ほんとだ。
【前回のあらすじ】
土曜の朝、佐保の部屋の窓の下の紙が、まとめて床に落ちていた。拾い終えてから昼前にスマホを見ると、金曜の夜に梶からメールが来ていた。六月に送られた目次案は、迷惑メールのフォルダに入っていた。梶は、その分け方で本を進めると書いてきた。佐保は床の写真を分けようとして分けられず、机の上に束ねて置いた。
◇ ◇ ◇
月曜の昼、郵便の棚に、あの紙が戻っていた。
二週間あまり前に、私がここへ置いた紙だ。置いた翌日には、なかった。
二十六の行の頭に、鉛筆で同じ小さな印がついていた。上の余白に、見たことのない字で、発送済、とある。横に、先週の日付。
出たのだ。二十六通。
中津タエ、の行にも、ほかの行と同じ印がついていた。書かなくなった人のところへ、終わりの案内だけが、届く。
作成者の欄は、空のままだった。誰の紙かを、あの人は聞かなかった。使って、返した。
棚に、戻した。
移すのは、土日のうちに済んでいた。月曜の朝、画面を開くと、いつもの一覧がいつもの場所になかった。代わりに、新しいナレッジベースが開いた。
主任がフロアの前に立った。半歩下がってから、言った。
「今日から、新しいほうです。分からないことは、業者の方が一日いてくださいますので」
水色の紐の人が、後ろに立っていた。六月に、フロアの前で説明をした人だ。
「日野さんには、午前中、向こうで確認に入ってもらいます」
日野さんの席は、朝から空いていた。
フロアに、声が立った。ふだんは、キーの音しかしない部屋だ。前のはどこ、これは何、という声が島から島へ渡った。
「テスト、って出てくるんだけど」
「誰の、あ、だよ」
笑いが、起きた。六月に、一人ひとつ、練習でテスト環境に入れた記事だ。本番とそっくりの形で、中身の空いていた、あのほうだ。それが、本番の一覧に、混ざっていた。
業者の人は島を回って、同じことを言っていた。
「テスト環境の記事が、混ざったようです。確認して、消します」
すぐには、消えなかった。消すには、消していい、という返事が要るらしかった。
私は、一覧を開かなかった。開かなくても、打てる。自分の書いたものは、探さなくても、指にある。
十時半に、机の端で、音はしなかった。
昼休みが終わって、フロアが戻ってきた。
声が、朝と違っていた。探す声ではなく、見つけた声だった。
「これ、見た?」
「手順どおりにやったのに、ってやつ」
隣の島の若い子が画面を見ながら、読み上げた。
「お呼びいただかなくて、大丈夫です。見えるところで、そのままお待ちください」
私の一行だった。目より先に、耳に来た。
一覧を、開いた。
件名の列に、それはあった。『手順どおりにやったのに直らない対応マニュアル』。ほかの件名の並びの中に、番号と日付をつけて、入っていた。
列が、一つ増えていた。使用回数。その記事が、客への返事に何回使われたかを数える列だ。旧マクロには、なかった。
十一、とあった。
墓地の隅の数字は、十年、見なかった。見ないでいられた。ここでは、字と同じ大きさで、隣の列に出ている。見ないでいる場所が、なかった。
消すところを、探した。件名を開いても、直すところも、消すところも、私の画面には出なかった。入れるほうは、六月に、許されていた。消すほうは、はじめから、私には、なかった。
指が、キーの上で止まった。
一時を過ぎて、声は増えていった。
「これ、効くね。手順どおりにやったのに、って人に送ると、向こうが謝ってくる」
「え、これ、日野さんじゃない? 見えるところで待ってれば、来るって」
「言えてる」
笑いが二つ三つ、重なった。悪い笑いでは、なかった。日野さんが来る、というのは、このフロアの誰でも知っていることだ。知っていることが、一覧の中に、あった。
「これ、撮っとこ」
隣の島の、誰かの声だった。私のです、と言えば、消してもらえる。言うには、誰を見て書いたかを、言うことになる。消すところは、私の画面にない。残っているのは、何もしないことだけだった。
何もしないで、キーの上に手を置いて、座っている。見えるところで、止まっている。
五月の夜に、その人の扱い方として書いた一行だ。六月に、一度、自分で使った。いまは、使うつもりもなかった。
三時までに、使用回数は四十を超えた。六月に、あの人は言った。本番とは切り離してありますので、何が起きても、お客様のほうには影響が出ません、と。四十人の客の画面に、届いていた。
三時を過ぎて、日野さんが戻ってきた。
入口から自分の席へは寄らずに、こちらへ来た。私の手がキーの上で止まっているのを、入口から見たのだと思う。
机の端に、飴が置かれた。
「遅くなっちゃった。ずっと、向こうで」
「すみません」
出たのは、それだった。
日野さんは、私の画面を見た。
「新しいの、探しにくいでしょう。ここ。前と同じ順で出るから」
画面の端を、指で示した。私は、その指の先を見ていた。
隣の島から、声がした。
「ほんとだ」
小さい声だった。誰に言ったのでもない。
日野さんが、そちらを向いた。
「何が」
「いや、新しいマクロに書いてあって。見えるところで待ってればいい、って。ほんとに来るんだなって」
若い子は、笑いながら言った。
「何それ」
日野さんも、笑った。
「あとで見るわ。向こうに、まだ呼ばれてるの」
自分の席には寄らずに、また入口のほうへ出ていった。
読まないでいてほしい、と思った。消えるまで。日野さんに、何かを、してほしくないと思ったのは、はじめてだった。
四時前に、一覧から行が消えた。
「あ、消えた」
「テストのやつ、ぜんぶ?」
「撮っといてよかった」
行のあったところは詰まって、上と下の件名がつながっていた。番号も、日付も、回数も、なくなっていた。
指が、動いた。
待たせていた人に、返した。閉じるまで、返した。
六時前に、日野さんが戻ってきて、鞄を持って、私の席に寄った。
「宇津木さん、あれ見た? 手順どおりにやったのに、ってやつ。よかったって、みんな言ってたのに、消えちゃったんですって。明日、業者さんに、戻してもらえないか聞いてみるわ」
頭を、下げた。
「おつかれさま」
もう一度、下げた。
日野さんは片手だけ、ひらりと振った。それでいい、というふうに。
◇ ◇ ◇
今日の返信、十九件。
今日の発話、「すみません」一回。




