第二十七話
天露村の山道は、神社の裏手にある。
子供の頃は、この山に入るなと教えられていた。
今、この山道を使って逃げることになるとは思ってもいなかった。
直哉の運転で、山道をしばらく軽トラで進むも、道幅が狭くなり無理となる。
それでも、けっこうな距離を稼げたと思う。
木佐呉へは、この山を越え、その先でもう一山越えなければならない。
俺は、今の体力では無理だと感じた。
朝から、ここまで動き続けてきていた。途中、何度も休憩をとったが、それは呼吸を整える程度だ。
軽トラを降りて、その場で膝を土につけた。
四つん這いで、地面を見つめる。
顔をあげると、真っ暗な空の下で、村のあちこちから炎があがっていた。
「おい、大丈夫か?」
親父に声をかけられ、逆に胸の具合を尋ねる。
「親父こそ、胸は?」
「痛むが、呼吸はできる。お前は?」
「限界だ……動けない」
運転席から、直哉が降りてきた。そして、助手席の宏君が俺に駆け寄ってくるも、明らかに俺の様子がおかしいので、いつもの元気な挨拶がない。
「おじちゃん、どうしたの?」
「ごめん。ちょっと疲れて」
俺はそこで、真帆を見た。
「頼む。彩花とお母さんを一緒に」
「……あんたは?」
「動けない」
俺は次に、親父を見る。
「休んで、追う。今のまま、一緒に行ったら足手まといになる」
「じゃ、俺がお前を背負う」
「やめてくれ……怪我人のくせに」
直哉が、俺の前で膝をついた。
「本当に動けないか? 根性ないだけか?」
「今朝、三時から走りまわって……無理だ。お前は宏君と菜々美さんの心配してろ」
「わかった。お前、かっこよかったんだな?」
「当たり前だ。彩花とお母さんをお願い」
直哉は、俺の手に鉈を持たせた。
「逃げる時、武器に持ってきた。お前にやる。木佐呉の市民病院に谷本さんを連れていく。そこに来い」
「嫌です」
彩花が、声をあげた。
俺は、直哉に手を払う所作をする。
早く行け。
彼に伝わり、真帆とお母さんが、彩花を両脇から支えるようにした。
彩花は、懸命に立ち止まろうとする。
「嫌です、先輩と一緒に……嫌です」
真帆とお母さんは、彼女の意思を無視して離れていく。
親父は、残った。
「息子を置いて行ったら、母さんに殺される」
「……」
軽トラの後部タイヤに背を預けて、座った。
バッグから、水を取り出す。
親父と、一口ずつ交代で飲んだ。
親父が、俺の隣に座る。
眼下の村は、真っ暗な空のせいで、ひどく暗く沈んで見えた。
風が生ぬるく、焦げ臭い。
ガサガサ、という音がした。
俺は、鉈を構える。
「どうした?」
親父は緊張しておらず、俺は焦る。
「いや、音がしてるだろ」
「音?」
前方の茂みが揺れる。
立ち上がろうとしたが、力が入らない。
「親父!」
思わず叫ぶ。
だが、茂みから現れたのは、白猫だった。
白猫は、スタスタと俺に歩み寄ってくる。
親父には、まったく猫が見えていないらしく、「なんだ?」と周囲を眺めていた。
白猫が、俺の隣にちょこんと座る。
「親父、猫だ」
「猫? どこに?」
「ここに」
俺は視線で、真横を示した。
親父には、やはり見えていないらしい。
「じゃ、やっぱり俺には見えないんだよ」
親父が言い、立ち上がった。
そして、南を指さす。
墓地の上空を中心に、四方に走っていたひび割れはついに空を裂き、赤黒い光を放っていた。
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例の、咆哮が聞こえてきて目を開いた。
スマートフォンの時計を見ると、午後五時過ぎ。
何度も目を覚ましては眠ることを繰り返した俺は、喉の渇きで足元のペットボトルに手を伸ばす。
親父が、ペットボトルを取ってくれた。
「どうだ?」
「……なんとか」
思ったより時間が経ったが、立ち上がってみると、歩けるほどには回復しているように感じる。
水をゆっくりと飲む。
