようにカルラに言った言葉だ。
カルラは父が王族ではないと言い切った時に、父を嫌悪した。
いや、憎悪した。
王族としても許されず、けれども祖父の孫として与えられたはずの生を生きることも許されず。
祖母や支持者たちから植え付けられた教育は、カルラに歪んだ矜持を与えていた。
では私は私だけの王であればよい。
持って生まれた氏など必要ない、私という高貴な存在を皆に認めさせればよいだけだわ。
ぐ、と奥歯を噛みしめて、カルラはやっと自覚した。
自分が本当は何を手に入れたかったのかを。
『ではその名も捨てればよい。そして新しい名で過去を振り返らず前を向いて生きればよい』
新しい、名?
そうね、新しく生まれ変わるというのに名が以前のままならばそれは過去を引きずったままということね。
とすればアルベルティーナいう通り、前に進むに相応しい名を生まれたばかりの新しい私に私が自ら名付けることこそが、過去に決定的な別れを告げることとなるでしょう。
グリューネ・ロワイグスト・テーゼ
辺境にあった小国の最後の王女の名が脳裏に浮かんだ。
七歳で国を追われて身分を剥奪されても、揺るぐことのなかった信念の持ち主の名を。
孫娘に王制復興を説き、教えた尊敬すべき執念の人を。
ああ、なんて素晴らしい。
カルラという王女でも平民でもない存在を払拭できる唯一の名を見つけることができた時の喜びは言葉では言い表せないほどの高揚感をカルラに与えた。
「ではもう一度聞こう」
アルベルティーナはカルラの手を握り、その胸の上にそっと置いた。
「あなたの名は?」
「グリューネ。私の名はグリューネと」
手を置いた胸にじんわりとした温かさが広がっていく。
まるで新しい名が体に染み込んでいくように。
この時よりグリューネとなった彼女に、アルベルティーナは優しく微笑み、背中を押した。
「ようこそ、グリューネ。新たな世界に踏み入れるに相応しい名をお持ちだ」
クロンキストの重々しい扉は開かれ、グリューネは知らずして夜の住人となった。
※会話文のカッコが二種類ありますが、それは意図して使っています。