最終話
「生きているか?」
声をかけたのは、親父だった。
小林は、その声に反応して目を動かす。
親父、俺を順に見た後、無表情のまま口を開いた。
「見えないんです」
見えない? ミライをか?
「何が?」
親父の問いに、小林は諦めたように首を左右に振った。
「私には、見えません……東間村長も、父も、ミライを見て黄泉返ることができた……私よりも下の者も幾人か、ミライを見て黄泉返ることができた」
小林は、そこで俺を見上げた。
「父を説得して、教団を作り上げて……十年近くも努力を続けて、ようやく出口を開いたというのに、私には見えない」
親父が何かを言おうとしたが、俺が腕を掴んで止めた。
「親父、行こう」
「……この人、知っているのか? 教団の人か?」
そうか……親父は会ったことがないから。
「教団の青年部理事の小林と名乗っていた。班目と名乗っていた教祖の息子らしい」
「……立てるか?」
親父が、小林に手を差し出す。
「おい、親父。こいつは――」
「この人は、生きている。放っていけないだろ? こんな時に」
「……人がよすぎるよ……高木さんも、こいつらが殺したかもしれないんだ」
俺の言葉に反応したのは、親父ではなく小林だった。
「必要なことでした」
彼の言葉は、短かった。
親父の表情が、歪む。
俺は、胸倉を掴んで、その顔をあげさせた。
「お前ぇ!」
俺が怒鳴った瞬間、小林が俺を見て、驚愕の表情となった。
初めての変化で、俺は怒気よりも驚きで動きを止める。
「トモ、やめろ」
親父の声。
俺は、目の前の小林が、視線をゆっくりと俺の頭上へ動かしているのを見た。
そして、宙を食い入るように見つめる。
両目を、限界まで見開いて。
あの、気配を小林も感じているのだ。
彼が、ゆっくりと立ち上がる。
その視線は、俺の頭上に注がれたままだ。
「小林、見るな」
俺が小林の肩を掴むと、彼はハっとして俺を見る。
「む……村上さん、ミライがあなたを見ています」
「やめろ」
「どうして? 私は見ることすらできないのに」
頭上の気配は、明らかに近づいてきていると感じた。
手を伸ばせば、届きそうな距離に、何かがいる。
親父が、俺の頭上と小林を交互に眺めながら口を開く。
「何かあるのか? ともかく、行こう。残っていては危ないから」
「私は、見ることすらできないのに……どうしてあなたは、ミライに見てもらえているんですか?」
小林は、震える声を絞り出した。
俺が彼の肩を揺さぶると、目を伏せる。
「私には姿すら見えないのに……あなたを見ていることだけは、わかる……私は、ここにいます」
「君、ここにいたら化け物が来る」
親父の警告にも、小林は応じない。
彼は再び、地べたに座り込んだ。
「村上さん、世界はもう裏返り始めています……これまで表だったものが裏に、裏だったものが表に……遅かれ早かれ、ミライを見ることができない者は、存在を認められない世界になります」
親父が、諦めたように溜め息をつく。
俺は、小林を一瞥し、親父に言った。
「行こう」
「わかった」
頭上の気配は、やはり近い。
そして、後方……足音が、聞こえてきていた。
あれが、向かって来ている。
「先を歩け」
俺は頷き、親父のスマートフォンを受け取った。
暗闇を照らして、山を下る。
こちらは徒歩。
化け物の速度よりも、明らかに遅い。
追いつかれる。
どうしようか?