残っていた水は二本。そのうちの一本を今、飲み干した。
「大丈夫か? 無理なら、もう少し休もう」
「いや、歩ける。進もう……空がやばいし、化け物の叫び声があちこちから聞こえる……山に迫ってないか?」
「逃げているんだろう。猫、まだいるか?」
「え?」
俺は、足元にちょこんと座っている白猫を見る。すると猫は、俺を見上げて瞬きをした。
「ここに」
親父は、俺の視線で、猫はそこにいると感じたようだ。
親父がしゃがむと、見えていないのに猫へ話しかける。
「こいつのこと、よろしく頼みます」
猫は、親父を見上げて、ゆっくりと瞬きをした。
俺は、手足をゆっくりと動かしながら口を開く。
「おかげで休めた。行こう」
「よし、先を歩く」
村を、眺めた。
眼下の村は暗い空の下というだけでは説明がつかないほど、黒く染まっている。そして、川筋が、不気味に赤く光りを放っていた。
天露神社の境内広場と思われる場所も、同じく赤褐色の光を放っている。
そして、あの化け物のものと思われる咆哮が、また、あちこちから聞こえてきた。
親父が、スマートフォンのライトを点灯して、道を照らす。
「電池、大丈夫か?」
尋ねると、肩越しに笑みを見せられた。
「モバイルバッテリー、二つ持ってる」
「すごいな」
「間違えて、二つ、注文したんだ、ネットで」
親父らしいと笑い、歩き出した。
俺のすぐ横を、猫がトコトコと歩く。
化け物に追われていた時、この猫は俺を助けてくれた。そして、円陣から飛び出した時、消えた。
本当に、危ない時だけ現れて、助けてくれるのか?
でも、神社でちょこちょこと動いているのを見かけていた……あの時は、別に危ないことなんてなかった。
考えすぎか。
頭上では、空を割る赤いヒビがはるか彼方まで伸びていて、この異常はニュースになっているに違いないと思う。
生ぬるく、血なまぐさい風で、俺は鼻を鳴らした。
暑さだけでもうんざりなのに、肌にまとわりつくような気持ち悪さに不快感が増した。
歩き出してすぐ、例の、誰かに見られている感覚に襲われる。
足元を歩いていた猫が、不意に飛びついてきた。
両腕で抱えると、肩に乗って頭上を見上げた。
俺は、上を見てはいけないという直感を信じて、親父の背だけを見て、歩く。
後ろのほうから、あの咆哮が聞こえてきた。
そして、人の悲鳴も。
親父が、肩越しに後方を見る。そして、俺に尋ねた。
「いざとなったら、走れるか?」
「……無理だ」
親父が、スマートフォンのライトを消した。
「どうした?」
真っ暗闇の中で、どうして消灯したのかと問うと親父が俺の手を掴む。
「こっちへ。光はあいつらに位置がばれる。目を慣れさせて、行こう」
「……」
俺が頷こうとした時、肩の猫が短く「にゃ」と鳴いた。
追われていた時のことを、思い出す。
「親父、ダメだ。あいつら、こちらを認識したら見えていなくても追って来る」
「え?」
「午前中、俺が追われていただろ? 隠れても、追ってきた。まるで、俺が移動した後をたどるように……」
親父が再びスマートフォンのライトをつけ、歩き出す。その後ろを歩きながら、いつの間にか肩の重みを感じなくなったと思い視線を転じると、猫が消えていた。
頭上には、やはり何かの気配。
後方では、聞こえていた人の悲鳴が消えていた。
「山頂だ」
親父が言い、鳥居を指で示す。
赤い鳥居と、その奥に祠があった。
しかし、すぐに異変に気付いた。
祠の影から、人の足が見えているのだ。
心臓が、強く跳ねた。
身体が、ぶるっと震える。
親父も動くことができず、祠を睨んでいた。
「だ……誰かいるのか?」
親父が声をかけたが、その足は動かない。
頷き合い、二人でゆっくりと近づく。
鳥居をくぐり、祠の後ろへと回り込んだ。
男が地べたに座り込んでいて、力のない瞳で俺たちを見上げる。
「小林……」
俺は、男の名前を口にしていた。
小林宗一郎が、そこにいたのだ。




