サイドストーリー:相沢 香織の視点
実家の自室は、高校の時のままだった。
壁のカレンダーは止まっていて、机の上には使い古した消しゴムのかすが残っている。お母さんは変えようとしたらしいが、私が「そのままにして」と頼んでいた。なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。でも、どこかを変えたくなかった。
東京に来たのは、十八歳の春だった。
大学に進学して、就職して、雄大と付き合って、結婚した。それぞれのタイミングで「正しい選択をしている」という感覚があった。周りのペースと比べて遅れていないこと、親を安心させられること、先が見えていること——それが私にとっての「正しさ」だったのかもしれない。
雄大と結婚したのは、間違いじゃなかった。今でもそう思っている。彼は誠実だし、責任感が強い。ただ、ふたりの間に「温かさ」があったかと問われると、最後の頃はよく分からなくなっていた。
帰省の理由を、雄大には「少し休みたい」と伝えた。彼は「そうか」と言って、それ以上は聞かなかった。それが彼らしかった。追わない。でも、追いかけてきてほしかったわけでもない。ただ、少しだけ、話しかけてきてほしかった。
地元に帰って最初の週に、彰人と偶然会った。
商店街の、ちょうどスーパーの前だった。声をかけた時、自分でも驚いた。普段の私なら、もう少し考えてから声をかける。でも、彰人の後ろ姿を見た瞬間、身体が先に動いていた。
「彰人」と呼んだら、彼はゆっくり振り返った。昔のまま、少しだけ驚いた顔をしていた。
変わったな、と思った。佇まいが落ち着いていた。昔は、自分の居場所をどこかで探しているような、ふわふわした感じがあった。今の彼は、ちゃんと地面を踏んでいる。
その夜、布団の中で「なぜ声をかけたんだろう」と考えた。理由はいくつかあった。久しぶりだったから。昔から知っている人間に会ってほっとしたから。でも、本音を言えば——ずっと気になっていた人だから、だと思う。
私の「好き」は、ずいぶん長い時間、胸の中で眠っていた。
高校を卒業してからも、ふとした瞬間に彰人のことを思い出した。東京の人混みの中で、何でもない午後に、特に理由もなく。大学の友達に「昔好きだった人がいた」と話したことがあった。「今でも好きなの?」と聞かれて、うまく答えられなかった。好きかどうかじゃなくて、「あの時言えなかった」という感触が、ずっと残っていた。
彰人と再会を重ねるうちに、その感触が少しずつ形を取り戻してきた。
公園で、卒業式の話をした夜。あの時、私は勇気を出した。正確に言うと、もう隠しておく理由がなくなった、という感覚だった。
「私も、ずっと好きだったって言おうとしてた」と言った時、彰人は黙っていた。返ってきた言葉は「今は、分からない」だった。
それでよかった、と今は思う。
もし「俺も今でも好きだ」とすぐに言われていたら、私は逆に戸惑っていたかもしれない。私はまだ結婚していたし、離婚の手続きも始まっていなかった。答えを急がれることよりも、彰人が正直に言葉を選んでくれたことが、嬉しかった。
離婚が決まった夜、MINEで彰人に連絡した。「離婚することにした」という一文。送ってから、どんな返事が来るか少し怖かった。でも、「そうか。明日、会えるか」という言葉が返ってきた時、深く息を吐いた。
翌朝、公園で会った。
彰人は「今も、好きだ」と言った。まっすぐで、余計な言葉がなかった。泣いてしまったのは、それが嬉しかったからでも、驚いたからでもなく——十二年分が、やっと着地した感じがしたからだと思う。
「急がなくていい」と彼は言った。そうしよう、と思った。
春になった。実家に近いスーパーで、香りの良いシャンプーを買った。東京で使っていたものじゃない。地元で見つけた、新しいもの。
小さなことだけど、それが今の私には丁度いいと思った。
全部を一気に変えなくていい。ゆっくり、少しずつ。これからの話は、まだ始まったばかりだ。