隠れるのは、無駄。
考えながら、下り坂を進む。
「トモ、振り返らず聞いてくれ」
「何?」
「俺は、さっきの彼をやはり連れて行く。お前はこのまま、先に行け」
振り返ろうとしたが、親父に背中を押された。
「行け。戻るな。彼女が待ってるぞ」
数歩、よろめいて立ち止まる。
慌てて、後ろを見た。
親父の背中が、暗闇へと消えていく。
「親父!」
叫んだ。
返事は、なかった。
立ち尽くす。
動くことに、躊躇いを覚えた。
身体が、震える。
呼吸が、浅く早い。
そして、何かに見られている気持ち悪さ。
「行け!」
親父の声が、聞こえた。
姿は、見えない。
「木佐呉の市民病院で待ってるから!」
俺は、暗闇へ叫び返した。
返事はない。
わかってしまった。
俺は、わかってしまった……。
どうして、親父が戻ったのか。
もちろん、小林を放ってはおけないという気持ちがあっただろう。
だけど、それ以上に、親父は俺を逃がすために……。
俺は、目が熱くなるのを自覚しながら、前を向く。
涙を腕でぬぐい、歩き出した。
-・-・-・-・-
スマートフォンの画面を見ると、午後十時をまわっていた。
親父と別れてから、ずいぶんと経つ。
疲労が再び、俺の手足を縛った。
バッグから水を取り出し、少しずつ、ゆっくりと飲む。
不思議なことに、空腹は感じない。
だけど、身体が重く、膝は限界だった。
そして、不気味な気配を感じ続けている。
心も、限界だった。
上を見ろという欲求が、俺の中で大きくなっている。
だけど、本能がそれに抗っていた。
だめだ。
きっと、それはだめだ。
数歩、歩いたところで脚がもつれ、木の幹にもたれかかる。
ここで、耐えがたい睡魔に襲われて目を閉じた。
だめだ。
眠るな。
だけど、もう無理だ。
どうして、俺だけが。
血なまぐさい風が、俺の顔を撫でた。
目を開き、頬に落ちてきた水滴を指でぬぐう。
ぬるっと、していた。
上を、見てはだめだ。
俺は、目を閉じて耐える。
動けない。
耳もとで、息遣いが聞こえる。
何かが、まとわりついてくる。
触れられてはいない。
だけど、それに覆われているような感覚に咽る。
怖い。
逃げたい。
だけど、身体が動かない。
目を、閉じろ。
じっと動かず、それの気配が消えるのを待つ。
また、耳もとにその息遣い。
歯が、ぶつかり合う音が聞こえた。
もうすぐそこに、得体のしれない何かがいる。
俺は抗うように、その場に蹲り両耳を手でふさいだ。
そこに、いる。
見れば、楽になる。
それを、見たら解放される。
そうだ。見てしまえばいいんだ。
どうして、俺はこんなに抵抗している?
俺は、目を開いた。
うずくまっていた俺には、両肘と両膝、そして地面が見える。
じゃりっと、土を踏む音とともに、それが視界に入った。
白い、人の足のように見えるが、指も足首も、逆に曲がっている。
息を呑んだ。
声にならない叫びをあげた時、耳もとで、聞こえた。
「ミライ」
俺は、何かに頭を掴まれた。
叫ぼうにも、声が出ない。
直後。
猫の、鳴き声を聞く。
俺はそこで、意識を失った。
-・-・-・-・-
眩しさで、目を開く。
病室。
蛍光灯が、目に入った。
ここは?
身体を起こそうとすると、腕に繋がれた点滴が目に入る。
「あ! 起きた!」
声がしたほうを見ると、真帆だった。
「真帆?」
「トモ! よかった!」
彼女は笑みを作ると、起き上がろうとする俺の肩に手を置く。
「寝ていて。皆を呼んでくるから」
みんな?
「ここは?」
「木佐呉の病院よ。あんた、おじさんに担がれていたところを、救助隊に見つけてもらったのよ」
親父が?
親父が、助けてくれたのか。
真帆が、廊下に出て手招く動作をした。
「起きたのか?」
直哉の声。
「よかった!」
……彩花の声だ。
「おじちゃん会える?」
「ヒロ、飛びついたらダメだからね」
俺は、病室の開かれたドアを見ていた。
真帆が、皆を連れて病室へ戻ってきた。
「がんばったね! よかったぁ!」
「ああ、滅茶苦茶しんどかった……親父は?」
「隣の病室で、点滴中」
安堵した途端、疲労と空腹が一気に押し寄せてくる。
蛍光灯の眩しさから逃れようと、窓へと目を向けた。
カーテンは開かれていて、外が見える。
空は黒く、赤いひび割れが走っていた。




